指揮者の仕事


ベネッセ「オーケストラの鼓動」所収より抜粋

指揮者のしごと

伊東 乾

指揮者は本当に必要なの?

 ん、いったい何をやっているのか、よくわからないって? 確かにそうだろうなぁ。舞台上でたった一人、お客さんに背中を向けて、自分が音を出すわけでもなく、何か棒を振り回したり目配せしたり。いろいろやっているようで、実は何もしていないんじゃないか? って、まったく先入観のない人から言われることもよくある。指揮者なんかいなくてもオーケストラは演奏できるんじゃないかって、実際その通りで、下手な指揮がせっかくのオーケストラの演奏を邪魔して台なしにすることは、まあここだけの話、日常茶飯事です。指揮者なんかいなくても、オーケストラは立派に音楽を演奏できます。じゃ、なんで指揮者がいるのだろう、指揮者は何をしてるんだろうという素朴な疑問は、抱かれて当然のこと。ずっと以前、指揮者の由来とか歴史的な事柄については別のところで喋ったから(*1)、今日は、現実の指揮者の仕事について、本当のところをお話ししましょうか。

聴いて導く、それが指揮者

……そうですね、まあ端折って言えば、指揮者の仕事は、その場で出ている音を聴いて、それを望ましい方向に導いていくこと、とでも言えるかしら、ちょっと乱暴過ぎるけど。指揮者のことを英語で「コンダクター」って言うでしょ。これは「共に(コン)」「導く(ダクト)」という意味だし、ドイツ語でも「ディリゲント」つまりディレクターね、方向づける役ということになる(でも、テレビ局のディレクターとオーケストラの指揮者ではちょっとイメージが違うよね。だけど現実に仕事している感覚としては、テレビのディレクターと指揮者とは通じるものがたくさんある。実際に喋ったり演じたりするのは出演者で、自分がその立場に替わるわけにはいかない。イッセー尾形でもなければ、一人で女優になったり老け役になったりはできないんだから。でも、出演者全員の「仕事」をより良いものにするべくみんなを助け、全体がうまく流れてゆくように導くこと、それが「ディレクター」の仕事で、これって指揮者のあるべき姿そのものでしょう!)。フランス語でも同じで、指揮は「ディリジェ」と言いますけど、指揮者は「シェフ ドゥ オルケストゥル」、つまりオーケストラのシェフという言い方をする。これはわかりやすいよね、シェフだもの。みんなが持ってきてくれた最高の食材のような良い演奏、プレイを、一つの「料理」、一つの「コースディナー」にまとめて、良い状態でお客さんに召し上がっていただく。実際、古典派時代の作曲家、ハイドンなんかは、王侯貴族に召し抱えられる楽長として、ちょうど料理長と似たような立場にあったみたいだし。お料理のシェフは食べものをより美味しい方向へ導き、われわれ指揮者は音楽をより美味しい方向、より望ましい方向へ導くのが仕事というわけ。まあ、この「望ましい」ってあたりが、実はとても難しいのだけれども。

プロフェッショナル・リスニング

 でも、その前にちょっとさっきの太字を見直してほしい。この「その場で出ている音を聴いて」というのが大事なんだ。音楽の言葉では「ソルフェージュ」って言うけれど、先入観や錯覚でなく、そこで出ている音ありのままをしっかり聴き取る耳をもつというのは、実はなかなか大変なことです。演奏家、プレイヤーというのは、良い音を出すことに一生を賭けているプロです。で、プロのオーケストラというのは、演奏している一人ひとりが音楽大学の講師から教授クラスのプレイヤーで、そういう一国一城の主たちが、厳しいオーディションを経てそこに座っている。言ってみれば音大の教授会が一まとまり、雛壇の上に並んでいるようなものです。そんなみんなが出してくれる音を、一つひとつしっかり受け止める=アプリシエイトする良い耳をもつこと。この「良い」というのに解釈みたいなこともすべて含めてしまうなら、指揮者の仕事は極言すればここに尽きると思う。要するにプロフェッショナル・リスニングですね。きちんと聴きちゃんと導く。この骨法は東京でもベルリンでもウィーンでも、ロンドンでもシカゴでもおよそどこでも通用する基礎の基礎で、かつ究極の到達点かもしれない。

 演奏しているのは生身の人間とアコースティックの楽器で、シンセサイザーの打ち込みみたいに自動的に音が出てくるわけではない。そういうみんなを常にケアして、全員が最高の状態で演奏できるように目を配り気を配る。人間集団の調整という意味では指揮には心理学の側面も大きい。特にオペラなんていうのは、楽器に加えて歌手や合唱団、舞台演出関係などが入り乱れてくる。とりわけ歌手は身体そのものが楽器なわけで、こっちとしてはケアし過ぎるということがないくらい。単にソルフェージュという点だけから言っても、言葉やら音程やらリズムやらが劇場のあちこちから乱れ飛んでくる、もう大変な情報量です。で、歌手や器楽など一○○人からの、職人気質の高いプロフェッショナル大集団があっちこっちから出してくるあらゆる音を、すべて瞬時に明確に聴き取り聴き分ける、アプリシエイトする。で、音程やリズム、発音その他、何か問題があればそれを一瞬で聴き出し、その解決策を瞬間的に出さねばならない。それを、もう理屈だのなんだの頭や机の上の仕事ではなくて、反射神経のレヴェルで、まちがいなく実行する。それも、すべてのプロに対する最大の配慮をもってやらなきゃいけない、ジェントルに、音楽的に。それがプロの指揮者というものです。よく誤解があるけれど、芝居の演出家なんかに稽古場で役者を怒鳴りつけたり、ものを投げたり暴れたりするイメージがあるでしょう。そういうのと似た専制君主として指揮者をイメージするのは、ほとんど正反対の大まちがい。オーケストラの演出家としての指揮者は、そんなマナーでは通用しません。声楽でも器楽でも、演奏はプレイヤーがもっともよくリラックスし、かつもっともよく緊張したある平衡点から出発して、一挙に離陸、飛翔しなきゃならない。そういう微妙なバランスを保った指揮者の仕事はきわめてデリケートです。楽器もみんな高価だし、フェリーニの映画じゃないんだから、暴れるなんてそんな、冗談にもなりません。オーケストラの指揮は軍隊の指揮なんかとは似ても似つかない、およそ非暴力的で、指導するとか教えるとかともほど遠いもの、要するに、優れた音楽家による「演奏」なんだという実に基本的で簡単なことが、結構忘れられやすいような気がする。何か特殊な「指揮者」というものを考えるのが不自然なんですよ。

指揮は誰にでもできるの?

 え? じゃあ指揮は誰にでもできるかって? それはイエス&ノーだなあ。何の準備もなくアマチュアが台に上がって指揮の真似事をしても、それこそオーケストラの演奏の邪魔をするだけになります。僕たちのテレビ番組(*2)でも、専門家でない人に指揮台に上がってもらうことがありますけれど、これはいままでオーケストラに興味の薄かった視聴者に、少しでも関心をもってもらうきっかけにという企画意図のもとに、出演者の方々にはできるかぎりの準備をしていただいています。一方で、小学校の音楽の先生なんかが、子供からベストの演奏をひきだす場合もよくあるし、指揮は決して限られた人間にしかできない特殊なことではない。もちろん「より良い指揮」と言い始めればきりがないわけだけれど。アマチュアの話とかだけでなく、プロの世界のもっと大きな現実として、毎年毎年二○代前半の若い人たちが、十分な必須の経験も経ることなしに指揮者コンクールの類で売り出されて、つぎつぎと消耗していくのはまったく可哀相だと思う。第二次大戦後から始まった、レコードで売り出してジェット旅客機で世界巡業するスター・ビジネスが、元来ゆったりと余裕をもっていた音楽作りの土壌を根こそぎにしていることは否めない。十分な経験や準備なしに指揮台に上がっても、本当にしなくてはならない指揮者の仕事なんか、ほとんどできないわけだから。  そんなあたりで、さっき言い残した「望ましい方向に導いていく」という部分を、もう少し掘り下げてみましょう。よく「解釈」なんて言いますが、「この指揮者の解釈はどう」「あの人のはこう」という具合に。さて、でもね、楽譜を解釈するためには、楽曲の成り立ちを知るうえで最小限のルールを理解していなくちゃ、少なくとも書かれている内容を読み取ることもできないでしょ。小説を読むのに言語や文法を知らなくてはお話にならないのと同じです。逆に文法だけわかっていれば小説が読解できるかというと、そんな馬鹿な話はないわけだけれど、指揮者が楽譜を解釈するというのは舞台演出家が上演台本を解釈するようなもので、必要があれば細部を書き換えるくらいの器量が必須です。ところで、西欧近代音楽の文法、例えば和声や対位法、フーガなんかに通暁して、自由自在に書き下ろすなんていうのは、二○世紀前半までの一級の指揮者なら当然身につけていた能力なのに、昨今の現状はちょっと違うみたいですね。和声などは基礎の基礎で、その上に立ってフレージングとかフォルムとかの様式の感覚、器楽法やオーケストレーションの感覚が枝葉を繁らせる。そういう音楽作りの本質に関わる、あって当然の基礎がないがしろにされて、なんとなく現場の上っ面を撫でて、ことなく仕事を流してゆくような本番が多いように思うのは、僕の気のせいなのかしら……。逆に、アッバードとかクライバーみたいに、まともな音楽教養と基礎をもった音楽家なら、必要ならウィーン楽友協会の図書室あたりで自筆の原典にも目を通して、正しい読みをすべてきちんと押さえたうえで、解釈の自由を最大に謳歌することができるのに。そういう「音楽の正義」みたいなものを実行するのも、指揮者の職業倫理として必要不可欠ですね。古楽器を復元して用いるアーノンクールやホグウッドの古典派交響曲へのアプローチなんか、まさにそういうものです。

 ところが、よくあるパターンとしては、きちんと楽譜を読めばほとんど正しい読み方が一つに決まるような箇所を、特に根拠なく浅はかに気分でデフォルメして、それを「解釈」と称している場合が圧倒的に多い。そんな「演出」以前に、まずオーソドックスなことをきちんとするだけでも、与えられた練習時間はとうになくなってしまうのにね。N響にシャルル・デュトワが着任したけれど、実にオーソドックスに仕事をする人という話で、基本的なことに関しても国内一うるさいN響でもしっかり勤まって、良い音楽作りがされているらしいのは、とても望ましいことと思います。もっとも、亡くなったチェリビダッケみたいに、明らかに誤ったテンポなり「解釈」なりから、別の音楽の実質をつかみだす場合もあるわけで、音楽の解釈に「絶対」はないということにもなるんだけどね。もっともチェリさんみたいな第一級の音楽教養人が熟慮のうえ意図して、初めてそういうことが可能になるわけだけれども。何にしろ、ややもすれば業界やマス・メディアが音楽を痩せ衰えさせてしまう。心あるリスナーの皆さんにいつも耳を澄ませていていただきたいと、あらためて強く思います。

良い指揮者に求められるもの

 では、指揮者にはどういう素養とか、準備が求められているのだろうという疑問が、当然次に沸き起こってくるでしょう。これについては、亡くなったバーンスタインがよく「あたかも自分が作曲したように曲を把握して、それを指揮する」という意味のことを繰り返し強調してられたけれど、そんなこと言ってもちょっとわかりにくいかもしれない。僕がよく学生さんに言うのは、一番好きな曲、一番自信のある曲は何かと訊いて、例えばベートーヴェンの「第三交響曲」と答えたとしましょう、じゃあいまここに真っさらの五線紙、スコア用紙があるとして、最初からすべて、何も見ずに再現してごらんなさいって言うと、大概が尻込みしちゃうんだよね。別に全部を暗記しろとかそういうことを言いたいわけじゃないんだけどさ、僕だって全部そんなことしているわけではないし。でも例えばマゼールみたいな人はかなりのレパートリーでそういう正確な再現ができるんじゃないかな。レヴァインだったら一○○曲以上ものオペラ・レパートリーの大半を、そらでぱらぱらピアノで弾いてしまうでしょ。西欧近代音楽では作曲家/指揮者とかピアニスト/指揮者というのが、わりとオーソドックスなタイプで、僕も作曲と指揮の立場から音楽と付き合ってきた見方から「再現してごらん」とか言ってしまうのだろうけど、これは決して変にうがった物言いではないと思っています(これが日本的業界人になると、作曲/指揮、あるいは演奏/指揮といった、西欧近代音楽の歴史の流れのうえで最も普通のミュージック・メイカーのあり方がどうも理解できない人がいて、例えば「ロストロポーヴィチはチェロでは天才だが指揮者としては才人だ」というような戯言で悦に入っている。自分の身体や生命を賭して、ショスタコーヴィチの歌劇『カテリーナ・イズマイロヴァ』を初演したロストロポーヴィチは、いまなお音楽の歴史を切り開きつつある大指揮者と言うべきだし、素晴らしい声楽伴奏ピアニストでもある。要するに優れた第一級の音楽人が演奏に立ち会って合奏をリードしている、お能にも「後見」というのがありますね、そういうことは何も言わなくても実際に生演奏に接すればわかることでしょう……)。確か桐朋学園高校の専攻分けにも「作曲・指揮コース」というのがあったのではないかしら。音楽作りの流れから考えれば、音楽の全部分を自由自在に再現・再構成できる能力なんてのは基本中の基本で、秋山和慶さんが桐朋を卒業される際には、確かドビュッシーのピアノ曲を、ご自身でオーケストレーションして、パートも作って、それを演奏指揮して発表されたと伺った記憶がある。これこそオーソドックスな音楽家のあり方です。生まれてこのかたスコア用紙にきちんと譜面を書き切った経験なしに指揮台に立っている人もいるらしいけれど、一体そういう人がどういうソルフェージュしてるのか、僕には想像がつかないな。指揮こそしなかったけれど、バッハは毎週日曜日のために新しい譜面を準備して、それを演奏していたわけだし、指揮者の草分けであるリュリやハイドンの時代も、音楽は日々作られ、日々演奏されるものでした。いまだって、ポップスで考えればアレンジはバンドリーダーの仕事の一部と言ってもよいでしょう。それもこれも基本は同じ音楽作り、ミュージック・メイキングだと思うんだけれども。どう思います?

オペラの指揮台に上がるということ

 それから、さっき「十分な経験や準備なしに指揮台に上がっても」と言ったけれど、それが最も顕著なのはオペラです。二○世紀前半までのオペラハウスは基本的にレパートリー制で、これはいろいろ弊害も指摘されるけれど、ともかく選ばれた演目を時間をかけて作って、繰り返し上演したわけです。それで、オペラハウスでの練習ピアノ奏者、コレペティターと言いますが、この仕事があらゆる指揮者の仕事の出発点にあった。歌手の音取りから始まってさまざまな稽古でのピアノ伴奏、音楽助手、副指揮、合唱指揮、あるいはプロンプターといったオペラを作る際のあらゆる具体的な補助の仕事を知ったうえで、初めて「本棒」としてピットに立つ資格ができる。オペラの指揮台に上がるというのはそういうことで、こういう経験なしには指揮台になんか恥ずかしくて立てたものではない、ということを、僕は先輩の大野和士さんに叩き込まれて、実際に現場でそのような数年を過ごす機会に恵まれたわけです。出口の見えない時期は結構厳しかったけれど。例えば歌手のアプリシエイションのマナーで失敗する、ソプラノとかテノールとかの偉い人に怒られて、ほとほと懲りたとするでしょ。そうすると管弦楽のリハーサルでも同じジェントルさでフルートにも金管にもハープにも接する路が開けてくる、とかね。僕の場合はおよそあらゆる失敗を失敗して、初めて懲りたようなものだったけれど、ともかく生身の人間から良い演奏を引き出すために、われわれはいかにあるべきかということを、理屈でなく身体で覚えていくには、不易流行というのかな、これに勝るものはないと思う。

 オペラから来た指揮者と言えば、現役では前述のレヴァインとかリッカルド・ムーティ、ザヴァリッシュあたりが最右翼になるのかしら。戦後世代ではミュンフン・チョンも、ピアニスト〜オペラハウスを背景に持つ秀才だと思います。トスカニーニ以後のイタリアの巨匠たち、デ・サーバタからパターネにいたるベルカント・オペラのマエストロの系譜は、直接の後継者である大野さんが詳しいでしょう。アッバードやカルロス・クライバーなんかも、十分な経験を踏んでから表に出てきた人だし、まるで別のタイプに見えるブーレーズも、若い頃は散々いろんな裏方をやっていて、そのブーレーズがバイロイトで本棒を振る裏を、ジェフリー・テイトと飯守泰次郎さんが支えていたり、あるいはバーンスタインのようにブロードウェイで自分のミュージカルを作ってしまうというやり方もある。ある意味ではこっちのほうがよりオーソドックスと言えるかもしれない。何てったって自分で作ってしまうんだもの。マーラーやリヒャルト・シュトラウス、あるいはツェムリンスキーなども、みんな「作る」音楽家/指揮者の系譜だし、エーリッヒ・クライバー、ジョージ・セル、ディミトリ・ミトロプーロス、ヘルベルト・フォン・カラヤン、ゲオルグ・ショルティなど、時代を作った大半の音楽家がコレペティターから出発している。もちろん、チェリストだったトスカニーニ、コントラバス出身のクーセヴィツキー、あるいはミュンシュやオーマンディなどヴァイオリニスト出身者など、別のタイプの大指揮者もたくさんいるわけで、これだって何が唯一絶対というようなものではないのだけれど。

振りに王道なく、指揮に極意あり

 そんな具合で、指揮棒にしてもそうだし(コラム参照)、唯一正当な指揮の方法なんてものも、実際存在しないのではないかな。もちろん基礎の基礎、図形とか、学校の指揮教程程度のものはあって当然だけれど、強調したいのは、指揮は振付ではないということ。唯一の「正しい振り方」王道なんてものはない。いくつもの正解があるし、無数のまちがいが横行しているのも事実です。だって、出てくる音によってリアクションが変わって当然だし、そうでなくては「その場で出ている音を聴いて、それを望ましい方向に導いていくこと」なんかできないでしょ。そこで出た音からどう変化してゆくか、そこで音楽作りが始まるのだから。もちろん基礎的なかたちをもっていることは仕事をするうえで必要不可欠だし、何かアクシデントがあったときの保険にもなるけれどもね。例えば「斎藤指揮法」が、日本的な「型」の伝承文化と誤解されるのは残念だ、もっと自在なものなのに、というようなことを、僕の子供の頃のチェロの師で、斎藤先生の初期の生徒でもあった、故・橘常定先生から伺ったことがあります。ちなみに、指揮法の身体訓練の一の一に「脱力」というのがあります。「ある瞬間に正確に筋を緊張させるためには、その直前に筋は弛緩していなくてはならない」とか、いろいろ理屈も言えますが、僕は脱力の最大目的はやはりソルフェージュだと思うなあ。全身の随意筋ができる限りリラックスして、余計な力がすべて抜けていくと、驚くほど耳が澄んで、ちょうどラジオの受信状態がさぁーっと好転するみたいに、音の方から耳にクリアーに飛び込んでくる。大体、身体所作なんかに一切気を散らさない方がいいね。

 あと大事なのは正しい譜読みに基づく正確で音楽的な呼吸、ブレスですね。例えば、入りを示す動き、アインザッツと言いますが、これが初心者には難しい、なんて言うわけだけれど、こんなのは正しい姿勢で正しく呼吸しながら、よく音を聴いてゆけば、良いプレイヤーなら必ずぴったりと入ってくれる。曲の本質以外のあらゆる余計な恣意(あるいは意図でも何でも)、そういうもの一切合切は、演奏を邪魔する「大振り」、無駄な力にほかならない。すべてを洗い尽くしたような、まるでセミの脱け殻のように透明な身体をもって演奏することが、あるべき指揮法のヒントだと思う。俗流評論家がおこがましくも「オーバーなジェスチュア」などと言う、例えばバーンスタインやカルロス・クライバーなんかが、いかに小さなエリアで、必要最小限の清潔な演奏をしていることか。ところがそういう指揮に限って大きく見えるんだな、これが。これは目の錯覚で、ひょっとすると「音楽にとって望ましい錯覚を与えること」が、身体所作としての指揮法の極意かもしれない……おっと、これは思わず、奥が深い本質的な話になってしまいました……。

演奏、人と人との無心の関わりあい

 ともかく、アンドロイドじゃないんだから、型通りの動きを繰り返すとかではなくて、生身の人間と生身の人間が響きの空間の中に身体を置いて、そこで五感とそれ以上のものをもって関わりあうのが、合奏というものでしょう。二人の奏者がいたとして、一人プラス一人が二人以上のものになること。せっかく指揮者がいるんだったら、そういう役割を果たさなくてはね(*3)。一プラス一が二以下になっては困るわけで、二以上の余計な部分をなんとか導き出すこと、大指揮者リヒャルト・シュトラウスだったら、そういう部分を「盗む」とか言うのではないかしら、そんなダイナミックなやりとりまでくれば、指揮の醍醐味も佳境にさしかかったと言えるでしょう。

 さっきたくさんの情報量ということを強調したけれど、むしろ実際の意識としては、何かあるたった一つの響きを聴いているような、そんな無心境の中であらゆる仕事をしていると言う方が、現実には近いんだよね。一つの響きを聴くこと、響きの感覚があって、そこからのずれとして全部を聴いているとでも言うかな、うまく言えないんだけどもね。そういう、言葉や理屈で表現できる以上の何かを出現させる、そういう場を共有するという意味で、聴衆が演奏に立ち会うこと、この「参加」は大変重要、必要不可欠だと思います。わかりやすい話、お客さんのいないスタジオ録音は端正でも冷たかったりするでしょう。音楽家や楽団をもっとも育てるのは良い聴衆にほかなりません。皆さん、どうか放送や録音媒体だけでなく、もっともっと演奏会場に足を運んで下さい。そして、共に音楽を分かち合いましょう。鳥の声をCDで聴くのと森林浴とは比較にならないでしょう。音楽浴! 実際、いいもんですよ、直接身体が覚えて癖になります。そこできっと多くの方が「自分自身の音楽の生命」を発見されるでしょう。僕は確信をもって一人でも多くの方をライヴ会場へとお誘いしたいのです! 

音楽のこれから/指揮者のこれから

 シンフォニー・オーケストラとかオペラというものは大体が一九世紀の文化で、二○世紀前半から中盤にピークを迎えた過去の遺物と言い切る人も多い。確かに同様の音を出すだけなら、最近ならシンセサイザーの打ち込みでも大方の用は足りてしまう。わざわざ一○○人の人間を集めるなんて、非効率・不経済きわまりないことで、それをまとめる指揮者という仕事も時代遅れの職業と見る向きもある。なんて言いながらも、いまも世界中に多数のオーケストラが存在するし、明日すべてがつぶれてしまうというわけでもなさそうだし。カラヤンやバーンスタインは指揮者であると同時に、同時代のメディア動向を見据えて、エグゼクティヴ・プロデューサーとして音楽のアクティヴィティを切り開いたという点で、指揮者以上の存在だったと言えるでしょう。オーケストラにどのような未来があるのかわからないけれど、見通せない半歩先を模索しながら、あえてこの時代に、聴衆も含めこれだけの数の人間が集まって何事かをなそうとする、この現場を活かす方途は幾通りもあるはずで、その可能性を新たに開拓してゆくこと。ネットワーク上で記号情報レヴェルの多くが消費される中で、ある時間、ある場所にみんなが集まって、一緒に何かするところから、初めて立ち現われるもの、それを僕は新たな気持ちで「音楽」と呼びたいんだけれど、そのようにして音楽すること。そういう「音楽」を実現するのも、これからの指揮者の仕事の中で重要な位置を占めるのではないだろうか。音楽を聴く人一人ひとりがそういう「音楽」を自ら見つけだし、持って帰ってくださればと、少なくとも僕はそう思いながら、毎日音楽で生活してるわけですが、それは別段大げさなことではなくて、ほんの些細なことの積み重ねなんだよね。いつか次に、僕らのでも誰のでもいい、生の演奏と触れられたときに、そんなことを、なぜとはなしに思い出していただければ、今日こんなお話をした甲斐も少しはあったかな……。いや、何もないかもしれないけどね。まあ、続きは今度のお楽しみということで、今日はこれくらいにしておきましょうか……。

(*1)拙稿「クラシック小理論講座『指揮者』」『新・クラシックの快楽』〔洋泉社〕(一九九六年、初出は八八年)所収。

(*2)「新・題名のない音楽会」(テレビ朝日系列)毎週日曜朝九時より全国ネット。

(*3)科学の用語を使うなら、一プラス一が二にならないようなことを非線形性と言う。こういった話題にご関心の方は「指揮者グレゴール・ザムザの変身」(『インターコミュニケーション』一九九七年秋季号、NTT出版)ほか、現代の演奏を(僕は大学・大学院では複雑システムの物理科学を学んだのだが、そんな観点をヒントに)考えている拙稿を参照いただければと思う。

コラム

 指揮棒のことをお話ししましょう。いまのところ僕は写真のような2種類の指揮棒を使い分けています(写真1)。長さが短くて持ち手のコルクが細長いほう、これは細かな指示をしっかり出す必要があるときに向いていて(写真2)小沢征爾さんもこのタイプの棒を使ってますね。もう一つの、長くてコルクの丸いやつは、19世紀的な音楽の大きな流れを壊したくないときに適した道具で、以前ならカラヤンやバ−ンスタイン、いま生きてる人ならアッバードやカルロス・クライバ−なども、この手のコルク球の棒を使ってます。この道具は、使い方によってはコルクの部分が重りの役目を果たしてくれて、ほとんど自分では注意を払わなくても拍を刻んでくれる(写真3)、まるでメトロノ−ムにテンポを任せるような具合で、自分の意識はソルフェ−ジュの方だけに集中できるという利点があります。で、意図して刻まないことと、長いフレ−ズを壊さないこととは表裏一体という次第。クライバ−なんかのビデオを今度ご覧になったら、具体的な使用法を再確認されるでしょう。――でも、道具を使う人がそういう「使用法」あるいは「図形」だとか、そんなあたりに気が散っているうちは、まだ指揮者の仕事の入口にも到達していないんですよ。余計な意識を介在させずに、まず身体が音楽を呼び起こしていく、そういうレヴェルに来て初めて、指揮者の仕事は始まります。もちろんクライバ−氏も、音楽の核心だけをよく聴いているはずです――本当はロマン派なんかやるときには、できるだけこちらの丸球のでいきたいのだけれど、いろいろな状況が万全でないときは大事をとって細長い方の道具、僕は勝手に「新即物主義タイプ」と呼んでるんだけど、こっちを使います。逆に「ウィンナ・ワルツ」なんかは絶対に丸球がよろしい。みんなの演奏を壊しません。ところが仕事しているうちに「新即物主義タイプ」をいつのまにか「丸球」的に用いている自分を発見してびっくりしたりもして、道具一つをとってもなかなかおもしろいものです。

 もちろんこのほかにも指揮棒はいろんなタイプがあるし、これが唯一絶対にいい、なんてのはない。例えばブ−レ−ズは棒を持たないでしょう。ご本人は「進化の過程で猿が尻尾を失ったように、これは演奏の必然」とかおっしゃってましたけど、棒がないことによる利点もある反面、そのぶん点(「打点」というのだけれど)が鋭くつかないために、演奏する曲を楽員が熟知してないと瞬間の食いつきが追っつかないこともあって一長一短。ブ−レ−ズ氏が95年にN響に来られて、バルト−クの「中国の不思議な役人」全曲などを演奏されたときは、ご本人含め皆さん、リハ−サル初回は演奏コミュニケ−ションになかなか苦労しておられました。もっとも、彼がパリの手兵で自作(いまやすべて現代の古典です)を演奏したり、ウィ−ンでブルックナ−を振るのに、今さら打点も何もないのでしょうけどもね。

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