179号

 厚生労働省に「人骨」の生前の生活状況調査を求める
〜戦没者遺骨収集推進法との連携も視野に〜



 川村一之
 
 話し合いは3月25日の金曜日午後2時から厚生労働省一階第5共用室で行なった。厚生労働省からは大臣官房厚生科学課の松村達司課長補
佐、人骨の会からは常石代表、鳥居、石川、平野、奈須と川村が参加。常石代表から質問と要望書を松村課長補佐に手渡し、川村から説明、
松村さんから回答と説明を受けた。発見から27年経過、身元確認につながる技術革新も進んでおり、生前の生活状況を知ることが出来る
病歴や抜歯、虫歯、女性の妊娠痕の調査と食生活を明らかにできる炭素・窒素同位体比分析、並びにミトコンドリアDNAの鑑定などを新
たに要望。
 常石代表からは東日本大震災で法歯科学が身元確認に大いに役立ったことを挙げて、抜歯や虫歯の調査は予算もそんなにかからないので
はないかと質問。松村さんからは、いずれにも良い回答はなかった。
 川村からは3月24日に戦没者の遺骨収集推進法が成立し、4月1日に施行されることが決まっており、そこと連絡を取り合いながら必要な調
査を進めたらどうかと提案、前向きな返答を得た。
                            2016329日)

松村課長補佐に要望書を手渡す常石代表

陸軍軍医学校跡地で発見された人骨問題に関する質問と要望


<2016年3月26日(金)朝日新聞> 「アイヌ遺骨 北大が返還へ」

<2016年3月26日(金)日本経済新聞夕刊> 「戦没者遺骨収集推進法が成立」

<2016年4月5日(火)毎日新聞> 「白石の「西洋の窓」宣教師の遺骨か」


 毒ガスから人骨へ 〜お花見ウォークに参加して



 安松 狢

43日午後、35名が、鳥居の案内の下、百人町から大久保、戸山と戦跡を巡った。

百人町の陸軍技術研究所跡

技術本部隷下に第六・七研究所を設置。第六は化学兵器、第七は物理兵器の基礎研究を行う。敗戦直後、昭和三〇年には多数の毒ガスが見つかっている。

戸山射撃場から陸軍戸山学校へ

将校集会所は、今も戸山教会・戸山幼稚園として活用される。今回は戸山教会内部に入れた。

陸軍軍医学校跡地へ

陸軍軍医学校防疫研究室本部は七三一部隊(防疫給水部)の本部。そこから、人骨発見現場と納骨施設のある国立感染症研究所へ。その後に回った石垣の地下道入口や正門跡…。これらの戦跡は、いつまで残っている事だろう。

第二部参加者20余名。「戦時下の陸軍軍医学校」と題して元新宿区議・川村一之さんの講演会。

 お花見ウォークアンケート結果


 内容省略


 お便り(抜粋)


 楠山 忠之


内容の濃い説明で当時の状況を頭の中に描くことができました。「登戸研」、「七三一」とのつながりもあり、人骨問題はぜひ身近なものにしたかったので、十分納得がゆきました。将校集会所の「バルコニー」に、…海軍の毒ガス工場跡地を訪ねた際の平塚で、やはり将校クラスの集会所が今も遺跡として残されていて、その優雅な建造物と相通ずるものがありました。


第六技術研究所があった国立科学博物館跡地

内側から見た戸山教会

桜満開の戸山公園箱根山地区


 戦時下の陸軍軍医学校(前半)



 
川村一之    参考資料

■軍医将校への登竜門

陸軍軍医学校は、医師を軍医にする学校。学生は、甲、乙、丙、丁と別れているが、初任は乙種学生。乙種学生の定員は100名、教育期間は1年。軍医と薬剤は最初からあり、1940年に歯科医将校制度ができて、42年から歯科医乙種学生が入校するようになる。

■乙種学生

軍医教育は戦時下でどのように変わっていくか。

「満州事変」の翌年の入校者は1932年からは大体100人前後。それが1944年は366名、455月(25期生)は380名。教育期間も5カ月に短縮。最後の26期生は、454月に入学して8月に卒業する予定だったが、その前に敗戦を迎える。教育期間は4カ月。26期生はまだ医師免許を持っていない。軍医が足りなくなっていたので、医学部の学生(依託学生)を急きょ入れた。

26期生には本土決戦が主要課題。「国土決戦教令」(1945420日)には「決戦間傷病者ハ後送セザルヲ本旨トス」、「戦友ノ看護付添ハ之ヲ認メズ」と、患者はほっておけという指示。軍医に対しては「衛生部員第一線ニ進出シテ治療ニ任ズベシ」と指示。

なお、26期生は軍医になれなかったので公職追放から免れた。

■軍陣医学

軍医乙種学生の教育科目は何か、1942(昭和17)年の教育綱領の改定を見る。

軍陣医学のバイブルは、1927(昭和2)年に小泉親彦が書いた『軍陣衛生学』。小泉は、陸軍軍医学校長を務め、東条内閣の時の厚生大臣。本の中で、「医学には国境がないけれども、軍陣医学には国境がある」と言っている。軍陣医学は敵国を助けない。

1942年は対米英戦争が始まっていて、教育綱領もより戦術面が強調され、軍陣衛生学の化学戦、軍陣防疫学の細菌戦、防疫給水が重視される。新たに軍陣航空医学と軍陣熱帯病学が入り、臨床医学と国際法がなくなった。

小泉親彦は軍陣衛生学の重鎮で、毒ガスの研究を最初に始め、航空医学などにも関心を持っていた。軍陣衛生学の基礎を築いたのは森林太郎。これが陸軍軍医学校の本流。陸軍省医務局に影響力があった。石井四郎は防疫研究室を創設して細菌戦の研究を始める。石井、増田知貞、内藤良一という七三一部隊に繋がる系統は医務局ではなくて陸軍参謀本部とのつながりが強く、こちらは傍流。

■疎開

敗戦前後の陸軍軍医学校の動向について。

1944年秋に米軍による東京空襲が始まり、陸軍軍医学校も疎開先を探す。19453月に山形疎開が決定。310日に東京大空襲、陸軍軍医学校は救護班を派遣した。疎開を開始したのは3月末。陸軍軍医学校は413日に最初の空襲を受け、乙種学生が入っていた旧陸軍幼年学校の建物を焼失、防疫研究室も焼けた。疎開作業が終わった後の525日、山の手空襲で軍医学校は全滅。残ったのは鉄筋の衛生学教室、図書館と一番南にあった整形外科の木造の別棟。軍医学校は焼け残った図書館を本部とした。それから敗戦を迎えて、822日には原爆調査班の派遣を決定したが、92日に復員をして、軍医学校は終わりを迎えた。法的には1126日の陸軍省令第56号で陸軍廃止。軍医学校は陸軍軍医学舎が1886年に最初に出来て以来、約60年の歴史であった。

疎開先は軍医学校全体としては山形に多い。薬学教室は山梨、富士山頂にも富士分業室があった。それから防疫研究室は新潟の競馬場を接収、信濃川の中州にはその実験場があった。防疫部は千葉の中山競馬場。衛生学教室は袖ケ浦に毒ガス教育のために楢葉実習所を作っている。歯科学教室はわからない。京都にも石井式濾水機を検定するための出張所があった。東京では渋谷分室もあった。臨時東京第一陸軍病院は長野に疎開、病理学教室の標本なども持って行った。

 
幹部宿舎になった高級料亭の「千歳館」(左)と「鍋茶屋」(右)


■山形

陸軍軍医学校の本部や教育隊が疎開した山形市内。現在の山形大学の校内には山形高等学校の記念碑がある。山形高等学校の教授をしていた人の日記には、194547日に、陸軍軍医学校の疎開が決定したらしい、424日に乙種学生が山形高校に入る。

学生の日記が同窓会誌に掲載されていた。1945719日、内藤良一教官の防疫給水の講義を受けて濾水機の作業を見学。81日、化兵教育、イペリット実習。815日に玉音放送。

敗戦から半月ほどたった93日、山形高校の先生の日記には、「缶詰の配給があった。これは軍医学校の置き土産である」とある。

軍医学校の幹部たちは山形市内の高級料亭(1915年に創業した料亭「千歳館」)を、新潟に疎開した防疫研究室の幹部たちも市内の高級料亭(1846年創業の料亭「鍋茶屋」)をそれぞれ宿舎に接収していた。


羽黒神社と病院地下壕跡の裏山

■寒河江

幹部候補生隊が疎開していたのは寒河江市。旧寒河江中学が寄宿舎になり、医療機器や食料などは近くの柴橋村の農家に分散して秘匿された。

柴橋村に軍医学校は地下病院を建設しようとしていた。柴橋村羽黒神社別当の木沢良一さんに案内してもらった。羽黒神社の裏山は木沢さんの私有地で、病院建設のために一部山をくり抜かれたが、今は山形自動車道ができて見られなくなった。この軍医学校の病院部を作るのに福島県の中学生なども動員された。

■左沢(あてらざわ)


軍衛生資料を焼却した月布川河川敷
(鈴木孝雄氏提供)

左沢線の終点が大江町。ここに地下印刷工場を建設する計画があった。最上川と月布川が合流する地点に左沢小学校があり、ここに地下壕を掘って印刷所を造ろうとした。陸軍全体の印刷をしようという計画だった。

印刷工場には民間の印刷工場も一緒に疎開、東京の明和印刷の職員が多数来ていた。駅前の玉川旅館が宿舎になっていて、ご主人の話だと戦後に大量の紙を残していった。

印刷工場が印刷機の試運転を行ったのは814日。次の日が敗戦で何も印刷できず、印刷機は地元の印刷会社に払い下げられた。

大江町の左沢の奥の本郷村に衛生史編纂準備室が疎開。本郷東小学校を事務所にして、村の富農のお宅に分散して宿泊。815日には持ち込んだ資料を月布川の河原で全て焼いた。本郷東小学校元校長の鈴木孝雄さんが調べてくださった。

■山梨

軍医学校薬学教室は甲府市の山梨大学に疎開。同大学人文学系が元の山梨師範学校で、19452月にここに疎開した。76日から7日未明にかけて甲府空襲があり、全部焼けた。

薬学教室の記録では、甲府空襲の折、師範学校の講堂に薬学教室の機材を集めて、ここだけ一生懸命消火活動をした。師範学校の人たちは、軍医学校の人たちが自分たちの校舎を守ってくれたと思っていた。

薬学に関連して、軍医学校が独自開発した抗生物質にペニシリンがある。フレミングがペニシリンを発見したのは1928年だが、日本にはその情報が入らなかった。軍医学校の稲垣克彦少佐は、ドイツの医学雑誌でペニシリンのことを知り、19442月から研究開発を始めた。彼は研究者を集めてペニシリン委員会を組織し、11月までに抽出に成功。生産を当時の森永食料工業の三島工場(今の森永製菓三島工場)に依頼した。1223日に日本初のペニシリン精製液1.5リットルが生産され、これを日本名で碧素と命名、碧素研究所は山形県かみのやま温泉に疎開した。稲垣少佐の資料は、製薬会社「エーザイ」の「くすりの博物館」(岐阜県各務原市)に保管されている。

(以下次号)


 
ペニシリン精製作業と「碧素1号」10ccアンプル(森永製菓100年史より)


 2016年 連続フィールドワークマップ〜世田谷区の戦争遺跡を歩いてみよう〜


期日 6月12日(日)13時〜1630(予定)

資料代 500円

集合 1250分集合 13時出発(雨天決行)

場所 東急田園都市線三軒茶屋駅中央改札口前(地下)

案内 東海林次男(東京都歴史教育者協議会会長・戦争遺跡保存全国ネット運営委員)

講演 長谷川順一(東京の戦争遺跡を歩く会・靖国神社平和ガイド・元共産党新宿区議)


 人骨発見27周年・厚労省調査結果公表15周年 縄文時代人骨に関する研究


日 時 7月17日(日)開場1315分 開始1330分 〜 16

会 場 若松地域センター2階第2集会室A・B

講 演 富樫雅彦さん(武蔵大学非常勤講師)

資料代 500円


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