
機械の動きの特徴は、すべてがオートマチックであるということだと思います。
ぜんまい仕掛けのおもちゃのような簡単な機械から、コンピューターのようなものまで、全てがスイッチを入れれば、オートマチックに作業が淡々と行なわれます。
ぜんまい仕掛けのおもちゃの場合、そのおもちゃに「どういう動きをさせるか」、ということを計算に入れて、歯車やカムなどが取り付けられます。ぜんまいを巻き終わり手を放せば、それらのおもちゃは、すべてがオートマチックに動きます。
人工知能を施したロボットも、結局は、ぜんまい仕掛けのおもちゃの延長に過ぎないでしょう。それらは、まるで、自分の判断で行動するように見えることもあります。しかし、良く考えてみれば、それらは、プログラマーによって、プログラミングされている道筋に従って動いているに過ぎません。
機械が動く道筋というのは、どういった場合でも、一種のドミノ倒しなのではないでしょうか。単純に機械的な作業をするおもちゃも、プログラムされて電気回路を巡る電子も、動力や電気が、決められた道順に沿ってドミノが倒れていく波のように伝播していくのです。
その結果、仕掛けられたイベントが完了するわけです。人間の体も、確かに機械的な側面があります。
たとえば心臓は、人間の意思とは、ほとんど無関係にオートマチックに動いています。薬や道具を使わずに、自分の意志だけで、心臓を止めるということはほとんど不可能でしょう。よく訓練したヨガなどの行者なら可能かもしれませんが、普通は、無理です。
心臓の動きの他にも、胃腸の動き、呼吸など、不随意に動いています。これらは、機械の動きと同じとみなすこともできるでしょう。しかし、人間の機械的でない部分、つまり、オートマチックではない部分が確かに存在していて、それが、なぜ在るのかが問題なのです。
自分の意志で働くもの、たとえば、手足の動き、言葉などは、基本的に自分が何者であるかを表現する手段として働いています(自分の意志と無関係に手足が動く例外的な場合もあって、それは、よく訓練された作業をこなす時に、手足が自動的に一連の動きをすることがあります)。
しかし、そういった特殊な場合を考慮に入れても、基本的には、自分の意志が、たとえば「手のひらを握ろう」と決心しなければ、手は握らないのです。自分の手を握らせるのも、これはオートマチックで握るわけではないわけです。
人間にオートマチックではない部分が存在するのなら、同じく自然界にもオートマチックではない部分が存在するのでしょうか?。
自然界の現象を考えてみると、宇宙の開闢(かいびゃく)から、星たちが誕生する過程には、物理的な必然性によって、ある程度、結果が予想できる道程をドミノか倒れて伝播するかのように、進化していく側面があったわけです。そのことは、自然界の発展というものが、オートマチックに行なわれたということを意味しているでしょう。
しかし、オートマチックではなかった部分もありそうです。
それは、「偶然」という要素です。
自然の発展は、物理の法則に従って発展してきたでしょうが、それに加えて、たとえば、投げたコインが裏か表かという場合のように、偶然の結果によって発展の流れが変わるということもあったでしょう。つまり、自然界の動きには、「オートマチック」な側面と「偶然」という二つの側面があると考えることもできるわけです。
そうすると、たいへん慎重に人間のケースを考えてみれば、自分が手を握ろうと思って握った手というものは、実は、自由意思というものが行なわせているのではなく、一種の偶然が行なわせたのだと考える人も出てくるかもしれません。
極端に言えば、私たちの意思というものは、外界の刺激によって「無意識」という名の意識が代表するようにオートマチックに働くものと、それ以外は、ある種の偶然、平たく言えば「気まぐれ」的に働いている場合があると理屈をつけることもできなくはないでしょう。
私たちは、手を握るときに、食べ物が欲しいから手を握る(食べ物を掴む)ということもあり、その場合は、外界の刺激によってオートマチックに意思が反応した、つまり目的があったからこそ、手を握ったわけです。目的がないのに手を握るのは、気まぐれ=偶然というふうに言えなくもないわけです。
人間の意志というものが、気まぐれや本能に任せるままに働いていると仮定したなら、たとえば犯罪を犯した場合、その行動は、人間の意志の特性がそうさせたのだというように、正当化する口実になりそうです。
「それは、自分のせいではない、自分という存在がそうさせたのだ」と。人間の意志をそういうふうに解釈してしまうと、「自分とは何者であるか」という自己認識があやふやなものになり、いわゆるアイデンティティが確立しない無責任な人間になってしまいます。
人間の意志には、オートマチックでも偶然でもない、もう一つ違う次元のものがあります。たとえばキリスト教の中心的な命題である「アガペー(利他主義の愛)」などは、その代表的なものです。
誰かを愛するという時に、自分の「欲」ために愛するという場合もあるでしょうが、その人が幸せになるためにという目的があって愛し、そのために行動するという場合もあるわけです。
これは、はっきり目的があるわけで、オートマチックな反応でも気まぐれでもありません。誰かが不治の病で末期の病床で喘いでいるとき、その人の手を握ってあげる場合があります。
そのときの手を握ろうとした意思こそが、人間の機械ではない部分が存在する証明のような気がします。自然界は、たいへん厳しく残酷である側面を持っています。しかし、その反面、生きるものをやさしく包み込む包容力のようなものがあります。
自然が、多くの生物を数十億年も生かしておく理由は何なのでしょうか?。
自然の振る舞いが、ただ単に偶然や、オートマチックに流れているだけなら、生物が存在し続ける理由はないでしょう。そうすると、自然界にも、偶然や機械的でない部分があるのではないかと思いたくなってしまいます。
自然が、私たちをやさしく握って(包み込んで)くれる瞬間を、私たちは気づくことができるのでしょうか?。
私は、気づくことができるような気がします。2000年2月13日記