
<米国調査報告書>
第3章 リーチ・エア・アンビュランス (つづき) ![]()
11 すべては病者のために
11−1 最高水準の救急業務 リーチ・エア・アンビュランスは1987年4月17日発足。われわれの訪ねた2002年秋の当時、創立16年目だったが、その事業は他社には真似のできないような独自の理念に支えられたものであった。
それは1人の熱情あふれる救急医の信念にもとづくもので、彼がつくった会社は レッドウッド・エンパイヤ・エア・ケア・ヘリコプター社(Redwood Empire Air Care Helicopter)という名称であった。こんな名前は関係者でも忘れているかもしれないが、それを簡略にした呼称が所謂REACHである。
1987年に発足した同社は、1年半にして早くも財務危機におちいるなど、未知の大洋に乗り出した小舟のようにむずかしい航海を強いられた。
創立者のジョン・マクドナルド博士は生来、並外れた倫理感の持ち主だった。人道的な気持ちが強く、「患者のためになることならば何でもする」という考え方で、そのために会社の経費がどんなにかかろうと問題にしなかった。
救急という仕事は、もともと人道的な性格の強いものだが、それでもここまで徹底した理念をもち、実行している救急会社や病院はアメリカでもまず見ることができないであろう。みずからの利益を度外視して患者を救済し、社会に貢献する。それがマクドナルド博士の実際にやってきたことであった。
博士のヘリコプター救急着手に協力したのは、オレゴン州ポートランドのヘリコプター・エア・トランスポート社(HAT)であった。HATは機体とパイロットと整備士をサンタローザに派遣し、博士は地上施設をととのえ、病院との関係をつけて、救急搬送にあたった。しかしヘリコプターの運航費をまかなうことはむずかしく、HATは2年間で手を上げてしまった。
それが1990年のことで、リーチ社はFAA(米連邦航空局)と掛け合い、エアタクシー事業の免許を取得、パイロットや整備士を自分で雇うことになった。
しかし、ヘリコプター救急事業会社の体制がととのうまでには長い時間がかかり、1996年の当時もまだ少数のパイロットと整備士と、支援スタッフがいるだけだった。ナースとパラメディックも他社から派遣して貰い、通信手段はこの地域の911番に依頼し、患者からの搬送料金の回収は他社に頼み、会社としては予算制度もなかった。
しかしリーチ社は活発に活動していた。最初の8年間、ジョン・マクドナルド博士は自分の報酬を取らなかった。会社の運営が墜落寸前の超低空飛行だったからである。しかし、そうした苦難にもかかわらず、同社は「病者のための最善をつくせ」("Do what is right for the patient")というスローガンを掲げ続けた。
そのため社員の誰もが知恵をしぼり、走り回り、持てる能力を最大限に発揮しなければならず、必然的に仕事のレベルが上がり、ヘリコプター救急事業の運営に関してはアメリカで最高水準にあるといわれるようになった。
その一つはA109ライト(Lite)を生み出したことである。機体を改修し、医療装備に工夫をこらし、ヘリコプターの自重をぎりぎりまで軽量化した。これで、やや出力不足の気味があったA109ヘリコプターは、高温や高地の不利な条件下でも本来の能力を発揮し、救急機として使えるようになった。
もう一つは民間ヘリコプターとして初めて、衛星通信システムを搭載した。これでリーチ社のヘリコプターは、いつでもどこでも本拠地との通信が可能となった。こうしておかないと、たとえば山の中の谷間の救助に向かったときなど、地上電波では山にさえぎられて通信が途絶する。それを確保するには高い費用をかけて山頂に電波塔を建てなければならない。
しかし衛星通信ならば地上施設は不要である。ソルトレーク・シティで冬季オリンピックが開催されたときも、現地に派遣されたヘリコプターとサンタローザの間で無線交信が可能だった。
第3の重要事項は、先に述べたように、計器飛行による患者搬送が認められたことである。病院ヘリポートへの計器進入を認められたのはミシシッピ以西では初めてだったし、病院から病院への飛行経路上での計器飛行は全米で最初であった。
かくしてリーチ社は15年間に18,000人を超える患者を搬送した。
11−2 メディカル・ディレクター 医療面では、創設者のジョン・マクドナルド博士が救急専門医だったことから、問題は少なかった。オーナーとして、経営者として、医師として、博士は会社の中心にすわってスタッフの全社を指揮した。その基本精神は前述のとおり「病者のための最善をつくせ」という倫理観にもとづくものである。そのため、どれほど費用がかかろうと、博士は顧慮しなかった。
たとえば、患者1人のために2機のヘリコプターを出動させることも少なくなかった。1機はできるだけ早く、リーチ社の医療スタッフを患者のもとへ送るため。もう1機は、たとえば未熟児専門医を別の病院へ迎えに行き、その医師をのせて患者のもとへ送りこむためである。あるいは、この2番機は毒蛇の血清を取りに行ったり、特殊な薬剤を取りに行くために飛ぶのである。
患者はリーチ社に電話を1本かけるだけで、あとは何にもしなくてもよかった。リーチ社があらゆる手段をつくして、救急と救命にあたってくれるのである。たとえヘリコプターの必要がないときでも、リーチ・コミュニケーション・センターは救急車の手配をしてくれるし、病状に最適の病院を探し出して、緊急手術の依頼をしてくれるのである。無論すべては無償の行為である。
リーチ社の手もとには、当然のことながら、どこにどんな病院があるか、緊急事態に対応できるリストがそろっている。それを、彼らは惜しげもなく活用してくれるのである。
11−3 創始者の死と顕彰 ジョン・マクドナルド博士は、経営状態がやや落ち着いてから報酬を受け取るようになった。それでも金額は年俸わずかに18,000ドル。その仕事ぶりは1日24時間ほとんど休みなく、メディカル・ディレクターとしての指揮を執り続けた。
ところが2000年10月4日、博士は自家用パイロットの免許を持っていたが、会議のために自分で軽飛行機を操縦して別の町へ向かう途中、霧に巻かれて墜落死亡した。
4か月後の2001年2月13日、国際ヘリコプター協会(HAI)はロサンゼルス近郊のアナハイムで開催された第40回年次大会の表彰晩餐会で、ジョン・マクドナルド博士を追悼し、顕彰した。
博士はシカゴのロヨラ医科大学を卒業、研修医を経て、海兵隊に勤務した。1971年カリフォルニア州サンタローザに住居を定め、サンタローザ記念病院に救急部を創設、ナースやパラメディックに救急医療の指導をはじめた。同時にさまざまな研究活動に手を広げたが、たとえば心筋梗塞の患者に除細動器を使用したのも、ソノマ・カウンティの医師としては最初だったし、心肺蘇生法(CPR)に関する研究は貴重な成果として出版された。
やがて、博士の専門的な知見は広く知られるようになり、全米から相談が相次いだ。そして1980年代なかば、いっそう高度の地域医療が必要であると考え、救急ヘリコプターの導入を発案した。家族の思い出によれば、博士はある日突然「ヘリコプターが欲しい」と言い出したらしい。
それから博士は、あちこちを駆け回り、調査と研究を重ね、サンタローザ記念病院に航空医療プログラムが必要であることを提言する。病院は、地域住民の強い要望もあって、これに同意した。
しかし思いのほかに経費がかかるため17か月で打ち切られることになる。やむを得ず、マクドナルド博士は自ら独立企業としてのリーチ・エア・アンビュランスを立ち上げたが、その後の苦難は先に述べたとおりである。
マクドナルド博士は、どの患者に対しても現在望み得る最高の医療を提供した。とりわけ晩年は小児救急に力を入れ、高い医療技術をもった小児科医を糾合し、幼い子どもたちの命を救いつづけたのである。
Dr. John L. McDonald
You are deeply missed. Your spirit lives on with us always.
12 ヘリコプターは神様です 病者を救うために全力をつくせというジョン・マクドナルド博士の遺志を受け継いで、リーチ・エア・アンビュランスは今も年間3,000件の救急活動をつづけている。
その結果に対しては、ヘリコプターによって救われた患者や家族はもとより、不幸にして死亡した人の遺族からも、さまざまな感謝の手紙が寄せられている。その中から、いくつか読んでみよう。
「私は山の中で貴社のヘリコプターに助けられ、病院まで運ばれました。皆さまに深く感謝致します。皆さまの有効かつ献身的な働きは高く称賛さるべきものと思います」
「息子がモーターサイクルの事故を起こしたとき、貴社ヘリコプターによって救助されました。感謝の言葉もありません。息子はいま奇蹟的に完全回復いたしました」
「小さな子どもの命が救われました。私ども家族にとって、これ以上の贈り物はありません」
「このたびの悲劇は、私たちにとって最悪の事態となりました。しかし貴社の皆さんが示された最大限の救助活動は、私どもの心の救いになりました」
「有難うございます。皆さんのプロフェッショナルによって、私の息子は再び彼の人生を歩みはじめました」
「皆さんは2歳のミッチェルを運んで下さいました。ミッチェルは大変元気になりました。ミッチェルを助けて下さった4人の方々に感謝の気持ちをお伝えします。お陰さまで今は安心してミッチェルの回復を待っているところです」
「6月24日の私の事故に際して、いち早く救助の手をさしのべていただきました。感謝のほかはありません。皆さまの素晴らしい処置と、病院まで迅速に送っていただき、有難うと申し上げます」
「ジョン先生とスタッフの皆さま、ただただお礼を申し上げます。これからも沢山の人を助けて上げてください」
「ヘリコプター救急に対して心からお礼を申し上げ、その活動を今後100パーセント支持いたします。お陰様でリッチの命が助かりました。彼のように応急手当を受け、病院へ安全に運ばれることにより、毎日沢山の人が大きな喜びを感じていることと思います」
「貴社の迅速な対応によって兄の命が助かりました。ヘリコプターが飛んできたとき、主治医からは兄は数時間しかもたないと言われていました。しかしヘリコプターで病院へ運ばれ、肝臓移植を受けて、兄は生き返りました。ヘリコプターで飛んできた救急隊の皆さんとパイロット、そして貴社のスタッフの方々に感謝申し上げます。私ども家族のみんなが皆さんの素晴らしい働きに強い感銘を受けていることをご承知おきください」
「息子ティモシーの命を救っていただき、リーチ・ヘリコプターの方々に深く深く感謝致します。リーチ社は緊急電話にすぐさま対応し、セント・ヘレナ病院からオークランド小児病院へ息子を運んで下さいました。皆さまの果敢な仕事ぶりに対し、心からお礼を申し上げ、皆さまのような方々が実在するのを知って、私どもの気持ちも慰められました」
「入院中のお見舞いから、退院後は自宅にまでお電話をいただき、お礼の申し上げようもありません。これこそは本当のケアであろうと、深く感じ入りました」
「私どもの女の子は2歳のとき、ヘリコプターのスピードによって救われました。いま元気に4歳になりました。彼女は生涯を通じて皆さまへの感謝を忘れないでしょう」
「私がそこへ行ったとき、もうヘリコプターが待っていたのに驚きました。そして直ぐに私の赤ちゃんを連れて飛んでいってしまいました。そのため皆さんのお顔を見る暇もありませんでしたが、お陰さまで私の赤ちゃんは生きております。こんな小さな赤ん坊にも最大限の努力と速度と愛情を注いでいただき、感謝の気持ちで一杯です」
「僕は先週金曜日、山の中でぐしゃぐしゃにつぶれた車の中で絶望的な状態にありました。しかし、有難うジェーン、有難うジム、有難うトム。3人の皆さんへ何と言っていいか分かりません。たしかに救助は皆さんの仕事です。それによって報酬も得ておられるでしょう。けれどもあなた方が僕にしてくれたことは、仕事や報酬を超えたものでした。有難う。感謝します。僕は生きてます」
「リーチ社の救急チームによって、私どもは神に護られていることを知りました。お陰さまで、リサは今も生きております」
(HEM-Net、2003.12.13)
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