音楽への今日的アプローチ2


言葉と環境、声と空間

講義要項より。

音楽への今日的アプローチ 1999-2 --- ことばと環境、声と空間

前期と同様の形式で進める。前半数週で、音楽に隣接する1990年代の関係諸科学の知見に 基づきつつ、音楽を捉え直す知的な枠組みと具体的なアプローチの方法論を概説する。 特定の基礎知識は前提としない。だが、前週までの内容を前提とするため、自発的好奇心 をもって毎週講義に参加する意志のある学生の履修を望む。また、好きな音楽があること が望ましい。音楽の具体的ジャンル分け以前の「聴こえ」や「演奏」の実態を認知科学的 な視点から捉え、後期はとりわけ音声言語の聴取と、メディアやテクノロジー環境下での 意識という観点から、現実の音楽現象を考察するトゥールとしての知を学ぶ。後半では 具体的な音楽事例を検討する。ここではモテトゥスいらい1990年代に至る伝統的な西欧 音楽と同じ比重で、非西欧の民族音楽やポップスも取り上げる。評価はレポートとテスト を併用して厳正に行う。新たに獲得したトゥールをもちいて、自身が興味のある音楽対象 を科学的、社会的に考察するレポートを歓迎したい。教科書、参考書などは随時指定する。

追記(99年7月)

後期はとりわけネットワークの積極的使用により、登録者相互の思考の過程を共有して 思考錯誤のプロセスを互いに対照できる複雑システムとして講義と課題とをリンクしてゆきたい。 学生諸君の積極的な協力をお願いしたい。

音楽への今日的アプローチ2−1

 

                         9月28日  伊東 乾

第1回 ネットワーキング・・・いかにして、身体を横切る情報の網目を潜り抜けてゆくか

20世紀も終わろうという1999年「音楽への『今日的』アプローチ」と銘打ってクラスを考えるとき、私たちは何に注目しなくてはならないか。

21世紀以後の歴史の教科書は99年を「コソヴォ戦争」の年代として記録するだろう。受験参考書では年代暗記法のギャグなどが工夫されるとおぼしい。コソヴォ戦争は20世紀型の国際紛争形態とは明らかにことなる、これから私たちが直面するだろう問題を明確に示唆しているようにおもわれる。

1991年、スロボダン・ミロシェヴィッチらの動きを端緒として旧ユーゴスラヴィア内で勃発した一連の紛争のなかで、99年のコソヴォ事変へのNATO軍の介入は、ある意味では「独立した主権国家への内政干渉」と解釈することも可能だ。この「戦争」はそのような近代的な「(国民)国家」という枠をずらすという意味で、第一次大戦の引き金となった「サライェヴォ事件」とも比較されうる歴史的意味をもつように思われる。やはりバルカンは世界史の火薬庫に違いなかった。

コソヴォにおける民族弾圧に対する軍事介入の論拠は国連憲章第55条c項とされている。そこには「人種、性、言語または宗教による差別のない、すべての者のための人権及び基本的自由という普遍的な尊重及び遵守」が謳われている。軍事介入は国連安保理事会の承認をまたずして実行された。これは天安門事件に端的に見るように、人権と国家主権とを天秤にかければ、常任理事国である中国の拒否権が行使されるからであろう。

「国民国家主権」よりも「普遍的人権」を優先させるために国際的な軍事介入が行われるようになったという事態は、単純な歴史図式、例えば古典的なマルクス主義などの言説によってはまったく絡め取ることができない。この戦争を「人権論者=インターナショナリスト=平和主義者」という等式が成り立たなくなった契機、言い換えるなら「反人権論者=ナショナリスト=主戦論者」という等号をも否定する歴史的メルクマールと規定する識者もいる。「極右と極左が手を携えて戦争反対を叫んでいる光景はいささか奇観ではあるが、如実に時代の移ろいを感じさせる。」ハーバーマス、ジジェクなど欧米のリベラル系、ポスト・モダン系の主たる論客はこの介入をやむを得ないもの、あるいはむしろ積極的に評価すべきものとしてとらえている。スーザン・ソンタグと大江健三郎の往復書簡は朝日新聞紙上で交わされたため、読まれた向きも多いだろう。ここで、かくも極端な段階まで主権国家の輪郭を曖昧にしてしまった力が、情報と経済のグローバル化、わかりやすくいうならインターネットに端的に象徴される様な、「ネイション」の枠と無関係に繁茂しつつある眼前の見えざるシステムの運動にその根源を持つのはいうまでもないだろう。

ソンタグと大江の往復書簡では、それらを微温なヒューマニズムで捉えて未来に見えざる期待をつなごうとする点が、双方ともにウイークポイントとなっている。むしろ紛争当事者ではないながら、このような事態を出来しているグローバルなシステムにより直結してアクションできる立場にいる私たちは、体温より高いヒューマニズムの熱からひとまず下がって、出来事を冷静に捉え直す視座を持つべきだろう。例えばポール・ヴィリリオはメディア・システムの変容から90年代の転換を「地政学から時政学へ」の転換と位置づけている様だ。(私自身、これらの問題について現在書物を準備しており、未だ完成された話でないことをあらかじめお断りしておく。)

世界分割、世界再分割といった地政学的な空間の分割占拠はすでに問題ではない。市場を大きく動かす経済商品、たとえばデリヴァティヴのようなものは、あくまでサイバースペース上にのみ存在していること、むしろそのような電脳空間における情報は、実空間では時間として機能すること、それに注意しなくてはならない。時間が価値を決める。情報の鮮度はそれ自身価値を生む。それらシステムが、私たちの生身の身体を巻き込んで、市場を動かしあるいは空爆で人命を奪い、歴史的建造物を破壊して行ったりもする。

先にやや批判的に引用したソンタグであるが、大江との上の書簡で重要な指摘をしている。すなわち、20世紀に立ち現れた様々な特徴的現象のなかで多くの人間は「コミュニズムとその超克」というストーリーに注視しがちだが、本当に超克されるべきなのに、実はいまだそのまま放置されていて、暗に私たちを支配しているものとしての全体主義、ファシズムの問題性である。確かにファシズムは20世紀の産物である。フランス革命、ウイーン会議以来の19世紀の西欧、あるいは日本における明治維新とその後の拡張路線(征韓論、大東亜共栄圏等々)を想起しても、そこに「ファシズム」が確認されるのは20世紀以後の現象である。世界分割、世界再分割といったプロセスの中で、メディアによって張られた情報の網の目が地球全体を取り囲む。端的にいえば、ラジオ放送とシネマトグラフ、さらにはテレヴィジョンという非筆記的な情報メディアがいかに全世界をネットワーキングしてきたか、その歴史的段階によって、立ち現れるファシズムの相もまた異なるのである。

吉見俊哉らの詳細な跡づけを参照しつつ、イタリア・ファシスト党やナチス・ドイツの勃興と覇権、あるいは「ニュー・ディール」と平行して放送されたルーズベルト大統領の「炉端談話」などを考えても、20世紀前半におけるファシズムの在りようとラジオ・メディアとは極めて密接な関わりを持っていることが明らかである。前期に履修した諸君は、チャールズ・チャップリンの映画「独裁者(1939)」の圧倒的な声と画面とを記憶しておられると思うが、声が、あるいは画面が人をして個人の意識が気づく以前に物事に駆り立ててゆく事実は、決して20世紀前半で終わっている話ではない。90年代以後の状況でも、ルワンダ内戦やアルジェリア紛争におけるラジオ放送や音楽情扇が人間のシステムに同じように働きかけること(フツ族の放送が呼びかけてツチ族が虐殺されるのと、ゲルマン族の放送が呼びかけてユダ族が虐殺されるのと、いったいなにが違うというのだろう。)時代を物理的な時間で計ってはいけない。ある状況をどのようなメディアが網羅していて、身体はどのようにそれによって規定されているのか、それを冷静に見とる第三の眼、「離見の見」とでもいうべきものを絶えず見続けてゆくことが重要なのだ。

今期、私たちはインターネットなど、私たちの日常を取り巻くメディアを積極的、かつ意識的に用いて、音声と音楽の問題を扱おうと考えている。前期も幾度にもわたって繰り返した通り、「音にあっては必ず、気づきは行為に遅れる」のだ。それがもっとも端的に現れる一つが「声」の問題系である。人間は声によって左右される。遠回りしたようだが、やっと出発点に到達した。「音楽への今日的アプローチ」として声の問題系を、私たちの直面する時代やメディアと正面から対峙して、半年間考えてみようという訳である。

とはいえ、別段奇を衒う話ではない。例えばこんな話がある。

この夏、川の中州でキャンプしていて、土石流に流されて命を落とした人々がいる。流される直前まで、携帯電話(かPHSかは定かでないが)などのモヴァイル・フォンによって、彼らは外部と交信し続けていたらしい。家族の声が聞こえることによって、安心し、また励まされ側面もあるのだろう。だが逆に、安心してしまったことによって、目の前の物理的現実の事態、すなわち土石流の到来に対して適切な措置を取れなかったという側面もあるように聞いている。声の場は身体を媒介して知覚空間自体を変質させる。亡くなった人の声を録音で聞きながら目を閉じれば、まるですぐそこに座っているような気になることもある。中州で命を落とされた方々は、ヴィリリオの表現を借りるなら「時政学」的な意識が土石流という「地政」の圧力そのものによって流されてしまったと言えるだろう。複雑系による音声メディア・ポリティクスの戦略、などといっても、実際にはかくも身近で、かくも当たり前のことで、いかに賢明でありうるかという、その一事につきるのである。

インターネットによるネイションの枠の曖昧化、と対応するようなもう一つの事例を挙げたい。夏休みの間、多くの中学高校生、あるいは大学生も含めて、髪の毛の色が大いに変わったりしながら、ほとんど一ヶ月程も家に帰らない、一部マスコミが「プチ家出」と呼ぶ現象が多々見られたという。普段でも、特に両親が共働きなどであれば、子供と親が顔を合わせる機会は極めて限定されつつある状況下、「友達の家に泊まってくる」といった表現で了解をとって、何週間も外で暮らす、あるいは時々家に帰って、また外に出るといったことが続く。実際には「友達の家」ではなく、深夜の街を徘徊し、時にはカラオケで夜を明かし、あるいは売春組織(これとて、モヴァイルで緩やかに組織された、極めて今日的なネットワークであることに変わりはない!)登録して、ホテルを転々としながら小遣いを稼ぎ、その過程で麻薬や覚醒剤とも関わり、運の悪い子はHIVなんかにも感染したりしつつ、また「二学期になりました」というわけで学校に帰ってゆくとか、あるいはそのまま学校には行かずになりました、といった推移が見られるらしい。(「テレクラ論」で名を上げた宮台真司あたりがこういう現象をどのように見るのか(想像はつくけれど)様子をうかがっているのだが・・・。)

このような現象を裏から支えているのも、モヴァイル・フォンである。必要があればどこにいてもいつでも親は連絡がとれる、と思っている。また「元気そうな声」が聞ければ、親はとりあえず安心する。いったい娘が、あるいは息子が、どこで何をしながら電話を取っているのか知りもしないで。映像のない声だけのメディアは、だから、恐ろしい。ナチスの情扇、ルワンダなどファシズムの凶暴な初期段階と「声だけのメディア」は深く関係する。(逆に映像が強く付加されると、情報は劇場化することになる。湾岸戦争のスカッドミサイルやらパトリオットの映像をみなさんは記憶しておられるだろうか。視聴覚メディアは世界を劇場化する。私たちは見物料90億ドルを支払い安全な桟敷席からそれを見物したのである。)とまれ、声は存在を錯覚させる。あたかもネットワークがネイションを曖昧化するように、モヴァイル・テレコミュニケーションが「家族」あるいは「家」という物理的制約を曖昧化してゆく。ヴィリリオの表現「時政学」はここにおいて情報を時間として雄弁に記述するだろう。どこにいるか、が問題なのではない。その時間の時間的不確定性をモヴァイル・フォンは担保する。そうでありながら、緩やかな形で、極微の変化かもしれないが、携帯電話は確実に家族の制度を内側から変容させる。逆にこれを監視のシステムとして使う、セキュリティの開発も存在している。だがむしろ、指数的に上昇する事物の移動の可能性を網羅するコントロールの計算速度は期待しづらく、ファミリーもまたネイションとともに、ある輪郭の曖昧なものとして現実的に変容してゆくのであろう。家長と子の関係に比肩して構想、構成された日本近代型のネイションのシステムもまた、ここである種の変質を遂げざるを得ないだろう。事物の変化も、また反動も、この種の問題は当初アトモスファーとして到来する。実際にそのようなメディアや身体、声や音の政治的変化があるではないか。新しく定められた「ラジオ体操」、法律が規定した旗や歌の話もあった。忌野清志郎のようなリアクションに流し目を振るだけで、物事を忘却してよいものかどうか、といった話は、ここでの内容としてはディープなので、ひとまず留め置くこととしよう。

みなさんの中にも、この夏、飲み会や旅行などの機会に一度位は携帯電話で嘘をついたことのある人も少なくないのではないか、などと邪推してはいけないか・・・これだけでは、やや穿ちすぎた見方かもしれないが、川の中州のキャンプと同じく、声さえ聞こえれば何かが納得され、安心されてしまう。「**子と一緒に旅行にゆく」といって実際は彼と彼女の二人だけ、なんて、どこにでもある話でしょう。そういう意味では、恋人と初めてのデートなんていうのも、しゃべっている内容がどうこうではない、その声の質感、肌触り(声の肌理、なんてことを言う)にふれることが重要であるらしい。(デズモンド・モリス『裸のサル』角川文庫 などを参照してみられたい。)声の存在、声のプレゼンスがいかにヒトの主観的な判断、あるいは納得の審級と深く関わっていることか。慶応も含めて、あれだけ多くの優秀な人々がオウムにコロッと参ってしまった事実を「マインド・コントロール」などという正体不明の一語に集約してよいものだろうか。声は気づき以前に身体を支配する。自分自身を含めたそのシステムを、どのようにして「生きたまま」対象化してゆけるか? これが、ここでのクイズの課題である。

今期はそのような問題に、仮設的な立場をもう一つ付加してみよう。あなた自身も含めたシステムの中を、情報がどのように動いてゆくか、それを考えてみたいのである。

情報は、あるプロセスにおいて 

1 入力 IMPUTされ、 

2 変換TRANFORMされ 

3 出力OUTPUTされる

という経過を踏む、と仮に考えよう。音情報としての声がいかに「入力」され「変換」されるのだろうか。前期の反省としてレポート課題の手法を自由にした結果、かなり主観的な感想を結論として前提したものが見られたように思う。立派に調べられたレポートであっても、最初から見えている結論を証拠の物量戦で固めてゆくだけでは、そこいらの電通や博報堂のレポートと同じで大した信頼を寄せるには値しない。むしろ、見えない結論を模索してゆくプロセスを踏むこと、そのためにあえて、このような仮設的立場を取ってみることを薦めてみたいのである。詳細は来週以後、一緒に考えてゆきましょう。

このような背景を持って、みなさんにURL(ホームぺージ)を開設していただきたいと思うわけです。

学期はじめでもあるので、幾つか参考書を示す。

声に関する平易な参考書

宮本健作 「声を作る・声を見る 九官鳥からヒトへ」 森北出版

小西正二 「小鳥はなぜ歌うのか」 岩波新書

正高信男 「ことばの誕生 行動学からみた言語起源論」紀伊国屋書店

システムに関する平易な参考書

井庭 崇、福原義久 「複雑系入門」 NTT出版 

(SFCの院生が書いた良心的な入門書。)

マトゥラーナ、ヴァレラ 「知恵の樹」 ちくま学芸文庫

ややハードな参考書(というか、線型代数などの知識があればラクな本)

マトゥラーナ、ヴァレラ 河本英夫訳「オートポイエーシス」 国文社

プリゴジン 「確実性の終焉」 みすず書房

関連する解説のある読み物

伊東 乾 「声のエヴォケーション」 『現代思想』98年2月号

           (いとうけん 作曲-指揮、システム構築)

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