司法権の独立

一 司法権独立の意義

 現行の日本の司法制度は、司法権が立法権や行政権と異なり、特に独立した存在であることを認めています。それは、裁判が公正に行われ、人権の保障を確保するためであります。この司法権の独立は明治憲法下においても比較的よく守られ、日本国憲法下においては著しく強化されています。現在、司法権の独立の意味には2つあるといわれています。
 一つは裁判官の(職権の)独立、もう一つは広義の司法権の独立であります。具体的には二および三でお話するとして、先に司法権の独立が要求される理由をもう少しみておきましょう。芦部先生は特に以下の2つを主要な理由として挙げておられます。すなわち、

1. 司法権は非政治的権力であり、政治性の強い立法権・行政権から侵害される危険が大きいこと
2. 司法権は、裁判を通じて国民の権利を保障することを職責としているので、政治的権力の干渉を排除し、とくに少数者の保護を図ることが必要であること

を挙げておられます。
 1.については、76条を実効性あらしめるために、2.については、81条を実現していくためにどうしても必要な理由づけではないかとtanashinは考えています。


二 裁判官の独立

 さて、司法権を政治的権力の不当な干渉から守るためには裁判官の独立を確保しなくてはなりません。憲法も76条3項において「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」と定めています。
 では、この条文中の裁判官の「良心」とはいったいどのようなものでしょうか。
 通常の意味としては、思想・道徳等にかかわる信念とか、人生観・世界観といった意味になると思いますが、76条3項の「良心」をこのように考えては、個々の裁判官がまったく違った尺度をもってして判決を下すことを認める結果となってしまいます。それでは、画一的な判断を期待する者を裏切る結果になってしまうでしょう。
 画一的判断が期待されている、ということについては今まで述べていなかったでしょうか。ちょっと脱線しますと、例えば全く同じ条件で訴訟を展開中のAさん、Bさんがいたとしましょう。ところが、判決がそれぞれC判事、D判事によってなされた結果、全く異なる判決が下されてはより納得できない判決を受けた者は黙ってはいられないでしょう。どうして同じ条件で違う判決を受けなければいけないのか、疑問に思うことでしょう。
 事はこれだけにとどまりません。その判決のあとにまた同じ条件で訴訟を起こそうと思う者も、どちらの判決を言い渡されるか心配ですし、できれば自分に有利な判決を下してくれそうな判事に頼みたいくらいでしょう。
 こうなっては、最悪司法に対する国民の信頼を得られなくなってしまう恐れがあります。ですから、76条3項の「良心」を通常の意味として捉えることは妥当ではないのです。
 それでは、どのように考えればよいのでしょうか。少なくとも裁判官個人の主観的な考えはむしろ抑制されるべきであることはもうお分かりいただけたと思います。
 伊藤正己先生は、「裁判官は、あくまで国の法体系全体と個々の法規定にみられる客観的原理に基づいて裁判をすべきである」とおっしゃっています。tanashinとしても、76条の「良心」とは裁判官としての客観的良心をいう、と考えています。つまり、裁判官の主観的良心と法の命じるところが食い違った場合に法が優先する、と考えているのです。現在の通説的な考えであります。


三 広義の司法権の独立

 広義の司法権の独立とは、司法権が立法権・行政権から独立していることを指します。ごく普通に司法権の独立とは何か答えなさい、と言われたら、こちらの方を答えることになるでしょう。司法府の独立と呼んで先の裁判官の独立と区別しようとしている先生もいらっしゃいます。いずれにしても、裁判官の職権の独立を確保するために要請されています


四 裁判官の身分保障

 まず、78条をみてみましょう。

第78条 裁判官は、裁判により、心身の故障のために職務を
     執ることができないと決定された場合を除いては、
     公の弾劾によらなければ罷免されない。裁判官の
     懲戒処分は、行政機関がこれを行ふことはできない。

このようになります。結構長いですね。
 さて、裁判官の職権の独立を確保するためには裁判官の身分保障(現在、日本人に身分的な差はないので身分保障というよりは地位保障というべきものであるとtanashinは感じていますが、諸先生はこのような表現をとっておられるので、ここでも身分保障と表記します)が必要です。そこで、日本国憲法・法律の中に様々な裁判官の身分保障のための規定が置かれています。その代表的な条文が78条ということになります。
 78条では、ご覧のように78条に掲げられた事由以外では、裁判官を罷免(ひめん)、つまり辞めさせることができないようになっています。ですから、例えば極端な話死刑とすべきところを無罪としてしまっても罷免されることはないのです。まあ、こちらは刑期が少なくなる方向のお話で、人権保障の観点からは非難されることはないのですが、逆のケース、つまり、無罪とすべきところを死刑としてしまうようなケースも残念ながら存在し、随分非難されています。いわゆる冤罪(えんざい)を生み出してしまっていることについて非難がくわえられているのです。
 また脱線してしまいますが、これに関して死刑廃止論という考え方が近時有力に主張されています。団藤先生という方が中心になって主張されている考え方です。死刑は憲法36条の禁止する「残虐な刑罰」にあたるし、無罪かもしれない人々が死刑判決を言い渡されていいわけがない、というようなことを理由に死刑制度を撤廃すべきだと主張しているのです。
 tanashinとしては死刑廃止論に分があると考えています。ですが、例えば自分の大切な人が殺されて、監獄の中とはいえ犯人がのうのうと生きているといったことを認められるのか、自分には自信がありません。さぞかしくやしいことでしょう。実際に遺族となられた方の気持ちを考えると、軽々には死刑廃止論を主張することはできないと思います。この辺りのお話は法律家ゴマのホームページで詳しく扱っていますので、是非そちらをご覧ください。

 では話を元に戻しましょう。78条の「心身の故障」についてはよろしいかと思います。文字どおり精神的に不安定でとても判決を下せる状態でない時、裁判を遂行するのに必要な体力が明らかに無い時などを指しています。
 78条の「公の弾劾」については説明をしておきましょう。まず、弾劾裁判所は国会がこれを設け、衆議院議員・参議院議員で構成されます(64条)。最高裁等の裁判所で弾劾裁判が行われるわけではないんですね。
 弾劾裁判所で裁判官が罷免されるか否か判断されるためには、裁判官が「職務上の義務に著しく違反し、又は職務を甚だしく怠った」または「その他職務の内外を問わず、裁判官としての威信を著しく失うべき非行があつた」(裁判官弾劾法2条)ことが必要です。

 以上のように、78条は裁判官が罷免される場合についての規定ですが、最高裁判所裁判官の国民審査(79条2項)も裁判官が罷免される場合の一つです。


五 司法の独善化の防止

  以上で司法の独立がいかに大切か述べてきましたが、司法の独立という考え方は、司法の独善化を助長させようとするものではありません。ただ、完全に独立させては適切でない状況になった時に困ってしまいます。ですから、憲法は司法に民主的な統制を及ぼすことができる制度を定めています。今も述べたばかりですが、最高裁裁判官の国民審査(79条2項)、国会による弾劾裁判所の設置(64条)はその代表例です。
 他に、議院による国政調査(62条)・裁判の公開(82条)・表現の自由(21条)なども司法の独善化防止に役立つものです。
 なお、陪審制も司法の独善化防止に役立ちます。現行法制度下での設置は可能ですが、今のところ休止状態となっています。

 裁判所のお話はとりあえず終わります。おかしな表現等ありましたらお教え下さい。