
「私」が存在するためには、私を産んだ母と、その配偶者である父の存在が不可欠であるのは常識ですね。
それなら、「私」の両親の、それまた、それぞれの父母(祖父、祖母)が存在しなかったとしたらどうでしょう?。やはり、それでも「私」は、存在しなかったと、普通は考えられるでしょう。そうすると、そのまた両親の、そのまたまた両親…とさかのぼってみれば、これは限りなく古代までたどり着き、究極的には、初めて生を刻み始めた原生生物のような一個の生物体にまで行き着くことになるでしょう。
そこで、私は疑問に思うのですが、「私」のすぐ後の世代の配偶者が異なっていれば、「私」は存在しなかったと思われるのに、一個の原生生物から、今の「私」に至るまで、もし、それぞれの時代の生物の配偶者(すぐ直系は省く)が少しでも違っていれば、今の「私」は存在しなかった可能性があったのだろうか…ということが疑問なのです。
有名な、タイムマシンのパラドックスがあります。
タイムマシンで、自分の生まれる少し前の過去にもどって、自分の両親が結婚するのを邪魔すれば、自分が存在しなくなるというものです。
それなら、タイムマシンで、人類が発生していなかったもっと過去の古生代にまでさかのぼり、何かの脊椎動物を誤って踏んでしまったとしたら、「私」がたちまち存在しなくなってしまう可能性もあるのでしょうか。今の「私」から、初めて生を刻んだ原生生物までの系統図を正確に描くことができたとしたら、系統図のそれぞれの先祖から枝分かれした網目模様が、巨大な規模で広がることでしょう。それは地球の直径よりも、さらに広がるかもしれません。
しかし、その網目模様を構成する枝が、一つでもずれていたとしたなら、「私」は存在しなかった可能性があるかもしれない。それが本当だとしたら、「私」という存在は、何という、際どく危うい偶然の積み重ねの結果で存在しているものなのでしょうか。しかし、私は、仮に、その系統図の枝のいくつかが、ずれていたとしとても、「私」という意識が時間の最先端で開かれていたのには違いないのではないかと思うのです。
人間は、500万年ほど前に、アフリカの地で、猿と共通の先祖から枝分かれして進化し、現在に至ったといわれています。そのあいだに、幾種類かの原人が生まれ、中には絶滅した原人もいました。
人間は、種として、現代人に至るまでに、幾種かの原人時代を渡り歩いてきました。仮に、「私」の系統図に含まれるかなり初期の原人の一人が、何かのすれ違いで、異なるパートナーとの間に子孫を残して、その系統が今と異なる系統図を描いたとしても、結局は、今の「私」にとっては、自分の遺伝子の数十億分の1ほどの配列が異なるだけで、「私」という意識は開かれている事実には変わりはないのではないか、と考えるのは、そんなに不自然なことでもないでしょう?。500万年も前のことなのですから。それなら、500万年も前のことではなく、すぐ直系の場合はどうでしょう。
「私」の両親となるべき男女が、仮に、それぞれ異なる配偶者と結婚し、どちらかの家庭に子どもが生まれていたとしましょう。その生まれた子が「私」として意識が開いたとしたら、少なくとも、今現在の本当の「私」とは遺伝子の配列は、かなり異なるとは思いますが、時間の最先端で「私」として意識を開いている事実には変わりがなかったのではないかと思うのです。ここで、私が言いたいことは、時間の最先端で「私」という意識が開かれる理由は、初めての原生生物から今の「私」に至る系統図による遺伝子の違いとは無関係だろうということです。
今、私の体を構成している遺伝子がこういう配列だから(「私」が生まれるための、特定の系統図が成り立ったから)、「私」という意識が存在するわけではないという気がするのです。
その根拠を、「一卵性双生児」の例で考察してみましょう。