
現代の大脳生理学では、「心や意識というものは、脳の中の物質的な化学的反応によって生じる現象にすぎない」という見解が主流になっています。
考えたり感じたりすることを司る場所が、脳のどこにあるのかを特定する脳地図が、大脳生理学ではある程度分かっているようです。
人間の外界からの刺激は、電気信号でもって、からだに張り巡らされている神経網から脳へと伝達されます。脳内では、その電気信号の情報によって、さまざまな伝達物質が、特定のレセプター(受容体)に飛び込み、情報のON、OFFの切り替えを行なっています。その結果、脳内で電気的な「発火」が起こり、その「発火」が頻繁に活動しているところが心の場所ということになっています。でも、私たちの心は「発火」を見ているけではないですね。
私たちが、風景が見えるのも、脳の視覚野に発火が起こっているからですが、でも、「私」は、空の青や草花の「色」を見ているのであって、発火そのものを見ているわけではありません。
その色を見ている「私」という主体がなぜ在るのか、そして主体としての「私」が脳のどこにあるのかが、現代の大脳生理学でも謎なのです(いわゆるクオリア問題)。これをもう少し、良く考えてみましょう。
もし、人間が外界からの刺激を受けて、それに対して何らかの働きかけをするという場合、人間が機械と同じ存在なら、そのからだに「私」という意識が開いていなくても、その行動はすべてオートマチックに行なわれても良いわけです。
地球が誕生して47億年が経っていますが、生物が機械と同じなら、この歴史と生物の進化の結果を誰も知らないまま(意識が開かないまま)現在に至っていなくてはならないでしょう。でも、「私」は、地球を含めたこの世界を見ている。認識している。しかも、時間の最先端で。
…これはとても不思議でしょう?!。そうすると脳内で発火が頻繁に起きているところが「私」の場所だとすると、「発火」そのものが意識の座ということになるのでしょうか?。
宮沢賢治の「春と修羅」の巻頭に、有名な序詩があります。これはおもしろいので、少し引用してみましょう。
わたくしという現象 わたくしという現象は 仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です (あらゆる透明な幽霊の複合体) 風景やみんなといっしょに せわしくせわしく明滅しながら いかにもたしかにともりつづける 因果交流電燈の ひとつの青い照明です (ひかりはたもち、その電燈は失われ) (後略) 賢治は、「わたくしという現象」は、「有機交流電燈のひとつの青い照明」だと例えているのです。「青」は人間の清らかな精神を象徴しているのでしょうか、私たちは、青い精神を宿しながら、まるでひとつの照明のように、周りを照らしているのです。
わたしたちのからだである「電燈」は、やがて失われるけども、その電燈のなかで「発火」していた「ひかり」はたもたれる。つまり、賢治が言う「ひかり」とは私たちの一人ひとりのからだに宿る「魂」ということなのでしょう。
賢治は、その魂は、永遠に不滅なのだと言いたかったのではないでしょうか。わたしのからだである電燈は壊れても、新しい電燈は時間の最先端で、次々に生まれてきます。その電燈に発火した「ひかり」がその都度、魂として「意識」が開き、わたくしという現象が生じるのです。
クリスマスツリーに飾る、明滅する電飾を思い出してみて下さい。
長い間飾っていると、いくつくかの電球が寿命で切れてしまいます。電球は死んでしまったのです。でも、その電球を新しいものに取り替えると、その電球の中で再び「発火」が始まり、ひかり輝きます。
わたくしという現象も、「からだが無くなってた後も、新しいからだに再び発火することで、また私という意識が、時間の最先端で開かれる」という現象なのではないでしょうか。
電球は、その電球の作りが一つひとつが微妙に異なります。その結果、光り方にも差異が生じます。電球にも個性があるのです。でも、発火自体は同じ現象ですね。
わたしたちのからだ(とくに脳)も、やはり、一人ひとりのつくりが異なっています。
もし、今の「私」の体が死んでも、「私」という意識が、いつも時間の最先端で開くのなら、「私」は、新しいからだに合わせた個性を生きることになるのかもしれません。つまり、今の「私」が死んでも、また「はっ」と気が付けば時間の最先端に意識が開いている可能性があるのではないかと…。ただし、それは、今の「私」とは直接連続していない。
連続していないけれど、また「意識」は開かれる。意識が生じる根源は、生物の個々において同一だからこそ、時間の最先端で「はっ」と意識が開いたものは、また時間の最先端で「はっ」と意識が開くような気がします。