多数決と民主主義は滅べ! ★2000.10.08

 

久々の書きだめ草稿放出シリーズ。

 

●統治する者とされる者の戦い?

 

私は共産主義の歴史観というのはきちんと知らないが、簡単にいうと人類の歴史とは階級闘争の歴史なのだということでいいのだろうか。まあ、今の世界を牛耳っている西洋思想の背景となる西洋史では、階級闘争の歴史であったといえるかもしれない。皇帝は諸侯にひっくり返され、絶対王政は市民革命にひっくり返され、ブルジョワは労働者にひっくり返される……。

 

この歴史を見るならば「少数の者が支配し、多数の者が搾取・圧迫されるのは、まっとうな社会とはいえない」という結論が出てくるかもしれない。確かにそれはそうだ。だが、現代はどうだろうか。

 

まあ一部の大企業とか政治家家系とか、京都の白足袋さんたちが裏で牛耳っているという見方もあるが、それはおいておくとして、少なくとも建前上は日本は民主主義国家だ。つまり、天皇が統治しているわけではないし(現在の象徴天皇制は、天皇を利用する者がいたとしても、天皇個人の意志で政治が動かないことは事実)、貴族や将軍が統治しているわけではない。一応、成人国民による普通選挙によって選ばれた国会議員が政治を担当し、首相も選挙で選ばれた人ということになっている。「民主的」を「アカ」と呼ぶヴァカがいるが、最大与党が自由民主党であり、最大野党が民主党であり、社会党がほとんど絶滅して社会民主党と名乗っているこの国は、少なくとも建前上は民主主義国家なのである。いや、民主主義を否定するのは、天皇親政を訴える一部の右翼のみといえよう――少なくとも名目上は。

 

民主党は、官僚の存在をもって民主主義に反すると言っている。それはそれで筋が通っているのだが、官僚独裁かといったらそうでもない。少なくとも民主主義は日本の大きな部分を担っているといえる。

 

●民主主義は正しいものを選べない

 

だが、今のような民主主義はそろそろ滅ぶべきだ、と私は思っている。ではおまえは独裁を叫ぶのか、ハイル・ヒットラーか、ジーク・ジオンか、と言う人がいるかもしれない。

 

正確に言うならば、私が最も嫌うのは「多数決民主主義」である。なぜなら、真実であるか否か、あるいは物事が正しいか否かは、本来は多数決とは関係がない。厳密に言えば、「多くの人が正しいと思っていること」が本当に正しいか、本当に効果的か、といえば、答えは「必ずしも正しいとはいえない」ということになる。正しいこともあるだろうが、正しくないことがあることはしっかり認識すべきだ。

 

たとえば科学は多数決ではない。それなら、数百年前までは地球は平らな円盤で固定されており、太陽がその周りを回っていたのだろうか。あるいは、多くの人が理解不能と思われる相対性理論や量子力学は、多数決を取ったら「そんなのわけわからん」あるいは「信じられない」「そんなことはどうでもいい」ということになるだろう。

 

たとえば頑固な陶芸職人がいる。粘土の練り方、水分量、ろくろを回す速度、窯の温度と火力の調節。これらすべてを素人の多数決で決められるのか。そんな馬鹿な話はない。

 

逆にいえば、専門的な分野についてきちんとした判断を下せるのは一部の専門家のみである、ということである。それは、専門的な分野について、一般の人は判断を下すだけの能力を持ち合わせていないということでもある。それを無理やり全体に敷衍すれば、平均点はがくんと落ち、合格点に満たないことも多いだろう。

 

これがさらに悪化すると「衆愚政治」という。現代日本はすでに衆愚政治に陥っているようにも思う。

 

●日本人は衆愚である

 

こういうことを言うと、共産主義(正真正銘のアカのみなさん)の人からは「おまえは大衆蔑視主義者だ」とレッテルを貼られるだろう(実際、民青の人間にそう言われたことがある)。どうやらわたしは共産主義者にはなれないようだ。マルクスがやろうとしたことは、ネット語でいえば「一部の金持ち(ブルジョワ)を殲滅してドキュン厨房(プロレタリア)による独裁」をたくらんだわけだからね。

 

しかし、事実は事実である。話を戻すと、現代日本では「地域の利益の代表者」が選挙で選ばれて「国政」を担当することになっている。この最大の矛盾になぜ気づかない人が多いのか。それがすでに衆愚政治だと思う。地方政治の寄せ集めが国政になるわけではない。全体を見て、そのすべての構成要素の関係を見て取り、また外部との関係をどう運営するかということは、地方の利益の寄せ集めとは別次元、ワンランク上の視点を必要とする。

 

しかし、自由民主党と日本共産党が最大の戦犯だと思うのだが、地元の人にいかに利益を還元するかが選挙の最大の争点となっている。これは政党が悪いというより、そういう観点でしか投票できない愚かな国民が最大のガンだ。日本人(の多く)はヴァカだと私は断言する。自民党と共産党は同じ穴のムジナだ。違うとすれば、自民党は経営者に、共産党は労働者にとっての利益を追求するだけのこと。自民党は「こういう利益のある事業を地元に誘導しよう」といい、共産党は「こういう害のあるもの(ゴミ捨て場とか)を地元から排除しよう」というが、どちらも地元のことしか考えていないという点では同じであって、全体的な視野というものがまるで欠けている。原発にしても、地元に利益をもたらすものか否かという見解が違うだけであって、地元の利益という点では共通している。

 

ところが、ここに「地元には明らかに不利益だが、それが日本全体のためにもなり、それがひいては地元の名声を高め、長期的視野ではいい結果をもたらすだろう」というような政策があったとしよう。それを提唱する人は、現代日本では選挙に勝てない。それが現実である。日本人はやはり衆愚である。

 

●有能な君主のいる立憲君主制

 

田中芳樹の『銀河英雄伝説』という長い小説がある。これは私も全巻読んだものだが、このストーリーを簡潔に言ってのけた友人がいた。

 

「あれは、有能な君主のいる場合の立憲君主制が最高であって、民主主義はそれに及ばない、というごく当たり前のことを延々と小説仕立てにしているのだ」

 

なるほど。それが正しいとすれば、私は田中芳樹の発想に似ているかもしれない。超有能な一人の君主が、きちんとした法にのっとって統治する。それは絶対にすばらしい統治となるだろう。やや理想論であるが。古代中国の聖人皇帝(黄帝や堯・舜・禹など)はその例といえるだろう。神話の領域かもしれないが。

 

しかし、いくら有能であっても法にのっとらずに統治する、つまりきちんとした規範や根本原則なしに自分の欲望の赴くままに統治するならば、国家は恐るべき不幸を味わうであろう(殷の紂王はその代表例――もっとも、自らの欲望の赴くまま統治した段階で有能とはいえない)。また、法にのっとっているつもりでも無能であれば、法を生かすことができない。それだったらまだ民主政治のほうがずっとマシである。

 

●多数決もたまには役立つ

 

先ほど、多数決では正しいことを決められない、と私は述べた。だが、多数決もまったく役に立たないというわけではない。それは「好み」や「感情」を計測するための手段としては非常に有効だということである。

 

たとえば、大宮市と浦和市と与野が合併するにあたって、名称は何にしましょうか、というような場合だ。別にそこに「正解」は存在しない。大宮だろうと浦和だろうと与野だろうと、あるいは中をとって大和野とか和野宮(降嫁しそうな名前だ。笑)とか(いや、実際に案としては投票されていたようだ)、別に他の地域と区別できればそれでいいのである。しかし、古い名称を残したいとか、いや、心機一転新しくしたいとか、いろいろな「住民感情」があるだろう。それを調べるには「人気投票」という名の多数決が望ましい。

 

※参考リンク:浦和・与野・大宮 3市合併

 

結局「さいたま市」に決定ということだが、どうでもいいけど「さいたま」っていうのは「多摩の先」というのが語源(幸魂(さきみたま)説やサキタマ姫説は後に美化した俗説にすぎない)。多摩に従属する地名というのはどんなもんなんだろうか……という感慨を私が抱いたところで、それは別に正しいとも正しくないともいえない。単に好みの問題、あるいはその名称のメリット・恩恵がどの程度あるのかという問題である(効果が高いか否かという価値観は正しいか否かという判断基準とは別のものである)。

 

ここで一つ思考実験。仮定だからね、仮定。現実にはありえないよ。もし「さいたま市」の住人の8割がきわめて悪趣味で(笑)「ネオうらわ第2新東京市」に投票したらどうなるだろうか。それはそれで勝手だし、それで不利益を被るのも彼ら自身なのだから、自業自得といえばそれまでである(ある意味公正ではある)。が、冗談ならともかく、実際問題として考えれば、もっとまともな意見を言う少数者の意見をとるべきだったということになるだろう。

 

●多数決が正しいとされたのは時代背景による

 

「民主主義が正しい」と主張されてきた背景には「多数決が正しい」という見解があるはずである。なぜなら、国王のような少数より、多数の民衆の意見を取り入れろというわけだから、それは多数決が正しいということが前提になっているはずである。

 

では、なぜ多数決が正しいということになったのだろうか。

 

ここで問題になるのは、「多くの人が幸福であると感じることが大切である」という、だれもが正しいと信じて疑わない大命題だ。私も否定するつもりはない。だが、その定義においてさまざまな解釈がありえるということは注目すべき点だ。

 

有名なベンサムの言葉に「最大多数の最大幸福」というものがある。字面だけとらえれば、まことに結構な理念だ。しかし、現実に当てはめるとき、さまざまな問題が生じる。

 

たとえばここにA〜Eの5人がいたとしよう。そして、それぞれの人の享受する「幸福」を10段階で表わしてみる。

 

まず、このパターンは問題ない(1)。

  A――10

  B――10

  C――10

  D――10

  E――10

 

君主専制というのはこういうパターンである(2)。

  A――10

  B――1

  C――1

  D――1

  E――1

 

多数決原理に基づく民主主義だとこうなる(3)。

  A――1

  B――10

  C――9

  D――10

  E――0

 

つまり、一般大衆(B〜D)が君主や貴族(A)に取って代わったのであり、過半数がほぼ満足しているのだから、これは多数決原理の民主主義ではOKである。しかし、Aは不幸にしていいのだろうか。共産主義ではOKである。殲滅すべきである(ここに私は共産主義の限界を見る)。また、E(社会のマイノリティ)はそのまま放置していいのだろうか。「公共の福祉」や「公序良俗」といった、多数派に都合のいい偽善的用語を用いるならば、OKということになってしまう。

 

平均点は3と同じだが、これならどうだろうか(4)。

  A――6

  B――6

  C――6

  D――6

  E――6

 

だれも満足していないが、同じように不満足なのである。4と3とどちらが公平な社会かといえばもちろん4だが、人は「自分だけは10取りたい」と思うものだから、どうしても3を選ぶことになる。共産主義国家が崩壊し、資本主義国家が存続しているのも、そこに理由があるのだろう。

 

●愚民専制の「民主主義」

 

だが、マイノリティを見なかったり排除すればそれでいいのか。そろそろそんな段階は超えなければならないと思う。

 

かつては、支配層は少数だった。だから、多数の幸福を手に入れるには「支配される側が支配する者を打倒する」ことが有効な手段だったかもしれない。

 

しかし、現在はそうではない。多数の大衆そのものが支配層となり、少数のマイノリティ(「三国人」とか)を圧迫している。しかし、それは「多数の幸福」という錦の御旗を濫用することによって正当化できてしまうのである。

 

多数派が支配される側であった時代は、多数決や民主主義を説くことは有効だっただろう。しかし、時代はすでに変わっている。多数派が支配する側に代わっているのである。つまり、多数派独裁・少数への迫害である。

 

私は多数派が支配することを正しいと考えていない。すでに衆愚政治に堕していることは明白だと思う。したがって、現代は民主主義どころか「愚民専制」ともいえると考える。

 

だからといって、少数が多数を打倒すればそれでいい、などという短絡的な発想を持つものではない。少数だから正しいというわけでもないし、多数だから正しいというわけでもない。正しさは、すべての人が天才でない限り、議論の中から見いだされる。つまり、さまざまな視点から検証し、本当に何がどのように利益となり、害となるのかを見極めるための議論(戦いのための論戦やレッテル貼りの主義主張の押しつけではない)が必要となってくるだろう。

 

数や力、あるいはカネ、利益誘導、反利益阻害、こういった「力学」によって動く政治は誤っている。現実問題としてそれが政治の現実だ、といわれるかもしれない。それなら、そんな腐った政治などない方が人類のためではないか(もちろん私はアナーキストではない)。

 

 

 

※なお、多数決が正しいとされる背景には、「正しいことは多くの人に受け入れられる」という信念があると思われる。しかし、これは私に言わせれば錯覚だ。正しいからといって多くの人に受け入れられるわけではない。往々にしてわたしたちは正しいことよりも「なじんでいること」「目先の利益になること」「とにかく自己主張できること」「なんとなくわかりやすいこと」を選択しがちである。あまりなじみがなく、目先の利益がなく、複雑なことは真実ではない、という判断をされることがきわめて多い。多くの人が受け入れているか否かは、それが真実か否かとはまったく関係がない。関係があると思うのは、思考停止した愚民だけである。そして、日本人の大多数は愚民である。

 

以下、政党全廃論に続く。

 

政党全廃論    2000.10.17.

意外な反響を呼んだ「民主主義と多数決は滅べ」。本論部分ではなくもっぱら「衆愚」というワードに議論が集中したのが、少々書き手の思惑と違っていたという感想がある。衆愚論は改めて書く必要があるのだろうか。まあ、それはともかく、前回に続く書きだめシリーズ「政党全廃論」を出そうと思ったら、タイミング良くこんな記事が掲示板に転載されている。

 

「総保守」完敗 自民党、長野知事選結果にショック

 

 長野県知事選で、政官業の「総保守」に支えられた前副知事が作家の田中康夫氏に完敗した「長野ショック」は、来年夏の参院選に向けて選挙制度を変えてまで業界票の掘り起こしにかける自民党に深刻な衝撃を与えた。「既成勢力が飽きられた。参院選対策をどうしたらいいかわからない」(森派の小泉純一郎会長)と戸惑いが広がる。一方、民主党は「既得権益を守ろうとする自民党の組織選挙が県民の怒りを買った」として、自民党に反転攻勢をかけるきっかけに、と期待している。

 

 政府・与党幹部は表向き「国政に影響を与えるものではない」(中川秀直官房長官)、「政党が前面に出られない選挙。国政選挙には関係ない」(自民党の野中広務幹事長)とダメージを振り払うのに躍起。その一方で「すべての政党は権威を失った。政党は、国民の感性をキャッチする能力を失ったのかもしれない」(山崎拓元政調会長)と深刻な危機感が広がっている。

 

 長野ショックは、「無党派層の反乱」だけではない。経済界や建設業界など「保守の地盤」にも亀裂が入り、公共事業や補助金をテコに締め付ける従来型の選挙手法が失敗に終わった。自民党が参院比例区に非拘束名簿式の導入をめざすのは、業界団体の票の掘り起こしが最大の目標だが、参院橋本派幹部は「単純な締め付けでは反発がでることが、長野でわかった。参院選ではよほどいい候補者を選ばないと」と参院選対策の練り直しが必要だとしている。

 

 6月の総選挙でも指摘された都市無党派層の「保守嫌い」が地方へと波及している現状も浮き彫りになった。加藤紘一元幹事長は「県の出納銀行の頭取ら保守層が政党に反旗を翻した。参院選に向け自信を喪失するきっかけになりかねない」と指摘する。

 

山崎拓さんの言葉は、そのとおりだと思う。「すべての政党は権威を失った。政党は、国民の感性をキャッチする能力を失った」――これは政党崩壊時代の名言として残すべきだと思う(主旨は少々違うのかもしれないが)。

 

政党はもはや使命を終えた。政党の時代は終わった。それが私の考えである。それは二つの意味合いを持っている。現在の政党が政党としての役目を果たしていないというのが一点、そして政党という概念そのものが役立たずであるというのがもう一点である。

 

■理念を忘れた政党制

 

●利権的政党

 

【政党】市民革命後の近代国家において,国民の利益や意見と政府の決定を結ぶ役割を果たす最も重要な政治集団。初めは,政権獲得のための私的な徒党と考えられたものが,次第に議会政治における正統的存在とみなされるようになり,E.バークは「公共の利益を促進するために,一致した原則により相協力する一群の人びと」と定義した。議会政治下における政党の機能は,争点や候補者を示すことによって国民を統合し,内閣を組織することによって政府の基盤となり,野党として批判することによって政治を公開することにあるとされる。(マイペディア)

 

まず、政党は「間接民主制」から生まれた。つまり、国民全員が政治に参加すると大変なので、選挙で議員を選出し、その選ばれた議員が集まって政治を動かしていく。その際、同じような政策をもっている人たちが集まったのが政党だ。

 

私は政党には2種類あると思う。イデオロギー的政党と、利権的政党だ(もしかしたらすでにこういう分析はあるのかもしれないが、そういう本を読んだことはない)。

 

イデオロギー的政党は、政党よりまえに理念がある。共産党なら共産主義、社会党なら社会主義、社民党なら社会民主主義、公明党なら立正安国といったイデオロギーや思想や宗教がまずあって、その理念を実現するために政党が作られるというタイプである。これは、まずその理念に共感した人が集まってくるのだから、細部は別として、大きな方針そのものは政党員に共通しているといえよう。理念によって集まってくる政党がこのタイプである。

 

一方、典型的なのは自民党だが、あれは自由民主主義というイデオロギーを実現するために存在しているとはいえない。地域エゴ(地元にいかに利益を還元するか)その他の利権を確保するために群れているだけである。このような「利権に群がる烏合の衆」の集団を利権的政党と呼びたい。

 

私は、利権的政党は国を滅ぼす役にしか立たないと考えている。なぜなら、近視眼的視点しか持っていないからである。自分だけ、あるいは地元だけ(それも結局選挙に選ばれるためのご機嫌取りだとしたら、自分だけというに等しい)の利権をゲットすることが主目的となっているなら、どうして国政や百年の大計といったものが作れようか。

 

私は薩長藩閥政府は心情的に嫌いであるが、明治の政治家にはまだこの百年の大計や理念というものがあったと思う。少なくとも維新のとき、若き志士たちは壮大な未来ヴィジョンを有していた。今、それと同じスケールで物事を見ることのできる政治家は、はっきりいってどこにいるだろうか。単に志士が好きだというだけではだめである。いざとなれば地元や自分の利益を切り捨ててでも、大計のために身をなげうち、自分を犠牲にしてでも未来の理念のために行動するような政治家はどこにいるのか。

 

現在、国会議員の多くは「地方議員が国会に来ている」だけのこと。国政など見ていない。自分の関係する地元や産業が儲かればそれでいいのである。

 

●地域エゴ政党

 

イデオロギー政党は一定の存在価値があると思う。そのイデオロギーそのものを論じ、反駁すればいいからだ。烏合の衆よりは値打ちがあるかもしれない。

 

ただし、現在の共産党などはもはやイデオロギー政党ではない。もちろんそれは戦術なのかもしれないが、結局は地域エゴを支援する団体でしかないとすら思う。私は、自民党と共産党が日本の二大地域エゴ政党だと考えている。

 

自民党は経営者や地域が儲かることを優先して地域エゴを擁護する。「中央政界と太いパイプがあるから地元にガンガン利益を引っ張ってきます」と実際に選挙ポスターに書いていた候補者を見てうんざりした覚えがある。それが自民党のすべてだ。

 

一方の共産党は、住民や労働者が主人公というが、これぞ衆愚の極みであって、住民や労働者のわがままが正義であるという誤った宣伝をしている。つまり、地域住民わがままエゴの擁護者だ。これは、地域の中のだれの権益を擁護しようとするかが違うだけで、結局は同じ穴のムジナである。

 

原発は地域の産業振興になるから誘致すべしという自民党、原発はなんかこわいし、住民の健康を損なうから、とにかくここじゃなかったらどこでもいいから、このへんにだけは作らないで、と排斥するだけの共産党。私は、もし「原発は確かに我々の健康を損なうが、我々が犠牲になれば都会の人々が恩恵を受け、それはひいては日本全体の利となり、我々にもその恩恵は返ってくる」と堂々と主張する人がいれば、その人に投票するだろう。あるいは、「原発は確かに地元産業を振興させるだろうが、それは数千年単位で我々の子孫に悪影響を与える。それくらいなら貧乏を甘んじて受けようではないか」と言う人がいれば、その人に投票するかもしれない。排斥・排除だけの共産党でもなく、札束で頬を叩いてくる自民党でもなく。だが、そんな人はいない。そして、有権者も目先の利益によってのみ投票する。これを衆愚という。

 

■政党制は民意を反映しない

 

●得票数と議席数が比例しない問題

 

政党制の問題点として次に挙げられるのは、得票数と議席数が比例していないという点である。2000年6月の衆議院選挙で、私はその実例を示した。

 

★2000.06.28.衆院選、本当の「民意」は与党大敗北

★2000.06.29.実際の得票数と議席獲得数が大きく違う(衆院選検証第2回)

(驥尾団子への再録時はこの記事を実際に挿入すべし)

 

結論からいえば、自民・公明・保守3党は、得票数総数では過半数に達していないのに、議席は過半数を取っている。つまり、日本の選挙の結果は民意を反映していないということだ。

 

このような現象が起きるのは、簡単に説明できる。「死票」だ。つまり、落選した議員に対して投票された分は「なかったこと」になってしまう。これは、小選挙区(一選挙区で一人だけ選ぶ)で特に顕著に現われる。たとえば、次のような選挙区があったとしよう。投票数100とする。

  A候補 30

  B候補 25

  C候補 20

  D候補 15

  E候補 10

 

小選挙区ではA候補のみが議員となる。それは、この選挙区100人中30人の意志しか反映していないが、それ以外の7割の人の意志は無視されるのである。絶対多数すら握っていない「多数決」のウソがここに出現する。

 

では、三人まで選ばれるとしよう。すると、A〜C候補が当選だから、この例の場合は4分の3の民意を反映できるといえる。完璧ではないが、30%より75%のほうがはるかに公平であるとはいえる。

 

だが、この場合、むしろ大政党(A)に不利だ。というのは、30票とったのに1議席。C氏は20票しかとっていないのに1議席もらえるのである。

 

この点、全国区の比例代表制というのが一番公平になってくる。つまり、政党ごとの得票数に応じて議席を分配するというものだ。ただ、これも計算方法によってはごまかしがあるし、また政党単位でしか投票できないという欠点もある。今言われている非拘束名簿式比例代表制にしても、結局は政党単位で集計されるわけだ。

 

代案はこの論の最後に示す。

 

●死票が多いとバンドワゴン効果が生まれやすい

 

あなたは投票のときにこう考えないだろうか。「○○候補に投票したいが、多分落選するだろう。そうすると、この一票はムダになってしまう。当選確率の高いほうに投票しよう」と。これを社会心理学でバンドワゴン効果(勝ち馬に乗るパターン)と呼ぶ。死票が多い選挙制度では、長いものに巻かれるというか、強いところがさらに強くなるという効果が生まれてくる。

 

これと逆の効果としてアナウンスメント効果というものがある。これは、選挙期間中に「楽勝だ」と報道されると、支持者が安心してしまい、投票しなかったりするため、逆転敗北したりするものだ。あるいは「あと一歩のところで苦戦している」という報道があると、支持者は「俺がここで支援しないといけない」と考え、逆転勝利したりする。

 

いずれにせよ、そのような「純粋に民意でない」部分の影響を受ける時点で、このような選挙制度はもはや民主主義のためのツールであることすら不可能になる。

 

●数のゲーム

 

小選挙区に話を戻すと、小選挙区制を導入した大政党は、自分たちが支持を失っても議席数は失わないように操作したわけである。こういう数の操作、パワーバランスのゲームが政党政治の中心部分を占めているため、民意、あるいは国民の福利というものを追究する以前に、単なる数合わせの対決と成り下がっているように思われる。

 

90年代からの政党再編劇などはその典型だ。議員が集まったり分裂したりして、いかに有効に利権を獲得するかを模索し続けている。それは単にシミュレーションゲームとしてなら面白いかもしれないが、国民のためというのは欺瞞にすぎない。ましてや、党の勢力を拡大することが第一義となった政党に、国政を預けるのは危険でさえある。

 

自民党内の派閥の勢力も、要はどっちのナワバリの親分についたほうが当選しやすいか、利権を多く握れるか、閣僚のポストをもらえるか、という数の遊びにすぎない。

 

●我々は首相を選んだことがあるのか

 

日本のような議院内閣制の国では、大統領制の国の大統領より権限は弱いとはいえ、やはり首相(内閣総理大臣)の意向というのは一国の方向性を大きく変えるものである。

 

ところが、日本人は首相を選んでいない。もちろん間接的に選挙の結果として首相が選ばれるのではあるが、それは形骸化している。

 

たとえば、村山首相が登場したとき、自民党に投票した人は村山に投票したのか。そうではない。村山がやめて次は自民党の橋本に移ったとき、社民党に投票していた人はそれを望んでいたのか。そうではない。橋本が参院選に敗れて退陣したのは民意だったかもしれないが、その後を小渕のような人間が後継することを望んであのような投票をしたのだろうか。そうではない。さらに小渕が死んだとき、国民は首相選びに何らかの関与をできただろうか。まったくできていない。

 

これがこの国の「民主主義」の実態である。すべては政党のパワーバランスによってのみ決定されてきた。日本に民主主義はない。それを民主主義と勘違いしていることこそが衆愚と呼ばれるにふさわしいのである。

 

 

■政党制というセット思考

 

●支持政党判定をやってみよう

 

ここで支持政党鑑定をやってみよう。36の政策についてyes/noで答え、その結果が各政党とどの程度一致しているかというものだが、私の場合はこうなる。

鑑定結果:あなたは、特定の1つの支持政党なしと考えます

政策一致率とは、あなたが回答した政策項目の範囲内での政策の一致した割合です。

 

あなたと自民党:政策一致率 = 39%

あなたと民主党:政策一致率 = 78%

あなたと公明党:政策一致率 = 56%

あなたと共産党:政策一致率 = 69%

あなたと自由党:政策一致率 = 64%

あなたと社民党:政策一致率 = 67%

あなたと国民会議:政策一致率 = 78%

あなたと自由連合:政策一致率 = 75%

あなたの政策の不明数 = 0

あなたの政策と最も距離の近い政党の政策が、あなたの政策と一致する割合=78%

 

細かい設問での回答をちょっと変えてみても、私の場合は「民主」「国民会議(中村敦夫)」「自由連合(徳田虎雄)」との相性がいいらしい。だが、それでもせいぜい4分の3が一致する程度である。共産・社民・自由とは3分の2程度、公明党とは半分くらい、自民党とは4割程度しか一致しない。これは、実際に話してみれば「意見がかみ合わない」というレベルである。

 

つまり、私はどこに投票したらいいのか。こうなったら自分党でも作るしかない。

 

●政党制とセット思考の押しつけ

 

このことを私はすでに別の言葉で述べていた。それが「セット思考」だ。セット思考については詳しく述べないので驥尾団子の関連記事を参照してほしい。

 

たとえば「人権を大切に考えろ。人権なんかどうでもいいという奴からは真っ先に人権を奪え」というと、どういうわけか「アカ」(=共産主義者への蔑称)と呼ばれる。だが、人権と共産主義経済・社会体制とは相容れないし、むしろ逆のものだ。共産主義は統制主義なのだから、自由主義の敵(というと言い過ぎだが)ということになる。それにもかかわらず、現代日本では「人権派=アカ」という「セット思考」が堂々とまかり通っている。

 

さらに、「人権派=アカ=非武装中立」なのである、なぜか(笑)。私は個人的には武装中立でいいと思っているのだが、人権と一言言った瞬間に「空想的な非武装理論の持ち主」にされてしまうのがこの国なのだ。ついでにいうと、人権派はなぜか天皇制を目の敵にしているらしい。皇族にも参政権をはじめとする基本的人権を与えよ、と言う人権派はあってはならないらしい。

 

ついでにいうと、私は別に人権派でもないのだけどね。

 

話が脇にそれたが、政党というのはこういうセット思考を押しつける。つまり、綱領という名の政策セットがすでに存在していて、「私は○○党員だから、○○党の綱領のとおりに考えよう」という逆の考えに陥ることがあるといえる。

 

本来は、Aについてはyes、Bについてはno……それが一致する政党はX党だから、私の意見を通すにはX党に投票しよう、となるはずだ。ところが、「俺はY党が嫌いだ。Y党は盗聴法に反対している。だったら俺は盗聴法に賛成する」といった発想が生まれてくるわけである。

 

●セット思考は民意を反映しない。

 

支持政党チェックのように36の項目だけについてyes/noで判定するとしても、2の36乗で687億1947万6736とおりのパターンが出てくる(よくわからない、を除外しても)。ランダムに選んだ二人が完全に同じ選択をする確率は、47垓2236京6482兆8696億4521万3696分の1という天文学的な数値になるのだ。もちろん、ある程度似たような設問もあるわけだからもう少し偏るとしても、主要政党10前後のセットにすべての国民の思考パターンを押し込めようというのがそもそも誤っているわけである。(計算間違いがあったらご指摘ください)

 

さて、ではどうするか。

 

■代案

 

ここまで言ったからには何か代案を示さなければならない。ただ、私の思索レベルではまだ空想的、あるいは妄想に近いレベルでしかないことを白状しなければならない。ただ、方針は示せると思う。

 

とりあえず、民主主義は当面温存するとする(衆愚制からの脱却については別論が必要である)。その場合、私たちは「議員」や「政党」を選ばなければならないという義理はない。私たちは「政策」を決定するために、それを議員や政党にゆだねているだけの話である。ところが、議員や政党は、一つの政策だけをポリシーとして掲げているわけではない。電脳突破党は「盗聴法に反対する」というただ一点を掲げる時限政党として出現したが、わたしが突破党を応援したのはまさに「その政策に共鳴した」からであった。だが、突破党のそれ以外の方針について、私は必ずしも賛成しない可能性が出てくる。

 

たとえば、一つの政策なら、それに賛成するか否かでOKだ。ところが、複数の政策――特に直接の関係のない政策――が出てくると、選択肢が急増する。二つの政策についてそれぞれyes/no/よくわからないという3つの選択肢を許すとすれば、

     1 2 3 4 5 6 7 8 9

 政策A ○ ○ ○ △ △ △ × × ×

 政策B ○ △ × ○ △ × ○ △ ×

という9通りの政党を用意しなければならない。ところが、現実の選択肢としてよくありがちなのは「どちらにも賛成」か「どちらにも反対」という二者択一・対立構造だ。

 

たとえば政党を選ぶとき、ある政策については意見が同じでも、別の政策について意見が異なる場合はどうしたらいいのか。ある議員を選ぶとき、その人の考えることすべてに共鳴するのだろうか。そうではなく、また食い違う政策が同等に重要だと思えるとき、どうしたらいいのだろうか。

 

それは、政策を選ぶのに、議員や政党といった仲立ちを求めるから話がややこしくなるのである。比例代表が非拘束だろうと拘束だろうと、議員・政党というのはすでに政策のセット化された存在なのだから、そこで選ぶ必要はない。

 

ではどうするのか。答えは一つ。政策を直接選ぶのである。

 

全国区で、全有権者による、政策ごとの投票を求めるのだ。盗聴法賛成、盗聴法反対、それぞれ日本国の全有権者が投票するのである。これは「民意」をダイレクトに反映するであろう――衆愚や地域エゴやマイノリティへの多数派「搾取」といった問題については別の方法で解決するしかないが、民意すら反映されない間接衆愚制よりは、この直接衆愚制のほうがはるかにマシである。こうなれば、もしその政策の選択が誤っていたとしたら、その政策に投票した国民自身が悪かったということになるわけだ。

 

今のような政党はいらない。政党のバランスによって政治を動かすような今の方法もいらない。政治家は、政治の専門家として、それぞれの政策の有効性を有権者に解説し、よりよい選択を促すための解説者となればいい。イデオロギー的政党は、議席ではなく共鳴者を増やすために訴えればよい。議論を尽くす場所として国会を残すのには反対しないが、そこはあくまでも議論の場所であって、投票の参考資料を生み出す場である。政治は国民が直接、政策へ投票する。

 

おそらく、ネットワークが普及する未来には、このような政治形態も夢ではなくなるであろう。そして、そのIT革命によって、自民党のような住民エゴ政党は存続しえなくなるのである。