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台湾軍と「薫空挺隊」
〜台湾軍と台湾高砂族の兵士たち〜

(2001/5/21up)
台湾でアップしました(管理者)

 戦前、台湾は日本に統治されていた。つまり台湾の人々は当時は日本人であった。この人々も大東亜戦争に従軍しており大変な活躍であった。その概要をご紹介した上で、特攻にまつわる話として空挺特攻という空挺部隊による敵基地への強行突入を実行した特攻隊のうち「薫空挺隊」についてご紹介する。


高砂義勇兵の勇姿
高砂義勇兵の勇姿
腰に先祖伝来の義勇刀をつる高砂族の兵士。日本名は津村重行上等兵。日本の特攻隊員として名もなく消えていった兵士の一人である

台湾軍と高砂義勇隊
 台湾では昭和16年より志願兵制度が実施されており、徴兵制は昭和19年に始まっていた。驚くべき事に昭和16年に志願兵制度が実施された際、募集定員1020名に対し、何と45万人もの人々が志願したのであった。翌年も1008人の募集に対し志願者は60万人にもなったという。軍司令部には血書・嘆願書が山をなし、更に熱心な青年たちは陸軍省に陳情もしていた。当時台湾の人口が600万人であった事を考えるとこの数字が如何なるものかをおわかりいただけると思う。
 また、台湾にはマレー・ポリネシア系の「高砂族」(アミ族、タイヤル族など九つの先住民の総称。主に山岳部や台湾東部にいた)と呼ばれる人々がいた。この人たちは「高砂義勇隊」という原住民志願兵として大東亜戦争に参加していた。志願兵を募った際にも予想をはるかに上回る5000人もの人々が志願してきた。軍は彼らの特性を活かし、南方のジャングルでゲリラ戦を展開する専門部隊として編成した。そして予想以上の大活躍をしたのである。彼らはジャングルでの活動に慣れており、フィリピン、ボルネオ、ニューギニアなどの南方戦線で大活躍し、日本の戦友からも厚い信頼を寄せられていた。
 以下にその活躍に関係したエピソードを「台湾人と日本精神」(蔡 焜燦氏)、「台湾論」(小林よしのり氏)より一部引用する。

●高砂義勇隊の活躍

先祖伝来の蕃刀を構える
先祖伝来の蕃刀を構える
将校と下士官、通信兵、衛生兵以外は高砂族の兵士でジャングル内の遊撃戦は訓練に訓練を重ねてきた。

 ”前章で紹介した堀内大佐率いる海軍落下傘部隊によるメナド空挺作戦、陸軍落下傘部隊によるパレンバン空挺作戦でも高砂義勇隊は大活躍し、作戦の成功に寄与している。
 ニューギニアのブナにおける戦闘では、陸軍大佐・山本重省が、勇敢に戦った高砂義勇隊の活躍に感謝を込めた遺書を残して玉砕しているほどで、その名声は南方で戦う前線の日本軍兵士の間に広く知れ渡った。
 彼らは、先祖伝来の「蕃刀」をもって、ジャングルを切り拓き、台湾山地の密林で培われた鋭い感性をもって深い密林の中で日本軍の先頭に立った。そしていざ会敵すれば、日本軍兵士に優るとも決して劣らぬ勇敢さで敵に敢然と向かっていったのである。

薫空挺隊出撃
薫空挺隊出撃
義号作戦は昭和19年11月26日に決行された。出撃に当たり皇居を遙拝する。この夜リパを出撃した。


 こうした高砂族の人々の民族性について、司馬先生は、「非学問的な空想」としながらも、次のように分析している。

「・・・・”高砂族”と日本時代によばれてきた台湾山地人の美質は、黒潮が洗っている鹿児島県(薩摩藩)や高知県(土佐藩)の明治までの美質に似ているのではないか。この黒潮の気質というべきものは、男は男らしく、
戦に臨んでは剽悍で、生死に淡泊である、ということである」(『台湾紀行』)”

 実際に、昔の日本人の習慣と台湾高砂族の間には共通点も多く、例えばふんどしを締める、通い婚、淡路島などで見られた習慣で若者が共同生活する等が挙げられる。また、高砂族の風習として「出草」という首狩りがあった。よくよく考えてみると、日本でも江戸時代まで首を戦勲の証として持ち帰る習慣があったのであるから、全く無関係とも言えないかも知れない。

”南方のある戦線では、高砂義勇隊の兵士が、日本の戦友達に食べさせる食糧を探しに出かけたが、いくら待ってもその兵士はジャングルから戻らず、おそらく戦死したものと考えられていた。ところが後に発見されたとき、その兵士は両手に食糧を抱えたまま「餓死」していたのである。日本の戦友に食べさせる食糧にはいっさい手を付けずに餓死を選んだのだった。

”台北から南東へ30キロの「烏来」というタイヤル族の村には「台湾高砂義勇隊英魂碑」がある。この記念碑は、タイヤル族の酋長である周麗梅氏が、大東亜戦争で戦歿した高砂族の勇気を称え、御霊を鎮めるるために1992年(平成4年)に建立した鎮魂碑である。(周氏の実兄も南方戦線で戦死されている)
 記念碑の参道には、「高砂挺身報国隊 台湾総督 海軍大将 長谷川清」と書かれた無数の日章旗が翩翻とし、この地を訪れる日本人を無条件に感動させる。
 私もこれまで多くの日本人をこの記念碑に案内してきたが、皆一様に驚嘆し、ある者は言葉を失い、またある者は感動のあまり涙を流しながら合掌した。”

”当時、高砂族総人口十五万人中およそ六千名が志願し、その半数が戦死したといわれている。しかし、高砂族の人々は日本の戦争責任なるものを追求するようなことはない。かくも勇敢に戦い、そして南方の島々に果てた先人達を、日章旗と本間中将の遺詠をもって称える・・・・それが”台湾”なのである。”

●大東亜戦争の魅力
 ”高砂族のある古老は日本語でこう語ったという。
 「我々は台湾に来たオランダにも鄭成功にもそして清国に対しても屈従しなかった
  しかし日本だけは別だった
  それは大東亜戦争の魅力には勝てなかったからだ
 大東亜戦争の魅力・・・・・
  それこそ白人の植民地支配からのアジアの開放という大義に他ならず
  先住民以外の台湾人も志願に殺到したのである”

 このように大東亜戦争に戦地に赴いた台湾人は20万7千人、戦死者は3万300人、その1割が高砂兵であった。

加来少尉と隊員達
加来少尉と隊員達

薫空挺隊 (空挺特攻)

 薫空挺隊は昭和19年11月26日夜、フィリピンのリパ飛行場を離陸し、ブラウエン飛行場に桐村浩三中尉以下8名の操縦する輸送機で強行着陸し、飛行場封殺作戦を実行した。隊長は中重男中尉で40数名の隊員がいた。将校、下士官、通信、衛生兵以外は台湾高砂族出身者であった。以下「特別攻撃隊」より引用。

  "当夜月齢は十日、零時ころブラウエンに着陸するはずだったが、その活躍振りは詳かでない。
 一機はバレンシヤに不時着した。バレンシヤは、レイテ脊梁山脈の西側で、そのときはわが軍がいた。不時着機の乗員は第二十六師団に入ったことは確かだが、戦後の生存者はいない。
 ブラウエンに何機着陸できたか、米軍の記録にもないが、その晩、何回もブラウエン方向で火柱が揚ったことを証言する者はいる。

出撃前最後の記念撮影
出撃前最後の記念撮影
ジャングル内でゲリラ戦を展開する専門部隊遊撃第一中隊に義号作戦が下った。別名薫空挺隊最後の記念撮影

 米軍の記録ではブラウエンの東方十六キロにあるドラグの海岸に、日本軍の大型機二機が着陸し、乗っていた日本兵は闇の中に姿を消したとある。
 この人々が、何らかの働きをしたものと想像できよう。

 高砂族の人々は日本が台湾を統治し始めた当初なかなか帰順しなかった。理由は様々だが、一旦同胞であると認識してからは、元来持っていた武士道的な精神など日本人と共通していた部分が発露し、大変な勇敢さで戦っていたのである。台湾志願兵の方々やこのような高砂義勇兵の方々に敬意を表さずにはいられない。

(参考、写真提供:別冊1億人の昭和史「特別攻撃隊」(毎日新聞社)、「台湾人と日本精神」(蔡焜燦氏)、「台湾論」(小林よしのり氏)、「台湾人元志願兵と大東亜戦争(鄭春河氏))


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