
1.なぜ、時間の最先端に、「自分」という意識が開かれているのだろう。
1.時間の最先端に、なぜ「自分」という意識が開かれているのだろう。
自分が生まれる以前の写真や、映画を観ていると、なんだか奇妙な気持ちにおそわれることがあります。
なぜなら、それらの映像には、私が存在する以前の世界が映っているからです。もし自分がこの世界に生まれていなければ、それは、自分にとって永遠に覗い知ることのできない世界だったに違いないのです。
でも、「私」という存在は、意識を開いていて今この世界を見ている。これは、今生の一回限りの出来事かもしれませんが、たった一回でも、この世界を認知している「自分」という存在が不思議でしかたがないのです。
やがて時が経てば「私」は死を向かえ、同時に今、自分が見ている世界は消滅してしまうでしょう。消滅してしまうのは、本当は「私」の方なのです。「私」がいようといまいと、そんなことにお構いなしに、この世界は、何事もなかったように存在し続け、歴史を積み重ねていくのでしょう。新しい世代の人間が、やがて今の「私」の代わりに、新しい「私」になりかわり、この世界を認知していくであろうことは、私には重々分かっています。でも、今の自分に開かれている「私」という、この世界を観察する主体がいなければ、結局今の「私」にとっては、この世界が存在しないも同然ではないでしょうか。
「私」が死ぬことで、この世界や、この時間というものが今の「私」にとって存在しなくなってしまうのが不思議でもあり、不安や寂しさなども感じてしまいます。しかし、そんなことを考えているうちに、最近ふと、奇妙な事実に気がつきました。
それは、「私」という意識が開かれているのは、いつでも時間の最先端で起きていて、しかもそれは延々と繰り返されているのではないかということです。宇宙の始まりは、今から約130億年前といわれています(宇宙の年代が正確に確定しないために、未だに数字に変動があるようです)。それは世界の始まりであり、また同時に、時間の始まりでもあったと考えて良いでしょう。
そうすると今、これを書いている「私」も、今この文章を読んでいる「私」(=あなたにとっての「私」)も、この瞬間というのは、世界と時間が始まって以来、130億年目の、「今」という時間の最先端でのできごとには違いありません。
「私」という観察者は、時間の最先端で生まれ、その後死ぬまで、ずっと時間の最先端で「意識」が開かれ、その開かれたあいだに最先端の地球や人類の歴史を見ているのです。しかし、130億年目の「今」という時間の最先端で、なぜ、私に「自分」という意識が開かれているのでしょうか?。ひとくちに130億年といっても、それはとんでもなく長い時間です。
私にとって「私」という意識が開くのが、もっとはるか以前の恐竜時代の生物においてでもよかったはず。もっと溯って両生類や魚類の時代でもよかった。
結局、意識が開かれている「私」は、まるで大陸横断鉄道を走る汽車の先頭車両に乗っているかのように、事実上いつでも、時間の最先端にいるような気がするのです。そうすると、「私」という意識は時間の最先端で芽生え、やがて死を迎え、脳を含めたからだはなくなるので、生きていた頃の記憶は失います。しかし、もしかしたら、再び「私」として、また新たに時間の最先端で再生し、今の「私」という意識がいつでも時間の最先端で連綿と繰り返されているのではないかという気がするのです。
ただ、ここで問題なのは、これから死ぬ主体は、確かに私には違いないのですが、新たにどこかで生まれる主体が、はたして、再び今の私と同じなのかどうか。常識的には、同じであるはずがない。
でも、経験的に言えば、今現在、時間の最先端で、自分という意識が開いているという経験があるで、また時間の最先端で開かれる意識の一つは、きっと、今の私と同じであっても良いのではないかと思うのです(何となく頼りない)。振り返ってみれば、そもそも「私」は、「はっ」と気がついたら、いつの間にかこの世界に存在していたのは事実なのです。気がついたら、訳が分からぬうちに時間の最先端で意識が開いていました。
これは当たり前のことですが、考えてみれば大変なことです。いつの間にか、私は、私が「在る」ということを知ったのですから。
こういう不思議な現象が少なくとも一回は確実に起こったのですから、また同じことがあっても良いのではないか、あるいは、あってほしいと思うのは人情です。二度あることは三度あるといいますが、一度あったことも、二度めを期待してしまいます。一回でも、意識が開いたのだから、そのこと自体、大変不可解で不思議な現象なのですから、そういう不可解な枠組みの中では、再び不可解なこともあるのではないか、と考えてもおかしくはないのではないでしょうか。私は、霊魂や、死後の世界が存在するかどうかということは経験的には知りません。しかし、「私」という観察者が、なぜ時間の最先端で開かれているのか、その理由と起源については、興味が尽きません。そのことについて、さらに検証してみましょう。