第二十四代:第一次加藤高明内閣
(任:1924/大正十三.6.11-1925/大正十四.8.2)


加藤高明首相(在任:1924.6.11-1925.8.2)

総理大臣 加藤高明 憲政会
内務大臣 若槻礼次郎 憲政会
外務大臣 幣原喜重郎
大蔵大臣 濱口雄幸 憲政会
司法大臣 横田千之助 大正13.6.11-大正14.2.5、病死 政友会
高橋是清 大正14.2.5-大正14.2.9 政友会
小川平吉 大正14.2.9-大正14.8.2 政友会
文部大臣 岡田良平 貴族院
農商務大臣 高橋是清 大正13.6.11-大正14.4.1、
農商務省廃止
政友会
農林大臣 高橋是清 大正14.4.1-大正14.4.17 政友会
岡崎邦輔 大正14.4.17-大正14.8.2 政友会
商工大臣 高橋是清 大正14.4.1-大正14.4.17 政友会
野田卯太郎 大正14.4.17-大正14.8.2 政友会
逓信大臣 犬養 毅 大正13.6.11-大正14.5.30 革新倶
安達謙蔵 大正14.5.30-大正14.8.2 憲政会
陸軍大臣 宇垣一成
海軍大臣 財部 彪
鉄道大臣 仙石 貢 憲政会
内閣書記官長 江木 翼 憲政会
法制局長官 塚本清治

成立過程

 第二次護憲運動の結果、「苦節十年」の憲政会が第一党の座に躍り出た。
 政友会は当てがはずれて切歯扼腕したが、憲政会154議席という数字は、たとえ政友・革新合同が成ったとしても、凌ぎえない数字であった。憲政会総裁・加藤高明に大命が降下し、加藤は昂然、組閣に着手する。政友会総裁・高橋是清、革新倶楽部の犬養毅を招いての協議で、高橋は内務、または大蔵のポストを要求して組閣交渉を難航させたが、行司役を務めた平田東助伯爵が
「内務は政府の中心、大蔵は政策の中心であるから、これは憲政会から閣僚を出す」
としてはねつけ、憲政会の領袖・若槻礼次郎と濱口雄幸がそれぞれ内相・蔵相となった。政友会の高橋には農商務相、横田千之助に法相、革新倶楽部の犬養には逓信相のポストをそれぞれ提供し、こうして護憲三派内閣が発足した。
 さて、この三派の動きへの評は、大正十三年三月の「国際写真情報」に端なくも現れている。「往日の犬と猿が同じテーブルで護憲を談じる、大いに結構だがこれがいつまで続くやら」と。

 経過

 加藤高明第一次内閣の大仕事は、普通選挙法案を可決することであった。
 議会は、三派が圧倒的多数をえているから問題ないとして、障害となりそうなのは貴族院と、枢密院であった。まず枢密院は、選挙権は独立で生計を営むものに付与すべきだとして、「他人の救助を受けるもの」を除外する、欠格事項を設けた。しかし、これでは学生などに選挙権が付与されないことになってしまう。
 そこで内相・若槻礼次郎や翰長・江木翼などが奔走し、また枢府議長の浜尾新、副議長の一木喜徳郎などが協力して、「他人の救恤を受けるもの」とした。これなら、学生が親から援助を受けることは救恤に当たらない。こうして、なんとか枢府では可決された。
 衆議院は苦もなく通過したが、もう一つの難関が貴族院である。
 貴族院はふたたび「他人の救恤を受けるもの」に対し食ってかかり、議論は平行線のまま、両院協議会が開かれるに到った。そこで、加藤首相が政友会の名うての策士・岡崎邦輔に依頼し、「他人の救助を受けるもの」の上に「貧困のため」という言葉を入れることによって、ようやく協議会はこれを可決、第五十議会においてついに普通選挙法は成ったのである。
 さて、これと前後して、有名な治安維持法が成立した。
 これは普選法案とセットで現れたように解されることが多いが、当時の若槻内相によれば、「もともと治安維持法は、・・・・以前から内務省内の宿題であった(古風庵回顧録)」と述べている。同法にも反対が根強く、とくに新聞社は、言論の自由がどこにあるかとして激越に反対した。そこで関係省庁の若槻内相と小川平吉法相が委員会を開いて、新聞の自由な意見までが取り締まられないように、取締のポイントを絞った。つまり、国体変更と私有財産制の否認のみが、取締の対象となったのである。こうして、両院を通過することが出来た。

 さて、この二つの法案が通過し、濱口蔵相、江木翰長の努力で財政整理に目鼻が付き始めると、またぞろ三派連合に罅が入り始める。
 まず、三派協調を政友会内で推進していた横田千之助法相が、議会会期中に病死し、小川平吉がこれに替わった。また、高橋是清が閣僚も、政友会総裁をも辞することを表明し、その後継総裁としては元陸軍大将・田中義一が就任した。加藤首相は田中に閣内に入ることを要請したが、田中はこれを固辞。代わりに岡崎邦輔と野田卯太郎を閣内に入れたが、三派連立は明らかに緩んだ。また、五月十
日、革新倶楽部が政友会と合同、政友会の議席数136議席となり、第二党となる。第一党憲政会に迫った。 ここで政友会閣僚は、内閣における埋伏の毒としての役割を果たし始める。濱口蔵相の財政改革案に反対し、閣内不統一を惹起したのである。加藤首相は、
「どうしても賛成できんか、賛成できんならば、辞めてもらうほかない」
 と通告したが、政友会閣僚は、
「自分らだけで辞めるということはしない」
 とがんばり続けた。そこで加藤首相は、
「そんなら閣内不統一ということになるから、よろしい、自分は辞める」
 と言って辞表を取りまとめ、捧呈した。
 往日の犬と猿の護憲体制は、わずか一年足らずで崩壊した。

戻る

第二十五代「第二次加藤高明内閣」へ