
人間のからだが、物質でできていることは、間違いありません。
そのからだをかたち作っているさまざまな材料は、元をたどっていけば、すべて宇宙の誕生までさかのぼることができます。生まれたばかりの創成期の宇宙は、たしかに、エネルギーと、物質だけしかない世界だったでしょう。しかし、現在では、人間のように「心」を持つ者が誕生するまでに進化しました。人間という存在は、太古の宇宙から続く物質が、連綿と進化を重ねた結果と言えるでしょう。
人間が宇宙の材料でできている以上、人間というものは宇宙そのものである、あるいは宇宙が、人間という姿、形、を借りていると言っても過言ではないでしょう。その宇宙の材料でできている人間が、今、一人ひとりの「私」というものを通じて、「人間とは何だろう、宇宙とは何だろう」と意識を持って考えています。
意識が存在していなかった太古の宇宙は、今ようやく意識に目覚めて、自らのことを何者だろうと探求しているのです。言い換えれば、宇宙は、宇宙自身のことを考えるまでに進化したとも言えるでしょう。もし、仮に人間のように「知る」という意識を持った存在がいなければ、宇宙の存在を認めることのできる者は誰もいないでしょう。もちろん、宇宙の存在を確認するものが誰もいなくても、宇宙が存在しているという事実は変わらないのですが。でも、結局は、その存在を知る者がいなければ、それはないに等しいと言えるかもしれません。
進化というものは、目的がないまま、ただ偶然が重なって進行したということがよく言われますが、もしそれが本当なら、宇宙の進化というものは、いつまで経っても、物質を発展させるだけで終わったのではないでしょうか。
しかし今、宇宙の材料でできている人間が、この宇宙や、世界のことを知ろうとしている事実があります。そのことは、もしかしたら宇宙が、自分の存在を確認するために「人間」という意識を持つ者の出現を目的として、物質的進化を推し進めたのだと思いたくなってきます。こういう考え方を、後で知ったのですが「人間原理」と言うようです。太古の宇宙は「物質世界」のみの存在でしかなかったと考えられますが、いずれにしても、悠久の時間をかけて、今ようやく人間を通じた「精神世界」へ移行を果たし、自分たち(この世界)のことを考えているには違いないのです。
物質と、エネルギーとが入り混じっていた創成期の宇宙は、人間や自然を生み出した源です。
森羅万象、すべてを生み出した根源や秩序のことを、仮に「神」と呼ぶとしたら、宇宙全体そのものを「神」とみなすことができるでしょう。
そうすると、宇宙という名の神は、まず創成期の時点では素材だけだったから「意識」というものを持っていません。その神である宇宙が、悠久の時間をかけ、進化を経て、今「人間」という姿、形、を借りて意識を持ち「神(宇宙)」自身のことを考えています。人間は、宇宙や自然を見て、その背後に神の存在を予感し「神」とは何だろう、どこにいるのだろうと、探しています。ところが実は、一人ひとりの人間の中に、目覚めた「神」(=目覚めた宇宙の進化した姿)が内在していたのではないでしょうか。
人間存在に対して、自然界の動植物は、眠れる神ということになるでしょう。
こうした、すべての「生き物」や、あるいは「自然」に神性が宿っているという考え方を、「汎神論(はんしんろん)」というようです。唯物論は、人間存在を含めた世界が、物質のみの存在だけしかないとする一元論ですが、汎神論も、実は一元論という見方ができるのではないでしょうか。
物質である人間が、意識を開いているという事実は、進化の過程を経てきたにしても、物質そのものが心を持つのだということを証明していることに他ならないでしょう。
唯物論と汎神論との違いは、物質というものの解釈の仕方に違いがあるのではないかと思うのです。唯物論の場合、物質というのは、世界を構成しているオブジェとしての、「ただ物」という解釈をします。しかし、汎神論の場合、物質は世界を構成し、同時に、物質は、それらを認識する主体そのものであると解釈するのです。