九久平の街並み

 

大正・昭和時代

 栄えていた九久平

 明治の末期から大正のはじめにかけて、呉服商・日用雑貨商・船頭や運送荷馬車引き相手の飲食店・うどん屋・寿司屋・菓子屋・料理店)が10件以上あった。
 大正2年には、芝居小屋「弁天座」もでき、その興業の日は近隣からの観客で大入り満員の日が続き、そのたびに町はひときわにぎわった。そこでは連合学芸会(全小学校参加)も行われ、時には地区の人が演じることもあった。
 金融機関の額田銀行九久平代理店(後に支店に昇格)は、明治44年に、また、尾三農工銀行九久平派出所は大正7年に進出している。



 交通の移り変わり

 九久平が栄えていた原因
 松平村は岡崎方面から、北設楽郡や長野県へ通ずる中馬街道にそう交通の要所だった。巴川を利用し、岡崎方面から荷物を舟で運んだ終点として、大変にぎわった。人や馬の行き来が盛んで旅館も多く、宿場町として栄えた。

 交通〜川から陸へ〜
 今から80年前、この町にも乗合馬車が岡崎から九久平を通って足助まで走っていた。その他に、九久平には人力車もあった。それから20年たって乗合自動車が開通した。
 昭和の初めになると運輸機関が発達し、トラックによる運送が盛んになる。しかも昭和4年に越戸に三河水力発電所ができて川の水量が減ったため、昭和7年、舟による貨物運送は全く見られなくなった。しかし、そのころにちなんだ川祭りは今でも行われている。
九久平の松生嶋は、足助街道一の絶景とされ、観世音菩薩と弁財天がおまつりしてある。


 九久平の衰退

 舟運の急速な衰退とともに、トラック輸送がこれに代わった。
これは、九久平の薪炭問屋の仲買人の存在価値をなくしてしまったのである。生産者から直接都会の商人へ販売されるようになり、大きな倉庫も店も不要になってしまった。
 こうした動きに対して、いろいろな対策が行われたが、大勢が挽回できず、商店街は衰退の色を濃くしていった。その後、戦時体制下の中、九久平の商業は窒息状態に陥った。


 現在の九久平


 昭和30年代に入って、我が国の経済成長に伴う好景気に支えられて松平の産業構造も大きく変化していった。こうした社会情勢に応じて九久平の商店街も店舗の増改築が進み、近代的な商店街へと脱皮していった。昭和39年頃には新しい県道も開通した。


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