人骨発見18周年集会「医学史から見た戦争と軍隊」

司会(川村)
 ここ戸山サンライズがある辺りは、軍医学校跡地。このすぐお隣の国立予防衛研究所の建設中に、大量の人骨が発見されました。それがちょうど七月二二日ということで、その前後の土曜か日曜日に毎年こういう集会を持って、人骨問題を訴えてきた。今日はちょうどその日ということで、集会の後、厚生労働省が納骨施設を造りましたので、そこをご案内すると同時に、厚生労働省が、今後調査を予定している場所もご案内したい。最後までお付き合いを。今日のスケジュールは、CNNが昨年八月一六日に全世界に報道したビデオを見ていただきます。全編英語ですが、その翻訳のあらましは、資料の一番後ろにあります。これが約一〇分。その後に、今年は特別に、「医学史から見た戦争と軍隊」ということで一橋大学の吉田先生に講演いただいて、歴史学から見たアプローチをしてみたい。その後、皆さんから三〇分程度質疑を受けまして、その後に、先ほど言った納骨施設をご案内したいと思いますのでよろしくお願いします。

CNNビデオ上映

 ビデオは以上ですが、簡単に説明すると、一八年前の七月二二日に大量の人骨が発見されました。発見された人骨について、地元の新宿区は、厚生省に対して身元確認を含めた調査をしてほしいという申し入れをしましたけれども、当時の厚生省は身元不明で引き取り手がないので、新宿区で処分―焼骨・埋葬してほしいといいましたら、新宿区としては、それならば自分たちで鑑定しましょうと、行いました。その結果、九二年に鑑定結果が出まして、モンゴロイドで日本人以外の集団の骨が混じっている、一〇〇体以上あるということ、頭骨に人為的な損傷があるということなどがわかってまいりまして、私たちも厚生省にさらに調査をすることを要求しまして、当時の厚生大臣が調査をすることを認めて、それから約一〇年間調査を続けてまいりました。その結果、二〇〇一年になってようやく厚生省が、この人骨は旧陸軍軍医学校の標本類であろうと、それから処分に当たっては国が関与したということを認めて、二〇〇二年に納骨施設を造ってそこに納められたという経過があります。そして、昨年になりまして、先ほどのビデオにも出ました石井さんという看護婦さんが証言されまして、「他にも埋まっているんだ、私も手伝ったことがある」という証言を、直接昨年の厚生労働大臣と面会をして証言をされたんですね。その結果、厚生労働大臣が調査をする、ということになって一年が経った。その証言された内容については、この資料の裏を開けていただければ、そこにある昨年の六月二四日の朝日新聞の報道記事の通りです。そういうことで約一年経ちましたが、未だ調査されていません。そういうことで、その(資料の)隣(のページ)にありますように、新宿の区議会として、今年の六月二一日に「防疫研究室跡地調査の早期実施を求める意見書」が全会一致で提出されたということです。詳しいことはこの資料の年表でご覧ください。ご質問は、代表の常石も来ていることですし、吉田さんの講演の後にでもしていただければ幸いだと思います。それでは、吉田さんよろしくお願いします。

人骨発見18周年集会記念講演「医学史から見た戦争と軍隊」 吉田裕さん
 
 僕自身はこの問題については素人で、このテーマで話すのはためらいがあるのですが、軍隊史を研究している関係上、軍事医学には多少の関心があります。ですから軍事医学から見た場合、軍隊とか戦争のどういう面が見えてくるかということをお話したいと思います。
 はじめに、「医学史から見た軍隊」ということですけれど、従来このテーマは、現在の医療が抱えるさまざまな問題の原型を戦時下の医療のあり方に求めるという研究があった。二つ目は、常石さんの研究テーマですが、医学者の戦争協力・戦争責任の問題について研究が進んできた。三番目は、最近少しずつ研究が進んできた、戦前の軍事医学の問題です。
 ここで私がお話したいのは、軍事医学という面から見たときに、戦場や軍隊のどういう様相が新しく見えてくるかということで、それを最近の研究に即しながらお話してみたい。
 三つほど大きなテーマがあります。一つ目は、日本に於ける軍事史研究が、戦前戦後どういう状況にあるのかということをごく簡単におさらいします。二点目、戦前の軍事医学の特質を簡単に見てみたいと思います。その上で三番目、軍事医学から見た戦場と軍隊の諸相ということでお話してみたい。ここに例として取り上げるのは、一つは戦場における餓死の問題、二つ目は戦争神経症の問題、三番目は戦場から逃れるために自分の体を傷つける自傷。四番目に、その他、覚醒剤の問題とか異常心理の問題などについて、若干お話します。大きな問題は、餓死、戦争神経症、自傷の問題です。

軍事史研究の現状と問題点
 一点目の、日本に於ける軍事史研究の現状ということですけれども、軍事史研究について、戦前からかなり膨大な研究の積み重ねがあるわけですけれども、一言で言えば、戦闘史、作戦史に偏している。例えば、資料の中の浅野祐吾「明治陸軍の戦史研究について」という有名な論文があります。浅野さんは戦前の陸軍将校、幕僚将校で、戦後は陸上自衛隊に残られて戦史研究の面で大きな役割を果たされた方です。彼が戦前の軍事史研究の問題点について、次のように言っているわけです。
「その第一は陸軍が戦闘場裡における行動の慣熟と戦法の研究を戦史に最も期待したことである…言わば作戦戦闘史であり、戦争史や軍政史ではなかったと言うことである。」
 軍が戦史研究に期待したのは、戦場における指揮官の行動とか、そういうものが中心であって、研究の対象としては作戦戦闘史になってしまったということを言っているわけですね。
「第二は作戦戦闘史以外の各分野の戦争史、軍事史が軽視されたことである。」
 軍事史は本来ならば他の様々な研究分野を含んでいるわけですけれども、軍事史が作戦戦闘史に偏している、なおかつ他の研究分野が疎かにされた、ということを戦前の反省として述べているわけです。この論文で重要なのは、その体質が戦後の自衛隊にも引き継がれたということを言っていることです。戦前の軍事史研究が、戦後どうなったかということを、一言で言えば、戦後においても、戦前の作戦史偏重、戦闘史偏重の問題点がそのまま引き継がれたということになります。
 それには、かなり特殊な状況があって、一つは、軍事史研究に対する非常に強い警戒心、あるいは忌避心、もう軍隊や戦争に二度と関わりたくないという思いが、戦後の第一世代の研究者の中には非常に強くありました。軍事史研究自体が軍学協同につながってしまうのではないかという思いもあって、軍事史研究というのはほとんどの研究者が手を染めてこなかった研究分野になります。ごく一部、軍政史、政治史の中では戦前の軍部が非常に大きな役割を果たしている事実がありますから、政治史研究の中では軍部研究は非常に膨大な研究の積み重ねがあるわけですけれども、それ以外のいわゆる軍事史というのはほとんど研究の対象にならなかったわけです。そういう中で、軍事史を担ってきたのは、旧軍関係者、陸海軍の幕僚将校たちです。彼らが、戦後、自衛隊に入って、軍事史研究に携わってきたという歴史があります。ですから戦後の軍事史研究というのは、戦前の軍事史の問題点をそのまま引き継ぐ、そういう問題点があった。
 具体的に見てみますと、資料の中に『戦史叢書』全一〇二巻のタイトルを並べておきました。これは、防衛庁防衛研究所戦史部、以前は防衛研修所戦史室ですけれども、これが作成した全一〇二巻にわたる太平洋戦争の戦史です。これが面白いのは、『戦史叢書』と書いてあって、日露戦争なのか日清戦争なのか太平洋戦争なのかわからないんですね。これは、大東亜戦争と呼ぶべきか、太平洋戦争と呼ぶべきかを巡って部内でかなり激しい論争があって、結局それが原因だと思いますけれど、タイトルとしてはちょっと異常な付け方になっています。この一〇二巻の膨大な量の研究では、一般の研究者が利用することができない一次資料を駆使した、そういう点では資料的な意味で今でも価値のある研究ですけれど、その背後にある歴史観は非常に問題がある。一つは、ご覧になっていただければわかりますけれども、まったく作戦戦闘史偏重なんですね。軍隊にとって、軍事史にとって重要な補給とか兵站に関しては、まったく一冊もない。それから、軍事医学についてもまったく一冊もない。それから、日本軍が立ち遅れていた情報戦についてもまったく巻が立てられていない。それと同時に、この叢書の致命的な弱点は、陸海軍の対立がそのまま持ち込まれているということです。戦史叢書の中心を担ったのは、西浦進という元陸軍省軍事課長、非常に有名な方ですけど、彼が戦後防衛研修所の戦史室長を担って、この戦史の編纂が進みます。全体的には旧陸軍の軍人中心にして進められたという問題があって、海軍関係者はずっと疑惑の目を持ってこの戦史叢書を見ているわけですね。陸海軍の対立が、そのまま持ち込まれることになります。例えば第六五巻、「大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯」という巻があります。大本営陸軍部というのは参謀本部とほぼ同様と考えていただいていいのですが、アジア・太平洋戦争の開戦に至る経緯が五巻まで出ています。ところがそれとは別に、一〇〇巻と一〇一巻のところに「大本営海軍部大東亜戦争開戦経緯」というのが二巻あるんですね。陸軍の立場から書かれた開戦経緯と海軍の立場から書かれた開戦経緯がある。こういう形で陸海軍の分裂が、戦後の戦史のあり方まで規定してしまっている。
 それからより深刻な問題は、旧軍の幕僚将校が中心ですので、先輩の批判ができないわけですね。防衛研究所は多数の軍人から日記や所蔵資料の提供を受けたり、聴き取りをしています。その多くは執筆者たちの上官に当たる、上の階級の人たちです。ですから、その人たちが実施した作戦に対しては、なかなか批判的な分析ができない。そのために、軍隊内の階級の上下関係が反映されてしまって、批判の矛先、分析の矛先が鈍ってしまう。そういう点でも非常に問題がある軍事史ということになると思います。
 今、軍事史研究会という学会があります。今はかなり普通の学会に近づいてきましたけれど、そもそも防衛庁中心にして立ち上げられた研究会ですけれども、そこでもやはりこの戦史叢書というのはかなり問題があると、批判されるようになってきました。そういう問題があるわけですね。
 但し、近年、軍事史の分野ではかなり変化がみられます。九〇年代以降と言っていいと思うんですけれど、若手の、戦争体験を持たない世代の中から軍事史研究がかなり出てくる。これは狭い意味での作戦史、戦闘史ではもちろんなくて、かなり学際的な色彩を持っています。政治史、外交史、民俗学、教育学…そういう様々な分野から軍事史研究にアプローチが始まるわけですね。そういう点で、この狭い、従来型の軍事史研究が、今、批判の対称になって、ようやく幅広い問題意識の元で、戦前の軍隊や戦争を分析しようというふうになってきている。こういう変化が現われてきていますので、できる限りそういう変化、新しい研究を組み入れながら少しお話をしてみたいと思っています。

戦前の軍事史研究
 戦前の軍事医学の特質を、ごく簡単に軍隊との関係で考えて見ますと、まず一点目は全体として軍隊の中で軍事医学が軽視された、あるいは軍事医学が大きく立ち遅れたということがいえると思います。基本的には日露戦争当時の体制のままで、アジア・太平洋戦争を闘ったということになります。それについては、資料の中の僕の論文ですけれど、「アジア太平洋戦争の戦場と兵士」。ちょっと読んで見ますと、「以上のような事態の背景には、日本における軍事医学や戦時衛生体制の立ち遅れという現実があった。陸軍の野戦病院や衛生隊の行動準則は、日露戦争の前後に制定された戦時衛生勤務令や衛生隊勤務要領によっていたが、日中戦争の拡大に伴って、従来の戦時衛生のあり方の見直しが」一応認識されるようになった。「具体的には、最前線での救護活動を強化する必要があること、受傷後できるだけ速やかに初期治療を受けさせること」などが認識されるようになって「四〇年三月の作戦要務令第三部の改正によって、衛生隊の患者収容隊への改変、最前線への戦闘救護班の派遣などが規定されたが、これに対応する戦時衛生勤務令や陸軍戦時編制の改正は行なわれず、各師団衛生部隊は、」日露戦争の体制のままで対英米戦を闘うことになったということになります。
 具体的な面で言えば、アジア・太平洋戦争の段階で立ち遅れが目立っていたのは、一つはマラリア対策ですね。アメリカは徹底的にDDTをばら撒いて、蚊の駆除に努め、かなりの成果を収めるわけですけれども、日本の場合にはマラリア対策が決定的に立ち遅れて、多数の患者を出します。もう一つは、輸血です。連合国の場合には最前線で受傷した場合に輸血をするというのが一般的で、そのためにそういう体制が整えられていくわけですが、日本軍の場合にはそれをしない。止血はしますが、輸血を最前線で行なう体制は最後までできない。そういう点で非常に大きな立ち遅れがありました。
 もう一つは、皇軍−天皇の軍隊独特の思想があって、それに軍事医学そのものもやはり束縛されざるを得なかった。特に軍医、衛生兵の果たした役割で注目する必要があるのは、傷病兵の処置です。傷を負ったり、病気で動けない兵士は退却の時、玉砕の時にどうするかという問題があって、例えば、最初の玉砕は一九四三年のアッツ島の玉砕ですけれども、この時は野戦病院にいる多数の傷病兵は、最後の突撃の前に全員殺害―処置されています。そういう玉砕戦、退却戦の時、傷病兵は軍医や衛生兵が手を下して殺してしまうわけです。
 そういう状況があったというのは非常に特徴的なことだと思います。何時頃からそうなっているかはちょっとはっきりしない。明治・大正期は、少なくとも退却に当たって、どうしても止むを得ない場合は、衛生兵をつけて傷病兵を現地に残し、敵の手に委ねる、それでもかまわないということになっていたんですけれども、アジア・太平洋戦争の段階では、まず例外なく処置していくというふうになっています。恐らく一九三九年のノモンハン事件がきっかけではないかと思われます。大量の捕虜が日本軍に出て、戦闘後の停戦協定で日本軍捕虜は帰ってくる。その扱いが大問題になるんですけれども、この時が恐らくきっかけになるんではないかと思われます。その後、さっき言ったような処置をするという、そういう状況が生まれて、普遍化していったということがいえると思います。
 それからもう一つは、非科学的な精神主義の伝統がある。資料に、『国府台陸軍病院の想い出』というのがあります。国府台陸軍病院というのは、陸軍の精神病の専門病院です。日中戦争以降拡充されます。千葉にありますけれども、斎藤茂太さんがそこで軍医をやっていて、彼の思い出が面白い。
「その頃の帝国陸軍には「皇軍に精神病者はいないと」か「精神病者はたるんでいるから起る」とかいう単純きわまる思想が横行していて、衛生部すらその認識は決して高くはなかった」
 と言っています。衛生部というのは軍医とか衛生兵の監視をする陸軍内の最大の部局ですけれど、その衛生部の中においてすらそういう意識があったと言うことを率直に語っています。そうした形で皇軍独特の精神主義があったということが言えると思います。

戦場と軍隊の諸相一 餓死の問題
 以上を前提として、三番目、軍事医学から見た戦場と軍隊の諸相を、近年の研究からお話してみたいと思います。一番目は餓死。餓死に対する注目が集まっています。資料の『疫病の時代』を見てみると、日露戦争の画期性ということが言われています。「日露戦争は疫学的にみて画期的な戦争になった。戦死、戦傷死の数が病死を上回った史上最初の戦争になったのである。日本軍は戦闘で五万八三五七人を失い、病気で二万一八〇二人を失った…」と書いてあって、つまり従来の戦争ですと、広い意味での戦死者の大部分は戦病死なわけですね。病気で死んだ人の方が多くて、直接弾に当たって死んだ人の方が少ない。伝染病等々の問題が深刻で、病死のほうが多い。ところが、日露戦争で初めて、狭い意味での戦死者、戦闘での死者の方が戦病死者を上回るということになったわけです。これは補給とか衛生の体制が進むということだと思いますけれども、そういう点で、日露戦争というのは、非常に画期的な戦争だったと医学史的には言われているわけです。ところが、そこから見てみると、アジア・太平洋戦争の戦場というのは、異常なものがあったということが逆照射されてくることになります。日中戦争以降の日本人の軍人・軍属の戦死者は、約二百三十万人です。厳密に言うと、朝鮮人兵士、台湾人兵士約五万名を含んでいますけれども、一応全体で二百三十万名の軍人・軍属が戦没、死亡したというふうに言われています。その詳しい年次別の統計がない。僕が見た限りでは県レベルでは何年に何人の戦死者があったかというのは分かるんですが、全体的には詳しい年次別統計がないし、特に軍事医学の面では、資料が焼却された結果だと思いますが、残されているものが少なくて、研究上のネックになっているんですけれども、藤原彰先生の推計によれば二百三十万の戦死者のうちの、大体六割が広い意味での餓死であったと言われています。広い意味というのは、直接栄養失調で死んでしまう場合と、栄養失調で体力が落ちて、抵抗力が失われて伝染病等々で死んでしまう場合、これを合わせて二百三十万人の六割が広い意味での餓死であったと言われているんですね。日露戦争の段階でようやく戦闘による死者の方が戦病死を上回ったのが、再逆転してしまうわけですね。もう一度逆行、あるいは退行してしまうということになります。
  ただ、この二百三十万人には異論もありまして、最近、秦郁彦さんが書いた論文に「第二次世界大戦の日本人戦没者像―餓死・海没死をめぐって−」があります。この海没死というのは、船が沈没することによって戦死した人々のことで、これが三〜四〇万あるんですね。これも驚くべき数です。日露戦争の戦死者が八万ですから、三〜四〇万という数の異常さがわかると思います。これは、僕自身関心があるんですけれども、連合軍の場合は客船を徴用して輸送船、兵員の輸送に充てる、あるいは専用の軍事輸送船があってそれが兵員の輸送に当たる、という形で体制が整えられているんですけれども、日本の場合には、基本的には貨物船を徴用して、それを改造する。貨物船の船倉の中を仕切って、兵隊は蚕棚といいますけれども、そこに兵員を詰め込んで輸送するわけです。ですから逃げ場がほとんどない。そこに戦争の末期には、船舶が不足しますから、詰め込めるだけ詰め込みますので、一隻沈没すると非常に多くの海没者が出るということがあるんですね。この海没の問題と餓死者の問題を秦論文は取り上げています。秦さんの推計によると、餓死者の割合は三七パーセントという推計を藤原説に対して対置しています。これは、要するに正確な統計がありませんので、餓死率がわかる地域の数字を全体に当てはめて推計するという方法を採らざるを得ないわけですけど、秦さんは、藤原先生の推計は餓死率があまりにも高い地域の数値を全体に当てはめ過ぎているということで、下方修正し、三七パーセントという数字を出しています。それにしても秦さんの場合でも「内外の戦史に類を見ない異常な高率であることに変わりはない」ということを付言されています。こういう餓死の問題があるんですね。
 藤原さんの研究のもう一つのポイントは、将校、下士官、兵士と、下に下がっていくほど餓死率が高くなる。そこに明白な階級差があるということですね。これを明らかにしている点が重要な論点だと思います。
 この餓死の問題は、アジア・太平洋戦争に固有の問題ではなくて、どうも日中戦争期から発生しているんですね。それを書いたのが、資料の「中国戦線における損耗」という表。これは僕の論文からコピーしましたけれど、(a)が狭い意味での戦死、戦闘死。(b)が戦病死。で(b)を(a)と(b)を加えたもので割った、全体の戦没者の中での戦病死の割合というので見てみると、一九三七〜三八年の日中戦争の初期はまだ普通で、一六・九パーセントと、未だ戦死者の方が多い。ところが日中戦争が長期化して泥沼化しはじめる四〇年には四六・四パーセントになる。四一年には五〇・四パーセントで半数を超える戦病死者が出ているんですね。中国戦線も末期には非常に悲惨な戦場になりつつあるということを示していると思います。アジア・太平洋戦争で初めてこういう問題が発生したわけではなくて、日中戦争の長期化の中で、こういう問題が出てくるということになります。

戦場と軍隊の諸相二 戦争神経症
 戦争神経症というのは、欧米では戦闘ストレス(セルショック)と言いますけれども、戦場で精神的な障害を起こしてしまう兵士の存在が、欧米の軍事医学では非常に大きな研究テーマになっているわけです。これは第一次世界大戦ぐらいから、非常に長期間の塹壕戦が続く中で、精神的に障害を起こす兵士が多数出てくる。その対策をどうするかということが、欧米の軍事医学では大きなテーマになっているようです。軍隊の側も戦争神経症対策をかなり重視して対策を練り上げてきたという経緯があります。
 一つは、例えば休暇制度ですね。ベトナム戦争のときのアメリカ軍が典型的ですけれども、前線で戦闘した後は後方に下げて、そこで休養を取らせて、訓練してまた前線に送り出すというローテーションですね。こういう休暇制度を導入するということがあります。ところが日本軍の場合は、本格的な休暇制度はないんですね。これは非常に兵士にとってはストレスが溜まる。日中戦争の初期に動員された兵士は、高年齢の予備役、後備役と呼ばれる、現役でない、多くは家族をもった兵士。三〇代や、場合によっては四〇代の兵士が動員され、激戦地に投入される。ずうっと帰って来られないという状況が続くんですね。ですから日中戦争の翌年は、出生率が激減します。つまり家庭を持っている男が大量に戦場に送られたからですね。そのためもあって、途中から少しずつ返し始めます。それから同時に、予・後備役の兵士は家庭もあって生活を引きずった人たちですから戦意もあまり高くないです。それから軍紀が乱れるんですね。略奪とか強姦とか、そういう非行に走る傾向が強いので、現役の若い兵士に入れ替えていく、そういう措置が採られますけれども、基本的には日本軍の場合には休暇が制度化されていません。ですから、そういう形で、何年間か中国で戦った後、また戻されますけれども、今度はアジア・太平洋戦争が始まってまた動員されるという形で、長期間にわたって戦場に行きっぱなしの人が非常に多いということで、休暇制度の問題は日本では軽視されてきた問題ではあります。欧米では戦争神経症対策として、休暇制度というものが進むわけですね。
 同時にこの戦争神経症の問題は、ご存知のように社会問題化します。戦場で精神的な傷を負った兵士たちが帰ってきて、戦後の社会に適応できない。そういう事例が多発するわけです。ベトナム戦争のときの帰還兵が有名です。映画でも「ディア・ハンター」などで取り上げられたような、ああいう世界が深刻化します。これは、今、闘われているイラク戦争の場合も、相当深刻な状況になっているようで、たとえ戦争が終結したとしても、アメリカ社会の中に非常に深刻な病理的な現象が生じる可能性が高い。まわり中全部敵だらけに見える状況の中で、戦闘に従事するということが兵士に与えるストレスは非常に強いものがあるので、精神的に病んでしまう兵士が、現に出ているわけです。
 自衛隊も、イラクの派遣の問題があって、コンバット・ストレスの研究がようやく始められたようです。どういう研究があるのかよくわからないですが、一方で、PKOで派遣された自衛隊員に関しては、公になっている研究があります。河野仁さんの研究ですけれども、資料に「自衛隊PKOの社会学」という論文があります。彼は、PKOに参加した自衛隊員に対するかなり広範囲な聴き取り調査をやっているんですけれども、その結論が、
 「注目されるのは、どのような派遣任務であれ、「自衛隊部内の人間関係」は常に主要なストレッサーの一つとなっている点である。この点に関しては、アンケート調査の自由記述やインタビューの結果から興味深い事実が判明した。ここでは仮に「三ヶ月危機説」と呼ぶことにしよう。これは派遣三ヶ月くらいになると精神的に不安定になって精神保健上の危機が訪れるという見方で、次第に要員の自己主張が強くなり部隊のチームワークを乱す要因になる…」。
 集団的な生活の中に投げ込まれていると、三ヵ月後に危機がやってくるという説ですね。こういう状況があるようです。これは、恐らく戦闘に対する恐怖ということではなくて、集団生活に耐えられないということだと思うんですけれども、その点で注目したいのは、今の自衛隊、これ僕は専門家ではないので、断片的なことしか知らないんですが、防衛庁の本庁が、今、市谷にありますよね。前は陸上自衛隊の市谷駐屯地ですけれど。この防衛庁の本庁の中に一部の兵舎がまだあり、隊員が起居しています。戦前の日本軍でいうと内務班という、兵隊が起居する空間があって、そこで集団生活をするわけですね。この内務班で有名なのは、夜になると初年兵に対する私的制裁、リンチが行なわれる空間だったわけです。今の自衛隊の場合は、パンフレットによると、昔の内務班に当たる部屋は、ボードで仕切って、準個室化を進めています、と宣伝していましたけれども、つまり、集団生活に耐えられない、自由に手足を伸ばして音楽を聴けるような空間がほしいというわけですね。海上自衛隊の人気がないのは、あれは軍艦ですから、居住性は非常に悪いので、個人の生活・プライベートな空間というのがない。ですから敬遠される。これからの自衛隊は、客船型護衛艦というのを造らないとやっていけないのではないかというのが僕の説なんですけれども、それぐらい集団生活というのが忌避されていて、新聞に出ていましたけれども、地方の駐屯地は、任務を終えた後は、下宿屋等々の物価が安いということもあると思いますけれど、基地の外に下宿を借りて、そこで起居することを黙認しているらしいですね。これは有事即応体制(と僕が大きな声で言うのも変なんですけれども)ということを考えると、兵隊にそんなことを認めているということは異常な事態なんですよ。これは恐らく規律のある集団生活に、現代の若者が適応できないということだと思うので、こういう戦争神経症に類した問題は、自衛隊の中でも深刻な問題になっている可能性があります。どうも自殺者がかなり増えているということが報道されていて、その原因がよくわからないんですけれども、ともかくそうした戦争神経症の問題があります。
 この戦争神経症の問題に関しても、日本でもようやく研究が出てくるようになりました。先ほどの国府台病院、これは戦後国立病院になるんですけれども、この病院に戦争神経症の患者のカルテが大量に残されていて、清水寛先生という障害児・者に対する教育の専門家が、戦争神経症の問題に関心を持って研究を積み重ねてきて、かなりわかってきました。これは今、資料集が不二出版から出始めているところですけれど、この戦争神経症の問題、日本でもかなり深刻だったということがわかります。これは国府台病院に運び込まれて入院した患者に限っての分析で、全体の統計がありませんので、どの程度の戦争神経症の患者がいたかはよくわからないんですけれども、ともかくもう日中戦争以降は、多数の戦争神経症患者が発生していることがわかります。ただし、データに偏りがあって、残されているカルテは比較的恵まれている例なんですね。つまり、戦地で戦争神経症を発症して、病院船に乗せられて日本まで送り込まれて帰ってきて、そして国府台病院に入院するという、かなり恵まれたケースですよね。大部分は、途中で死んでしまったり、戦地でそのまま放置されたりというケースがあると思います。しかし、今のところ国府台病院の資料が最大の研究資料ですので、それに基いた研究が進められています。この研究の中で驚くのは、戦争の長期化とともに戦争神経症が非常に深刻な問題になっていくと同時に、清水さんが着目しているのは、知的障害者の問題なんですね。軍隊の中に大量の知的障害者が入ってくるわけです。これは理由ははっきりしていまして、一九四〇年の徴兵検査のとき、身体検査の合格基準を大幅に下げます。兵隊の数が必要なので、多少身体的に病弱であったり、体格が劣ったり、時には知的な障害があっても、意識的に採っています。その結果、知的な障害をもった兵士が、軍隊の中に入ってくると、その生活に適応できなくて、精神障害を被って国府台病院に入院するというケースがかなりたくさんあるんですね。知能検査の結果、一番精神年齢が低いと判定された兵士の場合は五才というのがあって、本当にびっくりするのですけれども、そういう大量の知的障害者の存在があります。そのために、アジア・太平洋戦争の末期には、軍隊の内部で知能検査をやるようになります。これが日本で最初の集団的な知能検査のようです。そういう知的障害者の存在も明らかになってきました。
 但し、面白いのは、知的障害・精神障害兵士の中には、詐病がいるんではないかという感じがします。徴兵検査のときもそうですけれども、どうしても兵隊に取られたくない人は病気を装うわけです。一番原始的なのは、すぐ見破られてしまいますけれども、耳に豆を押し込んで難聴を装うとか、鳥の羽を押し込んで難聴を装うとか、前の日に醤油を大量に飲んで、これは塩分の採り過ぎで心臓の動悸が激しくなるらしいんです。激しい場合には自分の人差し指を切断する、ライフルの引き金を引く指を切断する、というような、自分の体を傷つけたり病気を装って軍隊に行く事を拒む人がいるわけですね。この精神障害兵士とされた人の中に、どうも意識的な徴兵忌避の人が、いる可能性がないとは言えないと思うんです。先ほどの斎藤さんの資料に戻っていただいて、最後のところ、戦争が終わった後、「数日を経て病棟に驚くべき変化が起った。神経症による歩行不能串者が歩けるようになり、戦中、苦労してなかなか治らなかった失声症が自然に治ってしまった」と書いてあって、戦争が終わって環境が変わったということもあると思いますが、意識的な詐病がいた可能性がある。これは反徴兵制の、「徴兵忌避の地下水脈」ということを考えてみると、その面からも重視すべき問題ではないかと思います。
 それから、先ほど餓死のところで出てきた、栄養失調との関係もある。というのは、日中戦争期から、日本の軍隊の中で多量の栄養失調患者が発生します。この理由がわからないので、陸軍が大混乱に陥るんですね。もしかすると伝染病かもしれない、いろいろな可能性を追求して結局よくわからなかったのです。で、それについて触れたのが、野田正彰さんの『戦争と罪責』ですね。
 「ところが、中国に侵入した日本軍にも、食糧は欠乏していないのに、戦争浮腫と類似の症状が現われた。」痩せとか貧血とか、栄養失調でお腹が膨れるわけですね。それから「慢性下痢を主徴とする病兵が続出し、軍は、「戦争栄養失調症」を命名した。特に下痢は持続し、腹痛やしぶり腹はないが、泥状、ときには粘血便となった。痩せさらばえ、悪液質になって死亡するものが多かった。」その理由がよくわからない。食糧がそんなに不足している状況ではないにもかかわらずこういう患者が出てくる。その結論ですが、資料の線を引いたところ、「実は兵士は拒食症になっていたのである。食べたものを吐き、さらに下してしまう。壮健でなければならない戦場で、身体が生きることを拒否していた。医大を卒業して軍医になった小川さん(亡くなられましたが、平和遺族会の会長をされていた方)は、精神医学に精通していたわけではない。彼が精神科医であったとしても、当時の日本の精神医学は、戦争神経症についてほとんど研究していない。鍛えれば強くなる、報国の集団心理によって死の不安は解消すると単純に考える帝国陸軍から見れば、戦争神経症という概念は余分なものでしかなかった。」と書いているんですけれども、どうも今の時点から見てみると拒食症、精神を病んでしまって、戦場で、食べられないということ、その中で栄養失調になっていく兵士がかなりたくさんいるということを考えますと、隠れた戦争神経症患者がたくさんいるわけですね。

戦場と軍隊の諸相三 自傷
 これもあまり従来注目されてこなかった問題ですけれども、例えば司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』が描く日本兵士のイメージというのは、非常に純朴に国の防衛ということを考えて、機関銃の激しい銃火の中を何も疑問をもたずに突撃して倒れていく兵士が描かれているわけですけれども、どうも戦場の現実とかなり違うという印象を持ちます。例えば、これは戦前かなりよく読まれた有名な本なのですが、『鶴田軍医総監 日露戦役従軍日誌』。軍医総監というのは陸軍中将に相当するくらい階級の高い人ですけれど、この本が一九三六年に陸軍軍医団から出されています。これは日露戦争で、旅順の二〇三高地の攻撃に参加した軍医さんの日誌で、非常に面白いものです。
 一つは脚気の話。脚気というのは、今ではビタミンB不足から起こるということがわかっていますけれども、当時は原因がわからなかった。軍隊では一日に大量の白米を食わせます。副食物が貧困ですから、基本的にはエネルギーは白米で補うことになって、その結果ビタミン不足から大量の脚気患者が出ますが、その原因がわからない。しかし、刑務所とか、麦飯を喰わせているところでは脚気が起こらないというのは経験的に分かるわけです。それで麦飯を導入し始めるんですけれども、それに大反対したのが有名な森鴎外。軍医なんですけれども。そのために陸軍では麦飯を白米に混ぜる対策が遅れて、日露戦争の時には大量の脚気病の患者を出します。これは死者も出ますので、相当深刻な問題なんですけれども、その脚気の話が、鶴田軍医総監の日誌に繰り返し出てくる。
 もう一つ繰り返し出てくるのが、自傷の問題なんです。一九〇四年七月一八日の記述を見ると「歩兵第一ノ六中(第一連隊の六中隊という意味です) 予歩上等兵(予備役の歩兵上等兵) 奥村某 左前?軟部貫通銃創」この人は、本人の言うところによると、左手を耳に当てて、敵の動静を探ろうとしていたところを敵の弾が飛んできて手をやられたということですけれども、今風に言えば硝煙反応が軍服のところから出る。つまり近距離から撃っている、自分で撃っている、これ自傷なんですよ。戦場から、最前線から逃げるために自分の体を自分で傷つける、死なない程度に。そういう自傷が本当に多いんですね。びっくりするくらい繰り返し自傷が出てきます。続いて一九〇四年の九月二十五日のところを見てみると、「自傷の件に付参謀長より各隊長に通牒するところあり、」内容が知りたいところですけれども、軍の中央レベルでも相当深刻な問題として認識していたことがわかります。「今回の戦闘に於ても我将校中不進の兵卒を二、三名斬殺したる後敵塁に躍入戦死したるものあるを見たりと(星野参謀長の談)。」つまり、将校が突撃という号令を出しても兵隊が進まない。そのために、しり込みする兵隊を切り殺して突撃した将校がいるっていう話なんですよ。戦意の低下が生じているということがよくわかります。アジア・太平洋戦争でもあるようで、防衛医大に、去年どんな資料があるのかなあということで見に行きました。あまり期待したものはなかったのですが、その中で陸上自衛隊衛生学校がまとめた『衛生戦史 フーコン作戦 硫黄島作戦』というのがありました。フーコンは北ビルマで、ここで連合軍や中国軍の精鋭部隊と日本軍が闘うんですが、そこのフーコン作戦についての叙述。生々しいので読んでみますと、「自傷患者は、なにによって判別するかについては、事前によく研究した。その結果次の点で判別できるという結論がでた。
(一) 負傷の部位は、生命に別状がなく、又じ後の生活に困らない左手の下肘部から先きが多い。ー右手は皆無とはいえないが左手の場合が圧倒的に多い。
(二) 自傷の場合は、銃口から負傷部位までの距離が短いために、傷口にガスが黒く付着している。ーつまり、近くで、ライフルだったら恐らく足の指で引き金を引いて、撃つわけですね。ですからここにガスが付いてしまう。それで見破ることができる。
 チェックは、特に将校、下士官を厳重に実施した。このチェックにおいて自傷を発見された者も幾人かおり、その中には将校もいた。
 それ等の者に対し、一人一人裁判をして判決をくだす余裕は第一線にはないので、厳重な注意をして前線へ送り帰した。これをそのまま気の毒だといって看過すれば、部隊の士気は落ち規律は乱れて総崩れとなるのでそうせざるを得なかった。」と書かれている。ですから、軍医の仕事というのは、一つは自傷者を見破る、摘発するということ。これが仕事としてあるわけです。こういう問題は、角度を変えてみると「生の哲学」、戦時下は「死の哲学」が説かれるわけですけれども、生きようとして必死になる人たちもいるわけで、その人たちの「生の哲学」の歴史等も捉え直すことができるわけですね。どうしても生き残りたい、死にたくないという兵士の願望のようなものがあって、実際にはそれが自傷となって現われたり、詐病になって現われたりすると思うんです。もっと一般的に言えば、なるべく戦闘勤務に就かない、後方の主計将校等々になる、インテリの場合はそういう選択肢があるわけです。そういう生き残りの哲学のようなものを、もうちょっと明らかにしていく必要があるわけです。これ、あまり今まで光が当てられてこなかったテーマだと考えます。
 その点で見てみると、特攻隊の場合も、そういう事例がかなりある。爆弾の場合は、加速度が付くので貫通力があるから、連合軍の軍艦の甲板を貫いて中で爆発しますから、致命的な打撃を与えることができるわけです。ところが、特攻機というのは、飛行機自体が揚力をもちますから、ブレーキの役割を果たしてしまいますので、わかりやすくいうと硬い甲板に卵をべちゃっと投げつけたようなことと同じで、機体がばらばらになってガソリンに火が付いて、爆弾が爆発して、甲板の上のアメリカ兵にダメージを与えることはできますけれども、船を沈めることはそもそもできない。一番小形の戦闘艦である駆逐艦、ラフェイという名の駆逐艦は、六機、特攻機がぶつかっても沈没しない。それぐらい打撃力は弱いわけですよね。ですからどういうことになるかというと、重い爆弾を積めるように改装をして、出撃させるわけです。大部分は旧式機で、乗っているのは飛行時間の短い未熟なパイロット。そういう人たちが特攻を強いられるわけですよね。特攻隊員の六割ぐらいが下士官・兵で、四割が将校で、そのうちの八割くらいが学徒兵です。それと少年兵が多い。これは戦意という点では上がらないのがむしろ自然であって、その中でさまざまな葛藤が隊員の中に生まれるんですね。最近出たいろいろな記録を見ても、エンジンの故障等を理由にして、恐らく意識的に引き返してしまうパイロットがいたり、不時着したりするパイロットが出てきたりする。あるいはあまりにも動揺が激しいので、他の隊員に影響を及ぼすのを恐れて、その隊員を特攻隊からはずすということもしばしば行なわれているわけで、そういうことがだいぶ明らかになってきました。林えいだいさんの『陸軍特攻 振武寮』、振武寮というのは帰ってきた特攻隊員を収容して、精神を叩き直すための収容所みたいなものですけれども、この本の中でも、その収容所を作った参謀が、インタビューにようやく応じて語っているのですけれども、それを見ても、かなりの数、意識的に帰還してしまう特攻隊員がいることを伺わせます。二、三日後に封切りになる映画があるんですけれども、アメリカの日系アメリカ人女性が作った特攻隊員の映画がある。これは帰還してきた特攻隊員たちからのインタビューですけれども、外国の映画監督のインタビューと言うこともあるかも知れませんが、かなり赤裸々に、天皇の戦争責任についても「天皇が早く戦争の終結を決断していれば、特攻隊員の大部分救われたんだ」というふうに語っています。
 どうも、ここ一、二年、生き残った兵士の人たちが、恐らく最後という気持ちがあると思いますけれども、かなり生々しい事例を語り始めています。NHKでいうと、去年のNHKスペシャルで[日中戦争]をやりました。それは上海攻略戦から南京攻略戦に参加した、金沢の第九師団の兵隊さんたちの日記とインタビューに基いて構成されているんですけれども、やはりインタビューに応じた兵士が、揚子江上で数百人の中国人を機関銃で射殺したということをしゃべるんです。しゃべり終わった後に、これでようやく胸の中のものを吐き出して冥土にいける、そういうホッとしたような表情を見せるんですけれども、それが非常に印象的でした。今、NHKは各支局を動員して、兵士からのインタビューの作業を進めているようです。恐らく兵士がしゃべり始めた事は、戦友会が解体しつつあることと関連するように思います。山田朗さんの意見です。戦友会は、このところほとんど開店休業か、解散ですね。もう維持ができなくなっている。今まで戦友会がしっかりしているところでは、ある人が、例えば南京で何人殺したという証言をすると、その日のうちにその人の家に抗議の電話が来るわけです。誰がどこに住んでいて、あれがこういうことを言ったというのが、すぐわかってしまう。戦前から同じ地域にずっといるわけですから。その戦友会の縛りがなくなり始めたというのも、もう一つの原因かもしれません。そういう点でいろいろな証言が出てきたということが言えると思います。

戦場と軍隊の諸相四 覚醒剤と異常心理
 今、自傷の問題をお話しましたが、その他の問題をいくつか、残りの時間でお話したいと思います。
 一つは覚醒剤の問題、これも前から関心があるんですけれども、よく戦後の特攻隊に関する語りの中で、出撃の前に覚醒剤を打って死への恐怖感を和らげて出撃させたんだという語り・証言がたくさんあるんですけれども、これは正確ではないようです。覚醒剤を使っていたのは事実のようです。日本のパイロットは非常に酷使されていて、アメリカ軍のパイロットの場合、ドイツへの爆撃に例えば十回出撃すれば、その任務から開放されて後方に下がれる、そういうことがあるわけですけれど、日本の場合は死ぬまで闘わされる場合が多いので、非常に疲労している。ですから戦争神経症も多いようですけれど、その疲労対策で覚醒剤を打っています。また、海軍の軍医の雑誌を見ていたら、見張りの水兵が、夜間、双眼鏡で敵の船を監視する。レーダーが発達していないので、原始的なやり方ですが、夜間の視力を増強するために覚醒剤を打っているんですね。これが効くのかどうかわからないんですが、兵隊の回想にもそういうのがあって、僕が読んだ回想では、夜間戦闘機のパイロットが、戦後ずうっと原因不明の病気に悩まされて、一向に原因がわからない。最後にわかったのは、覚醒剤中毒になっていた。なぜなってしまったかというと、夜間戦闘機として出撃する場合に、夜、目が見えるようになるという理由で、毎回何か薬を打たれていたということがわかって、それが覚醒剤だったんですね。そういう形で、疲労回復とか夜間の視力の増強ということで覚醒剤を大量に使っていて、それが戦後一斉にばあっと民間に流れてくるわけですね。そういう問題があります。
 もう一つは、戦争犯罪研究の関係で、戦場における異常心理の研究。これがよくわからないんですけれども、どうも日中戦争が始まった辺りから、軍の内部で戦場心理の研究が始まるようです。資料の中に、別のところで作った僕の文章ですけれども、高崎隆冶さん編の『軍医官の戦場報告意見集』というのがあって、その中に早尾さんという軍医のレポートがあります。この人は、金沢医大の先生だったんですけれど、上海に派遣されて、戦場神経症と犯罪を引きおこす兵士の心理をやっていて、戦争犯罪の引き金となる戦場における異常心理について、生々しいレポートをつくっています。人を殺すこと自体が、嗜好というか楽しみになってしまうような兵士の存在を描いています。早尾さんは、(たまたま防衛庁で見つけたんですけれども)その他にもいくつか、『戦場心理の研究 総論』といったようなレポートを書いています。それを見ると、彼は南京陥落の直後に南京に入っていって、大量の処刑を目撃し、殺すことが快楽になっていく、そういう兵士の存在に注目をしています。この方は、「十五年戦争と日本の医療研究会」とかいろんなところで調査をしている人がいて、NHKでもその後の足取りを調べたようですけれども、ちょっとよくわからないです。大学を辞めてしまうんですね、戦後。ご遺族も最近までご存命でいたようなんですけれども、どういう目的で中国戦線に派遣されたのか、よくわからない。少なくとも日中戦争の初期ぐらいから、戦時下の戦場での異常心理の研究を、軍中央が始めているのは確かなようです。戦場における蛮行、戦争犯罪の頻発という状況と、明らかに関係があると思います。先ほども言いましたように、日中戦争の初期の兵士というのは、非常に悲惨な状況に置かれていて、年齢が上の兵士が多いんです。というのは、陸軍では、日中戦争は副次的な戦争で、最大の重要な戦争は対ソ戦でした。ソ連との戦争のために現役兵中心の士気の高い部隊は後置しておいて、予・後備役兵を大量動員した特設師団を中国戦線、華中に投入するわけです。ここは中国の蒋介石の国民政府の最精鋭部隊が上海にいるわけです。そこに投入され、今風に言えばぼこぼこにされてしまうわけです。非常に激しい戦闘になります。そういう兵士たちがいて、先ほども言ったように家族も持っていて、子どもたちもいる、そういう人たちが長期間にわたって戦争の目的もはっきりしない状況の中で、激しい戦闘に従事しますから、当然、退廃というか、荒れが生じるわけですね。その結果日中戦争の初期は、非常に高い戦争犯罪の発生、略奪・強姦等々が起ります。それで慌てて現役の若い兵隊に入れ代えていく作業が行なわれるわけですけれども、それだけ深刻な戦争犯罪が戦場で頻発して、それとの関連で、こういう異常心理研究のようなものが開始されたのではないかというふうに考えられます。これは未だこれ以上にはわからない。

これからの軍事史研究

 以上のように、今まで戦闘というもの、あるいは戦場というものを研究の対象として、分析作業をしてきたのは、旧軍人や自衛隊の関係者だけだったわけです。その人たちが分析した戦場とか戦闘というのは、基本的には戦訓研究。次の戦闘のために役に立てる教訓を歴史分析の中から導き出すということです。それとは違う角度から戦場や軍隊を描く必要がある、描けるんじゃないかというのが、最近の僕らの問題関心です。ですから、例えば軍事医学という面から見て、日本兵が置かれた状況や、戦場の特質、日本の軍隊の特質ということを浮かび上がらせることができるんじゃないか、そういう問題関心ですね。
 これは、難点としては資料がない。防衛庁の防衛研究所の戦史部にも断片的なものしかありません。防衛医大にも、ほとんど使えるものはありませんでした。一部、まとまった形であるのは、軍医学校の資料を引き継いだ陸上自衛隊の衛生学校。ここは軍医学校の資料をかなりたくさん持っていて、見られるものがかなりあるようなんですけれども、整理が終わっていないのと、あまり見せるのに積極的でない雰囲気があって、今のところ自由に使えるという状況にはありません。そういう点では資料の面で限界があるんですけれども、しかし、さまざまな断片的な資料の中からだけでも、戦場、軍隊の特質というのは積み上げていけば見えてくるんじゃないかと思っています。

質疑応答(概略)
質問 食糧の現地調達と医学・精神面の軽視はどちらが先だったのか。
答  日清・日露戦争までは近代的な軍隊の整備に力を注いでいる。日露戦争以降、軍隊がおかしくなってきた。
質問 徴兵忌避の方法について
答  一番普通の方法は逃げる。疾病を装うのは大体軍医に見破られる。海外への移民の問題は、今、興味を持っている。
質問 おばの連れ合いは昭和一九年五月に三五歳で徴用、九月に戦死した。病死ということだが、民家の小麦粉を食べてほとんどが亡くなったと、生存者が証言している。
答  戦病死が増える背景に、兵隊の置かれている状況が非常に過酷だということがある。
質問 補給や兵站がお粗末なのはどうしてか。
答  国力の限度を超えた軍隊を持っていたので、正面整備にしか予算をまわせなかった。
質問 吉田先生に倣って、靖国ガイドをしている。父もそうだが、日中戦争期は高齢の兵士が多かった、また慰安所を利用したのは既婚者が多かったと聞いたことがあるが、どうなのか。文献を教えてほしい。
答  高齢者徴用の問題は、藤原先生の『南京の日本軍』に、予・後備役の動員について出ている。
質問 朝鮮などでは若い人たちが慰安婦にさせられている。それは性病対策と聞いたことがあるが本当か。
答  シベリア出兵(干渉戦争)の時に性病感染者が大量に発生して戦力にも影響を及ぼしたことが大きいと言われている。
質問 この辺は陸軍幼年学校や陸軍病院があった。戦争中のこの土地の役割について聞きたい。

本 庄
 陸軍幼年学校ににいたが、私がいたのは仙台。同期生で、いじめなどから、自殺したり精神障害になった友人がいた。

長谷川
 この一帯は尾張徳川の下屋敷跡。戊辰戦争で官軍が布陣した後、軍都になっていく。陸軍戸山学校は明治七年にできた。

川 村
 江戸城の守りに尾張藩が配置された。今の防衛省の辺りが上屋敷跡。こちらが下屋敷跡で、近衛騎兵連隊ができる。軍医学校はもとは富士見町にあったが、震災をきっかけに、陸軍病院に近いこちらに移転され、その後、防疫研究室ができていく。

終わりに
川 村
 先ほどのお話の中で、軍医学校時代の資料や標本がどこに行っているのかということを私たちも常々調査しています。調査の中で大体わかってきたのは、陸軍軍医学校は、山形だとかあちこちに疎開をしていたんですけれども、敗戦後になって軍医学校に疎開先から資料が全部持ってこられるわけです。当時は軍医学校が復員した後、陸軍病院、「臨時陸軍第一病院」であった、今の国立国際医療センター、ここが国立東京第一病院になるんです。そのときに軍医学校の資料も一旦はそこに移管されるわけです。その後、一九五五年ごろになって、この国立医療センターにあった資料が自衛隊の衛生学校に移管されているんです。そういう経過がありまして、今は三宿の自衛隊衛生学校に彰古館といって、軍医学校時代の資料を展示して一般に見せているところがあるんです。私たちもそこに行って見てきたんですけれども、残念ながらどういう資料があるかというのを懇切丁寧には教えてもらえなかった。ようやく今年になって学芸員を置くようになって、資料整理も進んできたということを聞いていまして、吉田さんもそこへ調査をされたのかなあと思って、行かれた時には先ほどもあまり見せたくないような話があったということでしたけれども、どういう対応だったかということだけ教えていただけますか。

吉 田
 僕が直接調査に行ったわけではなくて、僕の教え子で、修士論文で戦争神経症の論文を書いた女性がいて、彼女にそこに資料があるようだから調べてみなさいというふうにアドバイスしたんですね。で、NHKが先ほどの早尾軍医のことを調べていて、その関係で衛生学校の資料を調べたらどうかという話になって、その教え子の修士の学生が手伝いをする形で調べたんですけれど、どうも、「悪用」されるのを恐れている雰囲気があって、積極的に見せたがらないようなんですね。かなりあるのは事実だと思うので、ほかに残されている可能性があるところはないと思うので、何とかそこの資料を公開してもらうしかないんじゃないですかねえ。

川 村
 そういうことで、今、私たちは厚生労働省に、移管した時の移管目録がないかということを再調査してもらっている状況で、それがなければ防衛省の方にきちんと公開を要求していくことになっていくんだろうと思います。どうもありがとうございました。

常 石
 どうもありがとうございました。
戦時神経症とか拒食症とか、戦場の凄まじさと、僕がやっている七三一部隊で、人体実験なんかやって、いやいややりながら神経症になったり拒食症になった医者は一人もいないんですね。そのことを聞きながら強く思いました。
 もう一つは旧海軍と旧陸軍が仲が悪いと言っていましたけれども、例えば脚気。日露戦争で陸軍では患者がいっぱい出ますけれども、海軍ではあの当時は患者は出ません。麦飯食えばいいよって言ったのは海軍軍医総監の高木兼寛なんですね。森鴎外は冗談じゃないよ、皇軍兵士に麦飯なんか食わせられないとバカなことを言っていて日露戦争で大変な事をやってしまったということがあります。
 いろんなことが繋がっていて、こういう実際の戦場レベルで、一人一人がどんな思いで死んでいったのか、あるいは精神的に傷ついていったのか、そういうことをちゃんと見ていかなければいけないんだろうなと。僕たちは今から一八年前に出てきた骨と一八年付き合うことで、こんなことをいろいろと考えるチャンスをもらっていると思っています。その骨もいずれ生まれ故郷に返したいと思っているので、それまで当分付き合いは続くのかなあと思っています。
 今日は非常に多くの方に来ていただいて、しかも吉田さんの話を聞きながら、本当にこういう具体的な資料を元にして、ほぼ七〇分くらいずっと吉田さんお話しておられました。こういう講義だったらきっと学生も寝ないんだろうなと思って聞いていました。
 どうもありがとうございました。


資料1     資料2(ニュース129号)