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「念動力」と「念力」とはどこが違うのか。 それは、字を見ていただければすぐにわかる。 念動力には、”動”の字が一つ多く入っている点である。 「念力」は物質の材質的な変化が主であり、物理的な変化も分子構造の変化だと考えられている。 「念動力」のほうは、物体に働く念の物理的現象を扱う。家具を動かしたり、物を空中へ浮かせたりする分野が主となっているのである。
外国では多いこの念動力も、なぜか日本ではほとんど見ることがないのは、なぜであろうか?
そのかわり、日本では精神や心、あるいは霊に関わる超能力者が異常に多い。 これは、ひょっとすると人種差、あるいは民族性に由来しているのかも知れない。 物質主義が中心であった西欧からはボディビルが生まれ、儒教による精神主義が主体であった東洋、すなわち日本からは禅が生まれたように、である。 この違いは、人間関係を見ても共通する。欧米人は契約や約束事に限らず、夫婦間においてもやたらと言葉を使ったコミュニケーションが主体であるのに対し、東洋、とくに日本では、目の動きひとつ、微妙な顔の動きひとつで意志を伝える。 表面に現れる言葉よりも精神や心に重きが置かれており、ときにはビジネスの上においても、このやり方が重大な意味を持つ。 絵画の方面でも同じ事が言える。西欧の絵は空間恐怖症かと思われるほど、すべての空間に色をつけ、物を描き込む。 いっぽう、水墨画に代表される東洋の絵画は、むしろ空間である”間”を大切にする。 空間をあえて作ることにより、その絵の精神的な奥行きを深めようとするわけである。 欧米の絵が変わってきたのは、ゴッホが日本の浮世絵に影響を受けてからのことだと分析する専門家の意見もあるほどだ。 同じような違いは、”恐怖心理”についても言え、日本では、化け物よりも幽霊が人々にこわがられるが、欧米では、幽霊よりもフランケンシュタインや狼男などのモンスターに恐怖する。 日本の幽霊はあまり言葉をしゃべらない。せいぜい「うらめしやぁ〜」ぐらいなものだろう。 しかし、その静けさが日本人の心をより深い恐怖へと誘う。それとは対照的に、欧米の幽霊は家具をひっくり返したり、階段をドンドン鳴らしたりの騒霊や叫霊で、騒がしい。 その異様なうるささが欧米人には恐怖となるのである。 日本では、必ずと言ってよいほど、毎年夏には怪談話が出てくる。 夏と幽霊は、昔から切っても切れない間柄である。 しかし、アメリカになると、なんとこれが秋になると言うのだから、我々日本人には理解しがたい。 収穫祭には多くの子供達がモンスターやお化けの姿をして家々の戸を叩く。そしてたくさんのキャンディを口いっぱいにほおばって、ハロウィンを祝う。 これはおそらく、農耕民族と狩猟民族の違いからくるものなのかも知れない。 ところで、日本は国際的には”バナナ民族”であるらしい。 外見は黄色だが、中は白色だという意味なのだが、それほど、日本の中には、西欧と東洋がゴチャゴチャに入り混じっている。 そのせいでもあるまいが、最近日本でも、念動力を使う超能力者が現れ始め、新聞やテレビに登場してきた。 そこでこの章では、それら新手の超能力者の舞台裏をご紹介しようと思う。
トミー・フーパーが映画にしたので、超常現象にあまり興味の無かった人にも「ああ、あれか!」とわかるようになってきた。 悪霊が人や屋敷にとりついて、花瓶を割ったり変な音をたてたり、ときには部屋そのものをゆらしたりして騒ぐ怪奇現象のことを言う。 ところが、最近になって、この「ポルターガイスト」の定義が少し変わってきたようだ。 いままで心霊現象として取り扱われていたのが、念力の一種として、超能力の分野としてのウエイトが重くなり始めたのである。 どういうことかというと、この騒霊現象は、幽霊屋敷のようにいわゆる霊の目撃がほとんど伴わないことと、ある特定の人物、それも子供や思春期の青少年のまわりで発生することが多いからだ。 それに、起こるのはたいてい小さな区域内であり、短い一時期しか続かない事が多い。 だから、これは少年少女たちが成長する際に起こる微妙な心理の抑圧や不安が起こす、一種の念力現象だと思われ始めたのである。 もしかしたら、数年後にはこの「ポルターガイスト」の項目は辞書の位置を移して場所が変わっているかも知れない。 ところで、私は個人としては霊の存在を強く信じて疑わないし、誰の前でもそのことをはっきりと話すことができる。 また同時に、悪霊の存在も信じている。 悪霊とは生まれてから悪業を尽くして死んだ人の霊魂をいうのではなく、地球にもともと存在し、天の摂理に従わなかったため、肉体を得ぬまま地に落とされた悪霊集団のことであると思っている。 彼らは絶えず人間のまわりをうろつき、人を悪業に走らせようと誘惑する。 彼らは大昔から、霊のままで多くの人間の人生や国の歴史を詳しく見ており、全てを知り尽くしている。 だから、「転生(生まれ変わり)」を証明する実験で、人間に逆行催眠をかけたとき、生前の段階まで来ると、連中が被術者の口を借りて、遥か昔に存在したある人間の歴史を詳しく物語り、転生があると欺いたりもする。 人間は催眠術にかかると、その状態を実際に見ても分かるように、精神霊と肉体のつながりが大変不安定になる。 その状態は特に前世の段階に来ると顕著になり、悪霊の力に劣るようになる。そこで連中がその人の体を支配して、前世の人間だとして語り始めるのである。 では、既に死んだ人たちはどこへ行ったのか、善人の霊は、来世で次の高い段階に進むための準備をし、悪人の霊は同じ来世でも冷たく暗い世界に一人ひとり寂しく入れられている。 自殺も殺人と同じかそれ以上の悪行であり、その場で暗闇の世界に入る。 時々人を騒がせる地縛霊とは、この自殺者の霊のことをいう。 地縛霊は暗闇の中をいつもさまようが、悪霊とは違う。 悪霊とは、この世の人間に物理的、精神的に害をなす連中のことを言い、時には人間に自分が地縛霊だと偽って現われることもある。 それにひきかえ地縛霊は、寂しく悲しい霊である。 時には人に見えることもあるが、悪霊のように人を傷つけたりはしないと言われる。 今の世の中を見ると、人が何度も生まれ変わったとはとても思えない愚かな状態だし、今の人口増加は転生では説明できない。霊がある世界から地球に送られて来て、別の世界へ行くと考えるほうが自然かもしれない。 このように、霊の存在を信じて疑わない私であるものの、とても容認できないものも数多くある。 別に目くじらを立てるほどのものではないが、夏の夜の余興として楽しむには、その解明もまた面白いのではと取り上げてみた。 実際に証明できない昔のものが多くなるのが残念なのだが、この章ではそれらの手口と簡単なやり方をご紹介しよう。
「コックリさん」がいつ、どこから伝わってきたものかについて、東洋大学の創始者である井上円了博士が調査したことがあった。 諸説紛々入り乱れる中で、正確なものだけを選り分けてゆくと、つぎのようなルーツに行き当たったのである。 ”コックリさんは、明治17年、伊豆の下田に漂着したアメリカの船員が、下田の人々の前で実験して見せたのが始まりで、これを下田の人々は何というのか誰にもわからない。 そこで竹の脚の上のお盆がコックリ、コックリ傾くさまを見て、勝手に言い始めたのだそうだ。 漂着した船員は、このとき、あり合わせの物を使ってテーブルを作ろうと、竹を三本集めて縄で結んで脚とし、その上に丸いお盆を載せた。 それが明治17年に、静岡や愛知県あたりから流行し始め、明治20年には日本中で爆発的に大流行したのである云々” このように「コックリさん」と呼んだことから、「狐狗狸」という漢字が当てはめられ、それぞれがキツネ・イヌ・タヌキの動物名である。 それらの動物は頭がいいので人を騙すと言うことから低級霊(動物霊)という考え方が生まれ、その中でも、人にとりつくと信じられていたのがキツネであったので、「コックリさん」と「キツネ」が結びついたというわけである。 どちらにしろ、アメリカから伝わった歴史的な事実と、アメリカにはキツネが人に化けたりだましたり、おまけにとりついたりするという迷信がないことから考え、「コックリさん」と「キツネ」とは全く関係がないという結論が出たわけである。 テレビでも時々出てくる、あのキタキツネを見ていると、ひどい迷信を昔の人は考えた物だと思うし、この現代になって、まだキツネが人に化けると信じているに等しいことを「コックリさん」と結びつける専門家がいること自体、信じられない思いなのだ。 いったいなにを考えているのか、と言いたくなってくるのである! その他に、日本には昔から「コックリさん」が流行する下地となる遊びがあったことも、参考として述べておこう。 室町時代に、馬借人夫たちが金を賭けて遊ぶギャンブルの道具に、三つ又の枝を使ったという記録があり、江戸時代にはいると、これが町人の子供が、お菓子や人形を賭けて楽しむお座敷遊びとなっていった経緯があったと言うことだ。 しかしこの場合も、キツネとは全く関係がなかったのである。
戦争中、潜水艦からネズミが一匹もいなくなると、その潜水艦は数日後に撃沈されたとか、大地震の前に犬が異常に騒ぎ出したとか・・・。 これについては、後者の例は、地熱や異常な振動で騒ぐナマズと同じく、人間には聞こえない地面の底からの異常音を犬がキャッチするのだと言われている。 しかし、前者のネズミの一件は、そういう問題とは少しかけはなれているようだ。 何かやはり、超自然的な力が働いたとしか考えられないのである。 それについて、最近ちょっと興味深い論文が外国で発表されたのである。 これには、なぜ動物の方が人間よりも予知能力が優れているが、どうして人間は、一般的に男よりも女の方が霊感が強いのかが説明されている。 その答えは、シッポや臀部であるというのである。 動物がどうしてシッポを持っているのかという理由にはさまざまの説がある。 しかしこれまでには、シッポが自然界の異常ななどを感知するアンテナの役目をしているという説はなかった。 そう言われてみれば、シッポは脊髄の延長であり、その脊髄は脳へとつながっている。 ネコのヒゲが人間の子供にハサミで切られるためにあるのではないのと同じように、シッポにも何らかの重要な役割があるはずである。 それが、予知であるのかもしれないというのだが、それなら、天敵に殺される動物は一匹もいないはずである。 しかし、さっきのネズミの一件のように、一見予知とは見えていても、本当は何らかの、われわれにはまだわからない異常をネズミのシッポは感知したのかも知れないと言う可能性がある。 それは潜水艦のエンジンの不調音だったのかも知れないし、何らかの機械の異常音なのかも知れない。 それをネズミは”今までの状態とは違う!”と判断して、いち早く逃げ出し、潜水艦はその機械的異常によって十分に戦えずに撃沈されてしまったという考えもできる。 もし、この仮説が本当なら、動物のシッポはじつに重大な役割を果たしているのだということになる。 一見ムダに見えるシッポもこれだけの働きがあれば納得いく。 人間について言えば、その部分に相当するのが尾てい骨という事になる。 しかし、他の動物と比べてあまりにも短く、無いに等しいので、感知能力がはるかに劣るというわけだ。 だが、女には男よりも大きく立派な骨盤があり、それがわずかたりとは言え、シッポの役割をはたしているのではないか、世の中には「女の勘」とか「女の第六感」という言葉があるように、女は男よりも一般的に勘が鋭いのもそのためではないか、とこの理論は説明する。 とにかく、ここで言いたかったのは、いまの我々には”予知”に見えても、もっと先の世になればその原因が解明されて、そういう摩訶不思議な分野には属していないかもしれないということなのである。 中国の地震予知も、地下水の水位やにごりなどから判断されるように、われわれにも知能という武器を持った”予知”ができる。 科学だけでは説明のつかない現象は、この地球上にまだ星の数ほどある。 ”予知能力”はあるのかもしれないと、本気で私は思っている。 だが、幼稚で、ミエミエのものが多すぎるように思う。 もっと神秘的で、不思議に満ちたものを探すために、この章でもその手口を明かしていこうと思う。
これは「諸世紀」という原題で、今から約400年前に、フランスで出版された。四行詩すべてが暗示的で叙情詩的な文章でつづられている。 そういう文章の方が、より意味深く重みを増して、読む者の心に響くのだ。 1999年 第七の月 空から恐怖の大王が降りてくる アンゴルモアの大王を復活せしめんため その前と後ろ、マルスは幸福の名で支配する ・・・というのが、有名な人類滅亡のくだりである。それからあとも、つぎつぎと人類を襲う大災難が記されており、これじゃ人類は救われない、と暗い気持ちになってくる。 そこで、現代のノストラダムス氏に以下のような四行詩を書いてもらった。 その答えはすべて今年中にはっきりするはずのものばかりである。
こうすれば「予言書」は書ける
はっきり言えば、解釈がどちらにでもとれるように仕上げられていると言うことなのである! 逆もまた真なりとは、まさしくノストラダムス氏のために作られた言葉であろう。 「ずるいじゃありませんか、ノストラダムスさん!そんなことをするから、あなたが謎の奇病で死んだとき、体中の肉と骨がバラバラになったという話がまことしやかに語られるんですよ」とは、現代のノストラダムス氏の言葉だ。
巨人軍の優勝についての四行詩・・・(略)
核戦争が起きなかったとき
ノストラダムスの「諸世紀」が、400年前よりも、近代になってからの方がより注目を浴びるようになっているのは、歴史的事実と対比させた場合、解釈によっては100パーセントに近い的中率を示しているからである! しかし、それに反論する者も多く、解釈のパターンを次々と変えれば、当たるのが当たり前、同じようにして別の解釈にすると、ひとつとして当たったと事はないと言うことになる。 はたして本当のところはどうなのであろう? 聖書に精通した者の目から見ると、「諸世紀」の基礎は、聖書に記された数多くの予言の文章の焼き直しであることに気づくはずである。 ただ違うのは、ノストラダムスの「諸世紀」が、聖書のように「愛」や「救い」に満たされていないことであろう。 「諸世紀」は、戦争や破滅ばかりで全体が占められており、恐怖ばかりをクローズアップしているので、これを読んだ人間は、パニックを起こすだけであろう。 たしかに、聖書にもそのようなことは書かれているし、最終戦争のくだりもある。 しかし同時に、人間の救いについても記されており、”望み”をもって生き抜く愛と勇気が記されているのだ。 しかし、「諸世紀」にはそういうところがまったくなく、やたらと人を不安のドン底へと落とすだけである。 本当の予言とは、救われる方法も同時に記されていなければならない。 いくらあたっても、その部分がまったく欠除していれば、それはニセ予言である。 1999年といえば、ノストラダムスの専売特許のように思われているが、当時の人々は教会で、2000年(紀元後)までには世が滅ぶと教えられていたのである! アダムがエデンから追い出されたのが、紀元前4000年だと言われ、神の王国の一日が地球のほぼ1000年に値する(詩編90章4節・ペテロの前の書3章8節)ので、7日目の安息日「福千年」を迎える前に世が滅ぶ(マルコ伝福音書13章24〜25)のは常識だったのである! それにノストラダムスは、民族的には旧約聖書に精通していた。 彼はフランス系ユダヤ人であり、ユダヤ人は旧約聖書を聖典として認めている。 さらに、彼は新約聖書にも詳しかった。 なぜなら、彼は熱心なカトリック教徒でもあったのだ!
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| 参考文献 | |||||
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| ごま書房 | 超能力の手口 | 1985年7月発売 | |||