△唯物教徒★拝金派▽



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唯物教徒拝金派の館へようこそ。
皆様の思考の一助になれば幸いです。
当面は、掲示板なども組まずに行こうかと思います。

なお、リアルワールドの友人達に一言。
頼むから本名やまるわかりハンドルネームは勘弁して。
発言内容はキツイ部分があるので、とにかく匿名でお願いします。

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▲覚え書き▼

そろそろ、ゼータ(Z)ガンダムの映画が上映される。
ガンダム世代として、何点か申し送るべき事項があるだろう。

バンダイ、あるいはバンプレストがいかに摩擦を避けたがっていても、
今のゲームとプラモデルに“ZEON”と書かれていても、
ジオン軍がそもそも“ZION”軍だった事は消えない。
後付けの資料を追加する時に、どれだけ変更したところで、
この作品に込められたイスラエル批判の熱情は消えることはない。

「機動戦士ガンダム」がいかなる作品であるのか、今更私は要約しない。
観なかった、とは言わせない。

zionを「しおん」と読む、事は良く知られている。
だから、この作品の敵役として出てくるジオン軍とは、
そのままシオン軍、シオニズムを指す。
ザビ家が敵役の中枢として出てくるが、この「ザビ」も、
ラビ(師匠)とレビ(部族、祭祀)に引っかけている。
一番目立っているのはジオンと連邦の紋章だが、
ジオンのそれはよく見ると、中央の軸から6+2本の枝が出ている。
これは七枝刀、あるいは七本用の燭台が変形したものだ。
この、七本用の燭台はユダヤ教において特徴的なものだ。

主人公側の属する連邦、こちらも明確な暗喩に満ちている。
作品の構造にも関わるのだが、まず主人公の乗る機体ガンダムは“GUNDAM”だ。
これはそのまま「ぐんだん」と読める。
そう、「軍団」だ。
だが、この試作兵器が「赤白青」(フランス国旗)というド派手な色に塗られているのは、
まあ許そう。
主人公たちは戦火に追われて戦艦に避難し、襲ってくる敵軍を薙ぎ払いながら逃げる。
主人公は超人くさいが、決して救世主ではない。
戦争の決着をつけたのは主人公の乗る「ガンダム」ではなく、量産機の「GM」である。
この「GM」は、今に至るもカタカナ書きされずに「GM」のままである。
どこからどう見てもゼネラル・モータースの略語にしか見えない。
なお、ゼネラル・モータースは、第二次世界大戦中は戦車も造っていた。
最大の突っ込みどころは、「ガンダム」と「GM」の盾は同一デザインだという事だ。
この盾には、デカデカと連邦(地球連邦軍)の紋章が書かれている……はずなのだが、
実際のところは少々、デザインに違いがある。
盾は赤く塗られていて、黄色い十字架のような星のマークが入っている。
だが、連邦の紋章は、その十字星に三日月が組合わさっているのだ。
十字星がキリスト教、三日月がイスラム教の象徴である事は、ご想像の通りである。
そして、全て「手書き」のこの当時、
関節部分を描くより「盾」を描いた方が楽だったのだろうが、
この盾が(胸当ての部分も)赤く塗るように指定されていたのは、感慨深い。
「赤い盾」とは、他ならぬ、ロスチャイルドを示す事となる。

この作品において、非難されているのはユダヤ教とその選民思想である。
それを、キリスト教(や、イスラム教)を奉じるものたちの軍団が蹴散らしていく。

2005.4.19

------------------------------------ ●選挙制度に関する私見(政治団体を通じた掘り起こし政策)

○「政治への無関心」を払拭するために
○宗教団体ではなく政治団体を林立させる
○政治団体の政治的利権として、所得税支払い者に対して追加票を与える
○物価上昇時に累進税率基準額を更新する(税率とリンクさせ、所得そのものとはリンクさせない)
○引きこもりを雇用し、所得税を払わせれば2票(以上)を確保できる。

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仕事で「政治」に関われば、その人は否応なく票を投じるだろう。
その票に何を書き、どう扱われるかは分からないけれども。
私は、現在の「政治への無関心」は、それなりに意図的に報じられているものだと感じている。
だが、その標語が一人歩きして、実際に現象を補強しているならば、それを払拭する事が私を含む国民の利益になると考える。
「政治への無関心」は、それぞれの国民にとって、政治への参加(投票行動)が現実の生活に直接関わらないという事にその源泉があると思われる。
だが、直接に票を売買する事は、政治への関心そのものは集めても、その内実は国政にとって有害無益だ。
官職を財貨で買う事は、財貨を豊富に持つ階層の持つ大きな勢力を、さらに肥大化させる。
政治への関心を喚起し、社会的効果を挙げるため、私は以下に述べるような国政選挙の改革を提言したい。

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提言「国政選挙における特定有権者の行使可能票数の追加について」

原則
○全ての有権者は、国政選挙における投票権を有する。(1票以上)
○特定の有権者は、国政選挙における投票権を追加される。
○所得税を国に支払っている有権者は、投票権を追加される。(追加1票)
○高額の所得を得て、所得税率を累進されている有権者は、累進税率が上昇する段階に応じて、最大で4票までの追加投票権を得る。

現在の試案
所得税を国に払わない場合(年収100万円未満) 1票のみ
最低税率たる所得税10%を国に払う者 2票
 この場合、所得税20%なら 3票
 この場合、所得税37%なら 4票
最高税率たる所得税50%を国に払う者 5票

附則
○追加票の権利を得るのは、所得税を申告した後、一定の期日を区切って年次毎に行う。
○例えば、二月に申請し、三月に支払う場合、支払う際に手続きを行って追加票の権利を得るが、その期間は次の四月一日から翌年三月末までの一年間とする。

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なお、所得税が所得金額によって累進するのは、普通に考えれば不公平な話だ。
だが、より多く所得を得ている者からより多く税金を巻き上げる事について、より少ない所得の者が不満を言う事は少ない。
逆に言うと、より多く所得を得ている者がより多く税金を払う事で、より少ない所得の者は税負担の重みを一部免れている事になる。
「所得税率を累進されている有権者は、累進税率が上昇する段階に応じて、最大で4票までの追加投票権を得る。」
という仕組みは、実際の高額所得者の抱えている税負担を軽くするものではないが、「金を出すから口を出させろ」という意味での発言権を確保するものにあた る。
だが、この制度の本来の意図するところは、最高税率を負う高額所得者の力を増すためではなく、最低税率を払いかねている低収入者を、各種政治団体が林立し て「囲い込む」事にある。
「社会がどうであれ、国がどうであれ、自分の生活には直接関係しない」という多くの人の意識を変えるためには、雇用を創出する事が重要だ。

建前と本音の入り交じった現実において、投票可能数を増大させる事は、もちろん政治的な弊害と「食客」を生むだろう。
しかし、社会的な問題である非就労者人口の増大を、各種政治団体(とそれを後押しする企業)によって防ぎ止め得るならば、その功罪は功の側に傾くと私は考 える。
政治団体は事実上の営利団体であり、宗教団体が得ていたような原則としての非課税特権などを与えられるべき存在ではない。
しかし、政治団体が「林立」せず、それらの多くの政治団体が「切磋琢磨」しないことは、日本の政治的な危機に直結している。
それぞれの団体が「百家争鳴」してそれぞれの政策の利と理を唱えなければ、国民にとって政治は関心を抱くべきものにはならない。
いわゆる「政治団体」には企業や組織による後押しがなされるが、その投資に対する最大の利益は票を集められる事にある。
しかし、現状において、政治団体が国民の生活に影響を与える局面は決して多くない。
宗教団体が政治団体化する現象は見られるが、政治団体が雇用を創出したり、治安維持のために活動することはなかった。
それらは、職業的な成功への道ではなく、成功すれば尊敬と賞賛を得られる「階段」にもなっていない。

「所得税を国に支払っている有権者は、投票権を追加される。(追加1票)」
という原則は、裏を返せば、アルバイトやパートを行って生計を立てている者に政治団体が一定の収入を与える事で、所得税を払わせるよう仕向ける事でもあ る。
これは、組織的な法人税の節約に使われる可能性が高いが、所得税の増大には効果がある。
また、所得税は国税なので、追加票数を取り入れるのは国政選挙に限るべきだろう。
この制度の下で企業が政治団体に一定の資金を投入すれば、政治団体はその資金を用いて複数の人間を雇い入れる事となる。
それも、あちこちの家で引きこもっている青年失業家たちを優先して。
主な理由は、雇い入れてから所得税を支払わせるために掛かる費用が少ないからである。
しかし、政治団体の側でも、雇い入れた者を遊ばせておくという考え方をする必要はない。
雇い入れた以上は「ガキの使い」そのものの働きしかなくてもそれをさせるべきで、全体の作業効率を上げなくてはならない。
政治団体を通じて、それぞれの企業が国民に対する所得再分配を請け負う形になれば、国民の選挙への関心は薄れる方向へ向かうことはない。
関心を持つ人間が、あるいは雇用されている職員が、間断なく「票集め」に活動するからである。

なお、生活の安定した、高めの累進課税を課せられる(3票から4票が与えられる)階層にとっては、国政選挙での追加投票そのものにはあまり意味はない。
しかし、この人々が結集して集団で反対するべき事例があれば、投票力が大きいだけに、それを覆すことはできない。
国民の生活における既得権益を守る役割は、この高税率階層が担う事となる。
また、所得が61万円の人に40万円を与えて所得税を払わせると、その10%(10万円程度)が国に入る。
この場合、30万円程度はその個人にとって利益となる。
だが、所得が265万円の人に同じ40万円を与えると、その20%(61万円程度)が国に入る事となる。
この場合、20万円程度はその個人にとっては損害となる。
このため、それなりの所得を得ている、生活の安定している人間を説き伏せ、その意見を変えることができれば、その政治団体にとっては失業家2人以上の価値 がある。
雇い入れた失業家が複数の人間を説き伏せた場合、その政治団体はその人物に対して年棒を上げ、待遇を改善しなければならない。
既に林立している政治団体は、競争の結果として人材の引き抜きに興じる事となる。
この制度の社会的利益は、政治家の予備軍である弁舌家を大量に登用し、競わせる事で、強力な国民指導者を育て上げる事にある。

ただ、この制度を骨抜きにしようとすれば、幾つかの条件を成立させるだけでよいので、それを回避する仕組みが必要となる。
重要な問題は、所得税の非課税限度額の増減、あるいは物価の上昇である。
所得税の非課税限度額が低下した場合、雇用効果は減少する。
追加票を得るための方法論として失業家を登用するための投資額は減少し、彼らを弁舌家として育てる道筋が瓦解する。
物価が急激に上昇し、平均的な収入が額面上で増大した場合は、基準税額の改定が行われるまで、雇用効果は減少する。
このため、この制度を運用する場合、物価の変動に応じて速やかに所得税の基準税額と税率を改定する必要がある。
また、雇用効果を挙げるためには、所得税の最低課税金額を物価から見て下げすぎない事も重要である。
また、私の試案では最大で5票となっているが、無記名投票の秘密を守るために、事務手続き上の限度としてこのような制限を設けている。
「掛ける10」票や「掛ける100」票が発生した場合、それ自体が「無記名の秘密投票」ではなくなるからだ。

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○「所有」は本当に存在するか

●「所有権」が資本主義の根本原理のようだが、実際に存在しているのは「占有」の権利ではないのか。
「所有」というのは、「占有」と関係ないとされる。
しかし、強大な権力によって構築された「秩序」のない領域においては、人間は「占有」以上の権利は保持し得ない。

●歴史をひもとけば、これは冷徹な事実だ。
下克上の乱世など、強大な権力が存在しなかった。
少なくとも、その権力は「秩序」の維持に失敗していた。

●また、秩序立った社会においても、人間には「所有」権を認めているが、他の動植物にはそれを認めていない。
「所有」権が絶対であるならば、人間は他の動植物に固有の生命を奪う「権利」などないはずだ。
だが現実には、人間は動植物の果実や乳を奪うだけではなく、草をむしり、獣や魚を殺めて、その糧としている。
他の獣や魚と同じように。
大きな獣が小さな獣を殺めて喰うのは、それが出来るからであり、その権利を誰かに認められているからではない。
人間が他の動植物の生命や財産を奪うのも、他の人間がそれを許しているからではなく、それが単に可能だったからだ。

●所有権と占有権の最大の違いは、所有が占有に優先し、射程と時間において優越する事だ。
「秩序」の下においては、人間が人間を動植物と同じように「穫って喰う」ことは肯定されない。
それが可能でも、秩序を構築する権力にとってはその行為自体が「反逆」に相当する。
人間を「穫って喰う」権利は、その「秩序」の下においてはその「権力」にのみ属する。
例えば、裁判所は人間を呼び出し、自分の判断で判決を下し、刑務所に穫って、死刑ならその命を喰う。
権力によって構築された「秩序」は、人間を「所有」しようとする。

●所有権は自然権ではない。
権力が秩序を構築したときの派生物である。
秩序が失われれば、「所有権」は崩壊する。
その時には、「占有」しているものしか与えられない。
だが、「秩序」がうち砕かれ、それを構築してきた権力が弱まれば、各地でそれぞれの地域を「占有」しているそれぞれの勢力も、それぞれの内部で権力闘争に 明け暮れるだろう。

2004/7/25

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○商売が下手な企業者(エントレプレナー)たち

●資本主義の要点は革新(イノベーション)にある、とシュンペーターは指摘する。
そして、シュンペーターはその「革新を行っている者」を役割として把握し、これを「企業者(エントレプレナー)」と呼んだ。
革新をかつて行っていた者であっても、それを行わなくなれば「企業者」ではない。
これに該当するのはアップルの創始者スティーブ・ジョブスである。
なお、マイクロソフトの指導者ビル・ゲイツが「企業者」に該当するかは微妙である。

●シュンペーターによると、資本主義はその組織の巨大化そのものによって「企業者」を失い、傾いて壊れてゆく構造を抱えている。
「企業者」は資本主義の牽引車だが、組織の巨大化によって個人の英雄的資質や決断力の要素は排除され、革新に次ぐ革新を行い続けるのは困難になってゆく、 と。

●では、どうすべきか?
近代資本主義の牽引車である「企業者」を量産し得れば、革新に次ぐ革新によってその社会は強大になり、望むだけの勢力を保持できる。
近代資本主義国家にとって、「企業者」の量産は最重要の課題だ。
組織の巨大化によって排除される「企業者」を保護するのは難しい。
であれば、小さな組織を乱立させることで「企業者」たちを炙り出していこうというのが、イギリスのサッチャー政権などが行おうとした経済政策だった。

●しかし、企業者が何のために革新を行っているのか、「経済学」はその理由を開示してくれない。
企業者の「発進」を社会が邪魔しないことは、不可能ではない。
だがそれは、実際には「量産」にはほど遠い。
企業者たちにとって、初期資本はないよりあるに越したことはない。
しかし、彼らが革新をし続けるのは、「お金」の為なのだろうか?

●小さな企業が巨大化する時には、売り上げの拡大と増資は必要不可欠な過程だ。
だが、それは企業者本人の利益に還元されるとは限らない。
「食べていくために仕事をする。」
それは生を確保するための行為で、目的は仕事そのものにはない。
しかし、企業者は、他ならぬ革新を遂行するために資本を必要とするが、「ただ生きるため」に働いている訳ではない。
生身の人間にとって生は有限だ。
時間は買い戻すことができない。
また、買い足すこともできない。
山のような財貨を集めても、肉体の使用期限を「延長」することはできない。
ということは、「ただ生きるため」であれば、一定額の資産を形成すれば、人間は働く必要がなくなる。

●もちろん、「ただ金を儲けるため」に生きている人間は、全く別だ。
そして、いわゆる「経済学」は、その「ただ金を儲けるため」に生きている人間を扱う。
彼らは、生きる為ではなく、ただ金を儲けるために金儲けをし続ける。
これは本来は一種の依存症なのだが、患者はそれが依存症であること自身に気づかないし、気づかないがゆえにその患者であり続けられる。
お金は、既に構築された秩序の下では優れた交換価値を持つがゆえに、多くの人に求められるが、「金儲け依存症」の人間を除いては、お金自身が求められてい る訳ではない。
お金を通じて本当に求められているのは快楽、名声、そして救済。
例えば、美味しい食べ物、貴重な娯楽、快適な住居、壮麗な衣装。
しかし、金儲け依存症の人間は、それらを得ても満足しない。
彼らは快楽を通じて獲得した名声を、次の事業や金儲けに利用する。
だが、その手法は革新を伴うものとは限らない。
二番煎じ、後追い、訴訟、権力者との内通、空売り、買い占め。
革新に依らずとも、世の中に新しい機軸を提案しなくても、「企業者」でなくても、金儲けはできる。
一旦、大口の資本を集められれば、後は「革新」に依らずとも、金儲けは続けられるのだから。

●ハングリースピリットは「革新」とは無縁だ。
企業者を量産するためには、「ただ生きるため」の人間を追いつめても無駄だ。
だが、「金儲け依存症」の人間を育成し、その資産を欠乏させれば「革新」を行う人間になるのかというと、大いに疑問を投げかけざるを得ない。
金儲け依存症の人間は、手段を選ばない。
厳密には、彼らも手段を選んでいるが、それを選ぶ基準は確率論だ。
その結果、新機軸を社会に提案するという選択は、その不確定性によって彼ら自身から忌避される。
彼らは、株が儲かるなら株に投資するし、クズ鉄が儲かるならクズ鉄を集める。
そして、「革新」を装えるなら、その「革新」を装って商売を進めるだろう。
「これが新しい機軸だ。世の中はこうなるのだ」
と人々に強く訴えることによって、多くの人から資金をかき集め、「革新」を行っているように見せかけることもできるだろう。
比較的、簡単に。
少なくとも、実際に「革新」を遂行し、社会をその新機軸によって根底から変えることに比べれば。

●近代資本主義国家が、「企業者」を量産するために多くの「企業家」を後押しすることは、やらないよりマシな策かもしれないが、特効薬ではない。
金儲け依存症の人間たちが、その資金援助を目当てに殺到し、ニセモノの「企業者」として詐欺に活躍するという事態もあり得る。
それが行きすぎれば、「怪しいことを言うヤツは全排除しろ」という社会的反動が強まり、本当の新機軸を社会に導入しようと企むホンモノの企業者の足を引っ 張ることに繋がりかねない。

●誰が「企業者」たちを撒いているのか。
それは天である。
天才は種のまま各地に撒かれているが、それが育つか、花を開くかは分からない。
もちろん、集中的に撒いて貰えることに越したことはないし、発芽する条件があるなら、それを解明する事が本当の国益に繋がる。ひいては、結局は人類全体の 利益になるのだ。
社会に新機軸が必要だと信じる人間は、この世の現実を明るく楽しく受け入れている訳ではない。
少なくとも、その根幹の部分では。
天才たちは、激しい不自由さや違和感を感じつつ、痛みを覚えながら成長する。
「企業者」とは、その天才たちの中で、世の中に新機軸を提案したいと強く願う者だと思う。
「企業者」たちは、よく考えればものすごく「商売が下手」だ。
何故に「世の中」や「常識」をひっくり返しながら商売しなければならないのか。
もっと確実に儲かる、薄汚くて確率の高い手段はそれまでの現実の世の中にあるのに。
利権構造を理解し、それに乗っかれば、後はその維持に努めればよいのだ。

●現在の私の結論としては、「企業者」を量産することはできない。
どこに天才が眠っているかは分からないし、それを集める策も発芽させる策も思いつかない。
だが、消極的な策なら、考えつかない訳ではない。
天才や「企業者」たちは、実際は商売が下手で、常識を尊重していない。
このため、この人々を「金儲け依存症」にしてしまうと、ただのカモにしかならない。
この、金儲けに向いていない非常識な連中を、いかに「遊ばせておく」かは重要な課題だ。
そのために必要なのは、社交の場だ。
無理にリアル・ワールドでなくても構わないが、この方々の場合、リアル・ワールドでなくても「常識を尊重する」はずはない。
彼らと、社会との連帯を繋ぎ止める友人が、社交の場を通じて媒介しなければ、彼らは孤立して「常識」に囲まれ、金儲け依存症を含む不得手の場に追い込まれ てしまう。
さらに言うなら、「金儲け依存症」を依存症の一種として排するよう注意を促すことも必要だろう。
彼らを支えるべき非天才、非企業者の友人たちを堕落させないためにも。

2004/7/25

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○嫉妬をもって尊しとなす
●谷沢永一氏は「嫉妬」を中心にした日本社会論を描いているが、一体彼はいつから敗北主義者になったのだろう?
扶桑社の歴史教科書の「絶版を勧告」し、
聖徳太子の不在論を訴え、
嫉妬を日本社会の特徴と見なす。
「嫉妬をもって尊しとなす」という「新しい十七条憲法」を制定したいのだろうか?

2004/7/25

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□徴兵制と再軍備に関する覚え書き□

徴兵制は、日本に関して言えば、利益のない制度である。
ただし、それは周辺諸国が一斉に徴兵制に移行し、通常兵器による大軍拡において周辺諸国に先行されるという状況を除く。

国民をこき使うには、「徴兵制」という言葉も制度も必要ではない。
ボランティアの制度的導入、「地域消防隊」の組織化こそが焦眉の急であって、陸上兵力としての日本人が必要な訳ではない。
日本人の雇用コストは他国の人間に対しても遙かに高く、そして陸上兵力は「消耗品」であって「買い換え」や「取り替え」の効くものでなければならない。
少数の兵員が多数の兵器を扱い、多数の兵員を圧倒できる現在、「徴兵制」によって得られる利点は少なく、その効果は認めがたい。

通常兵力による再軍備を先行させ、米艦隊を太平洋から一掃できるだけの実力を身につけなければ、日本の再軍備は日本自身にとって何の利益ももたらさない。
核兵器の配備を先行させ、基地や部隊の脆弱性を放置するなら、予算の無駄遣いであり国賊的行為であると断ぜざるを得ない。

核兵器の配備は、劣勢の者が自衛のために掲げる傘である。
しかも、パキスタンの核兵器の配備は、インドの核実験によって推し進められた経緯がある。
既に一度は戦火を交え、その時もインドに7倍の人口と予算規模で押し切られたパキスタンとしては、インドだけが核兵器を配備するという現実に対抗するため に自らも核兵器開発を推し進めた。
インドからすれば、中国やロシアに対しても脅し返す目的があるので、対パキスタン用の脅しではない、と主張できないものではないが、パキスタン側からはそ う見えない。

日本が、核兵器を開発するなら、当然に「配備」しなければならない。
「配備」する以上、独自の「核戦争計画」が必要であり、それは独自の「核戦略」に立脚している必要がある。
パキスタンの場合は、ごく簡単である。
「撃たれたら、インドに撃ち返す。インドに押し切られそうなら撃つ。」
しかし、日本にはそこまで明白な「敵」はいない。
「撃たれたら誰に撃ち返すのか」
「いつ、誰が撃つ決断を下すのか」
これを明確に事前に確定させておかないと、核兵器で国を焼かれることに繋がる。
米露ならず英仏も「全世界に攻撃する」自動報復戦略を貫いており、論理的にはこれでないと核兵器を持つ意味はない。
核兵器を自国に撃ち込まれた段階で、指揮系統は混乱し、国富は破壊されている。
それぞれの部隊は、事前の命令に従って、既に起きてしまった「核戦争」に対処する他はない。
戦略原潜は食料が尽きて命令が実行できなくなる半年後になっても「命令」が届かなければ、所定の目標に戦略核弾頭ミサイルを発射するよう命令を受けてい る。

冷戦時に、真剣に核戦争について考え、それにおびえていた人間なら、その記憶を思い返すべきだ。
何故に「全面核戦争」に怯えたのか。
このような「自動報復システム」がドミノ倒しのようにエスカレーションを起こし、最後には米露の核弾頭が群をなしてと地表に降り注ぐという想定がされてい たからだ。
それは実は今も変わっていないし、当分は変わりそうにない。

日本が「核武装」する事は、日本が「ミサイル防衛」する事と、基本的には無関係だ。
だが、韓国や中国にとって、この両者の並列は「核戦争計画」の成立と実行に見える。
日本にとって「核武装」が比較的安価な軍拡だったとしても、それによって中国、あるいは韓国が同様に「核武装」を強める事態も同様に安価なる故に推進され る。
結果として、日本は自動的に「ミサイル防衛」を推し進める事を求められる事となる。
この「ミサイル防衛」が一定の信頼性を持つものだったとしても、その費用負担は「安価だから」核兵器を開発し配備するという論理を粉砕して余りある。
最初から配備すべきであるならば、核兵器を持たずに「ミサイル防衛」だけを推進すべきだ。

徴兵制は、国民を外国ですりつぶす覚悟と決意が要る。
核兵器の配備は、全世界を灼きつくす覚悟と決意が必要だ。
そのどちらもなく、ただ自らの「気分」だけで、雑誌やメディアや掲示板の情報に左右されて「軍拡」を説く者が今も絶えない。
私は、表現の自由と言論の自由のある国の国民として、それらの意見を発表する事そのものには是非を問わない。
しかし、私の意見は上記の通りである。

殺すつもりがなければ、銃を握るな。

2004/06/25