戦争への道;ファシズム

       参考;2・26事件

 15 満州事変−1931〜1936年−

 15−0;概観

張学良らの権益回収をはかる民族運動が高まるなか,日本の満蒙権益は維持が困難となり,さらに1931年には中村大尉事件(日本人立ち入り禁止区域でスパイ活動中の陸軍の中村震太郎大尉が中国兵に殺害された)・万宝山事件(満州に入植した朝鮮人農民と中国人農民とが衝突)など,日中間の紛争が頻発した。

第2次若槻礼次郎内閣(幣原喜重郎外相)による外交交渉では,こうした満蒙問題の解決が進まず,関東軍が暴走して満州事変をおこす。国民はその行動を熱狂的に支持し,内閣や元老西園寺公望・昭和天皇らも,イギリス・アメリカとの衝突に発展しないとわかると,徐々に追認していった。

 

 15−1;満州事変の発端

1931年9月18日、関東軍は奉天郊外の柳条湖で満鉄線路をみずから爆破し(柳条湖事件)、これを中国軍のしわざとして奉天における張学良軍の本拠を攻撃し,満鉄沿線の主要都市を一斉に占領した。そして,第2次若槻内閣の不拡大方針を無視して軍事行動を拡大し,日本の権益がない北満州までも侵攻して満州全土を占領した。満州事変だ。

関東軍がめざしたのは,将来におけるソ連やアメリカとの戦争にそなえて戦略拠点を確保し,同時に国内における国家改造運動の橋頭堡とすることだった。関東軍にとって満州占領は,南満州の既得権益を確保するための手段ではなく,日本の国防体制(軍事的・経済的)の樹立にむけた一つのプロセスだったのだ。

 

 15−1−参;満州事変の経緯

若槻(2)内閣…柳条湖事件(南満州鉄道爆破事件)
        ↓
       満州全土を占領  ←→ 連盟がリットン調査団派遣
        ↓
犬養毅内閣……満州国を建国
         ↓
斎藤実内閣……日満議定書の調印 ←→ 連盟が撤退勧告案を可決
         ↓
       塘沽停戦協定で停戦


  
15−1−2;国際連盟のリットン調査団

中国国民政府の蒋介石は,中国共産党を掃討することを優先させて日本へは不抵抗の姿勢をとったが,日本の行動は九か国条約・不戦条約違反だ!と国際連盟に提訴した。
 これをうけて国際連盟は,イギリスのリットンを団長,連盟に未加盟のアメリカの参加もえて,イギリス・アメリカ・フランス・イタリア・ドイツの5か国によって構成する調査団(リットン調査団)を満州など関係地域に派遣した(ソ連は参加を要請されたものの辞退)。

  15−1−3;満州国の建国

 満州事変のプランを作成した関東軍参謀石原莞爾らは当初,満州を日本へ併合する計画だったが,国際世論への配慮から独立国家づくりへと進む。そして,満州住民の自発的な意思にもとづく新国家建設という形式をととのえるため,清国最後の皇帝溥儀(宣統帝)を国家元首の執政にすえ,1932年3月満州国を建国した(首都は新京[長春から改称]・溥儀は1934年に皇帝に即位)。満州国は「五族協和・王道楽土」の理想を掲げたが,行政の実権は日本人官吏が握り(日本から岸信介ら官僚が派遣された),その任免権を関東軍司令官がもつなど,関東軍の傀儡国家にすぎなかった。
 満州国建国の際,列国の関心を満州からそらすための謀略として,1932年1月日本軍は上海で,買収した中国人に日本人僧侶を襲わせ,この事件を口実に出兵した(第1次上海事変)。中国軍と民衆の抵抗で日本軍は苦戦,イギリスの仲介で停戦し撤兵したが,満州事変勃発により高まっていた日本商品ボイコット運動をさらに拡大させた。

  15−1−1−1−3;日満議定書

 犬養毅内閣が五・一五事件で総辞職したあと,1932年9月斎藤実内閣(内田康哉外相)が日満議定書を締結して満州国を承認し,満州を関東軍の完全な支配下においた。同月に完成したリットン調査団報告書の公表前に満州国を既成事実化しようとしたのだ。

  日満議定書

  満州国の承認
    ↓
  日本の満蒙権益を確保
  日満共同防衛のために日本軍が満州国内に駐屯


  
15−1−1−1−4;国際連盟脱退

 リットン調査団報告書は,関東軍の行動を自衛のための行動とは認めず,満州国も満州住民による自発的なものとは認めなかった。とはいえ,日本の既得権益の擁護を確認し,中国の国権回復運動や日本商品ボイコットを不法とする日本の主張も認めた上で,満州を日本を含めた列国の国際管理下に置くことを提案しており,日本に妥協的な内容だった。しかし,1933年2月国際連盟がその報告書にもとづいて日本軍の満鉄付属地内への撤兵などを求める勧告案を臨時総会(日本全権松岡洋右ら)で42:1(反対1は日本)で可決すると,日本は3月国際連盟から脱退した(斎藤内閣)。
 こののち日本は,イギリス・アメリカ・ソ連など大国との個別的な関係修復により,満州国を取り込んだままで現状維持を実現させ,さらに防共・反共産主義を掲げて新たな国際関係をつくりあげていった。
(4)満州事変の終結 1933年2月日本は内蒙古の熱河省に侵攻したうえで,5月中国国民政府とのあいだに塘沽停戦協定を結び,満州事変を終わらせた。蒋介石は中国共産党の掃討を優先させて日本との対決を避け,満州国を黙認したのだ。

政治史 昭和恐慌のもとでどん底の生活状態にあえぐ国民のなかには,汚職事件を続発させる政党や私利を追求してドル買いに走る財閥など独占資本に対する不満が高まっていた。そうした不満感が,満州事変における陸軍の行動に対する過剰な期待を生み出していた。

  15−2;大正デモクラシーの終焉

  15−2−1;政党内閣の終焉

満蒙権益をめぐる日中間の紛争やロンドン海軍軍縮問題をきっかけとして,陸海軍の軍人や右翼による国家改造運動(ファシズム運動)が高まっていた。政党内閣を打倒,親英米派の元老西園寺公望や牧野伸顕ら昭和天皇の側近グループを排除し,軍中心の内閣を樹立して内外政策の転換をはかろうとする動きだ。満州事変のねらいの一つも,軍事行動を先行させることで国家改造を促進することにあった。

テロ・クーデター未遂事件の続発
・桜会(陸軍軍人橋本欣五郎ら)と大川周明
  クーデター未遂:1931年三月事件→十月事件
・血盟団(日蓮宗僧侶井上日召ら)
  1932年井上準之助(前蔵相)・団琢磨(三井)を暗殺
・海軍青年将校と愛郷塾(橘孝三郎ら)など
  五・一五事件:
1932年首相官邸で犬養毅首相を暗殺

 民政党の第2次若槻内閣は満州事変の勃発と十月事件により動揺,閣内で意見が対立して総辞職においこまれ,政友会の犬養内閣は五・一五事件で総辞職した。
 このように急進派の軍人らの直接行動により政党内閣が動揺をくりかえすなか,元老西園寺公望は,政党では陸海軍の急進を抑えこむことができないと判断,穏健派の海軍軍人斎藤実を首相に推挙し,政党・官僚により「挙国一致」内閣を組織させた。こうして,政党内閣の慣行はわずか8年で崩壊した(憲政の常道の終焉)。

  15−2−2;社会主義勢力の転向

 昭和恐慌のもとで労働運動・農民運動が激化し,共産党の活動も活発になっていた。しかし厳しい弾圧をうけ,さらに1933年獄中の共産党幹部佐野学・鍋山貞親がコミンテルンの指導による国際的な共産主義運動を否認し,天皇のもとでの一国社会主義を主張(転向)すると,共産主義運動から離脱(転向)する人びとが続出し,1935年共産党の組織的活動は停止した。
 無産政党のなかでは満州事変を支持する動きが強く,国家社会主義が台頭する。1932年赤松克麿らが社会民衆党を脱退して日本国家社会党を結成し,同年社会民衆党を中心として結成された社会大衆党でも陸海軍に迎合する動きが強まっていった。
 また,自由主義的な言論の取締りも強まり,1933年自由主義的刑法学説を論じていた京都帝大教授滝川幸辰が斎藤内閣(鳩山一郎文相)により免職になるという事件がおこった(滝川事件)。

  15−2−3;天皇機関説の否認

 斎藤内閣が帝人事件で総辞職したあと,ひきつづいて穏健派の海軍軍人岡田啓介が組閣した。ところが,1935年貴族院で菊池武夫が天皇機関説を反国体的と非難したことがきっかけとなって,在郷軍人会や右翼を中心として国体明徴運動がおこり,内閣を激しく攻撃した。それに屈服した岡田内閣は,美濃部達吉の『憲法撮要』『逐条憲法精義』などを発禁処分とし,国体明徴声明を発して天皇が統治権の主体であることを確認し,天皇機関説を否認した。
 こうして天皇の権限を無制限なものとする憲法解釈が公認されたことで,議会政治の根拠が葬り去られ,統帥権の独立をバネに陸海軍の政治力が拡大するとともに,国民意識の面では,天皇の神格化が進み,自由主義・個人主義をも危険な思想として排斥する傾向が強まった。

国体明徴声明
岡田啓介内閣(1935年)
天皇機関説を否認→天皇が統治権の主体であることを確認

・陸軍勢力の台頭
(1)陸軍の政治進出 満州事変がおこり,テロやクーデター未遂事件が続発するなか,陸軍のエリート官僚(永田鉄山・東条英機・武藤章ら)が,それらを利用して政治における発言力を強化していった。
 国家改造をめざす彼らの構想を示すのが,1934年に陸軍省が発行した『国防の本義と其強化の提唱』(陸軍パンフレット)。国防に最高の価値を与え,国防を目的として国家−政治・経済・思想などすべて−を一元的・合理的に運営しうる強力なシステムを作りあげるアとが構想されていた。つまり,将来におけるソ連やアメリカとの戦争にそなえた総力戦体制(高度国防国家)を築きあげることが,彼らの目標だった。彼ら陸軍エリート官僚は統制派とよばれ,同じ構想をもつ行政官僚(革新官僚と称された)と連携,統帥権の独立を利用し,その拡大解釈を通して総力戦体制づくりをすすめた(上からのファッショ化)。
 なお,陸海軍の統帥権が内閣から独立しているとはいえ,伊藤博文・山県有朋らの元老が健在な頃は,陸海軍は彼らのコントロールのもとにあった。ところが,昭和初期にはそうした政治力をもつ元老がすでに死去しており,陸海軍をコントロールできる政治勢力が(天皇を除いて)存在しなかった。そのため,陸海軍が統帥権の独立を根拠として国家戦略の決定に大きな発言力をもつに至ったのだ(軍部の確立)。
 とはいえ,陸海軍が政治を独裁できたわけではない。天皇が国家運営の最終決定者である以上,天皇やその側近の政治力を排除することはできないし,実際,昭和天皇は国務と統帥の統合者としての自覚をもって情報を集め,判断を下していた。また,首相の選出は元老西園寺や内大臣・首相経験者(重臣)が担っており,これら宮中勢力と陸海軍との対立・妥協のなかで,政治が展開していく。

(2)統制派と皇道派の抗争 陸軍内部は一つにまとまっていたわけではなかった。連隊付きの青年将校のなかには,北一輝の思想的影響をうけ,下からの急進的なファシズム運動をすすめようとする動きがあった。彼らは荒木貞夫・真崎甚三郎らの将官と結んで皇道派とよばれ,陸軍内部の秩序・統制を重視する統制派と対立した。次第に追いつめられた皇道派の青年将校がひきおこしたのが,1935年の相沢三郎による永田鉄山斬殺事件であり,1936年の二・二六事件だ。

経済史 昭和恐慌が深刻化するなか,積極財政への転換を求める声が高まり,さらに世界恐慌により経済破綻に瀕したイギリスが1931年9月金本位制から離脱するや,日本の金輸出再禁止をみこしたドル買いがさかんにおこなわれて正貨が激しく流出し,金本位制維持は困難となっていった。また,同月の満州事変勃発は軍事費の増大を不可避なものとし,井上準之助蔵相の緊縮財政は破綻に追い込まれていった。

・高橋財政
(1)金輸出再禁止 1931年12月立憲政友会の犬養毅内閣(高橋是清蔵相)は,組閣後ただちに金輸出を再禁止し,さらに金兌換を停止した。こうして日本は,正貨(金)保有高に通貨発行額が制限される金本位制から離脱し,正貨(金)保有高には関係なく政府の人為的な政策によって通貨発行額を調整する管理通貨制度に移行したのだ。
 そして高橋蔵相は,赤字公債を発行して日本銀行に引き受けさせ,それを財源とする積極財政を展開した。軍事費を増大して満州事変の戦費を確保するとともに,それによって軍需関連の民間需要を拡大させて景気を刺激したのだ。さらに円為替相場の下落を容認し,円を低い水準(1ドル≒3円強)で安定させる低為替政策をとって輸出に有利な条件を確保,他方では輸入関税を引き上げる保護政策も実施した。

高橋財政(犬養・斎藤・岡田内閣)
(a)目的 昭和恐慌からの脱出・満州事変の戦費の確保
(b)内容 金輸出再禁止→管理通貨制度へ移行
      積極財政:軍事費の増加 →重化学工業の発達
      低為替政策       →綿織物を中心に輸出拡大

(2)恐慌からの脱出 昭和恐慌のもとで産業合理化をすすめていた諸産業は,円為替相場の下落によってさらに国際競争力を高め,輸出を拡大した。なかでも綿織物は,1933年イギリスを抜いて輸出世界第1位となった。こうして積極財政による国内需要の拡大と輸出増進とによって景気が回復し,1933年には世界にさきがけて恐慌から脱出したのだ。
 とはいえ,農村の復興は遅れた。そこで,斎藤実内閣のもと,農村に雇用機会をつくりだすために時局匡救費が設けられて土木事業がおこなわれる一方,農山漁村経済更生運動により産業組合が奨励され,農村経済の自力更生が図られた。また,満蒙開拓計画にもとづく満州への移民政策も始まる。これは農村の過剰人口への対応策でもあったが,日本人人口を増やして治安維持をはかるための政策であり,入植地の多くは先住の中国・朝鮮人農民から安く収用された耕地だった。
(3)産業構造の転換 軍事費の増加にともない,重化学工業が発達して繊維など軽工業の生産額を上回り,日本経済は重化学工業中心の産業構造へと転換した。新興財閥が陸軍と結んで満州や朝鮮へ進出して満州・朝鮮の重化学工業化が進み,三井・三菱などの既成財閥も重化学工業部門を強化していった。

重化学工業の発達
新興財閥 日本産業(日産・鮎川義介) →満州へ進出
     日本窒素肥料(日窒・・潤Ej→朝鮮へ進出
日本製鉄…官営八幡製鉄所を中心に官民大合同(1934年)

 なお,重化学工業の発達にともなってアメリカからの屑鉄・石油・などの輸入が増え,アメリカへの経済的な依存度がさらに高まった。
(4)イギリスとの貿易摩擦 低賃金と低為替を利用してインド・東南アジアなどイギリスの植民地圏へ輸出を拡大したことは,イギリスとの貿易摩擦を招いた。イギリスは,日本が賃金カットなどで商品価格を不当に引き下げている(ソーシャル・ダンピング)と非難し,関税率の引き上げなどの対抗措置をとったのだ(ブロック経済圏の形成)。
 すでに1920年代後半から中国で日本商品ボイコット運動が激しくなって日本は中国市場から大きく後退していたが,それに加えてイギリス経済圏の障壁につきあたって市場拡大がむずかしくなったのだ。
 こうして国際協調体制の基礎としての自由貿易システムが次第に機能しなくなっていった。日本はアフリカや中南米へとさらに市場を拡大させていったが,1936年には,輸出がついに頭打ちになっていく。そのため日本は,日本と満州国による日満経済ブロック(円ブロック)が形成していくとともに,華北への経済進出を確保するため,軍事力を背景とする華北分離工作を本格化させていった。

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16 日中全面戦争の開始 −1936〜39年−

政治史 二・二六事件をきっかけとして陸海軍の発言力が飛躍的に高まり,総力戦体制(高度国防国家)づくりが始まる。

 
16−1;二・二六事件 ;  <注>2・26事件

1936年2月26日、
陸軍皇道派の青年将校が多数の兵を動員して首相官邸や警視庁などを襲撃し,斎藤実内大臣・高橋是清蔵相らを暗殺,鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせた(二・二六事件)。陸軍内部での統制派との抗争のなかで次第に追いつめられていった彼らが,皇道派政権の樹立・北一輝『日本改造法案大綱』の具体化をめざして武装蜂起したのだ。
 しかし,組閣交渉をゆだねた真崎甚三郎らとの連係がうまくいかず,さらに昭和天皇が即刻鎮圧の姿勢を明確にしたため,クーデターは失敗に終わった。首謀者の青年将校と彼らに思想的な影響を与えた北一輝らが銃殺に処せられ,真崎甚三郎ら皇道派の将官が陸軍から一掃された。

16−2;総力戦体制づくりの開始

(1)広田弘毅内閣

 二・二六事件の鎮圧後,岡田内閣が総辞職し,広田弘毅内閣が成立した。それに対して陸軍は,事件の威圧効果を利用して発言力を強め,軍部大臣現役武官制を復活させた。陸海軍の同意がなければ内閣が成立・維持できない状況が再びおとずれたのだ。
 広田内閣は,1936年8月「国策の基準」を策定し,ソ連の脅威排除・南方への漸進的な進出・日満中3国提携の実現などの方針を掲げた。ソ連への対抗に重点をおきつつも,南方進出(南進)をはじめて国策として提示したのだ。そして,ソ連軍に対抗できる陸軍軍備とアメリカ海軍に対抗して西太平洋の制海権を確保できる海軍軍備をめざして大規模な軍拡予算を組み,総力戦体制(高度国防国家)づくりに着手した。
(2)政局の混迷 1937年1月広田内閣が政党との対立から総辞職するニ,元老西園寺公望は陸軍軍人宇垣一成を首相に推挙して陸軍の勢力抑制を企てたが,陸軍が陸相を出さなかったために組閣に失敗した。そのあと,陸軍軍人林銑十郎が組閣し,軍部と財閥との協力体制をつくりあげたものの(軍財抱合),これも政党との対立から短命に終わった。急テンポな軍備拡張が国民のなかに反軍的な気運を引き起こしていたのだ。
 こうしたなか,軍部・政党・元老西園寺など,さまざまな政治勢力の錯綜する期待を担って,1937年6月貴族院議長近衛文麿が内閣を組織した。

外交史 政治・戦争にわたる統一した指導体制が存在しないまま,日本は目的と展望のない中国侵略戦争へとずるずると突入していく。もともとはソ連の脅威排除を掲げていたはずが,なし崩しで中国との全面戦争へと移行してしまい,さらにイギリス・アメリカとの対決へと焦点がズレていったのだ。

・国際協調体制の崩壊

 広田内閣が成立した前後は,国際協調体制がくずれ,相互に軍事的な緊張をはらみながら新たな国際関係へと転換していった時期だった。

国際協調体制の崩壊
(1)ワシントン・ロンドン海軍軍縮条約の失効
 1936年末に両条約が失効→無制限な海軍拡張へ
(2)日独防共協定
 1936年広田弘毅内閣:ソ連・コミンテルンに対する共同防衛
 →1937年日独伊三国防共協定(第1次近衛文麿内閣)
(3)華北分離工作
 1935年梅津・何応欽協定→冀東防共自治政府の樹立
 →広田内閣:華北5省の分離を計画 ←→ 西安事件(1936.12)


 国際連盟を脱退した日本は,ソ連の脅威排除(防共)を掲げて新たな国際関係づくりへと進み,広田内閣が1936年日独防共協定を結び,ドイツとの提携関係に入った。ドイツはナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)が政権を掌握し,国際連盟から脱退してヴェルサイユ体制の打破をめざしており,ここに国際的なファシズム陣営(枢軸陣営)が成立した。
 さらに日本は,防共を掲げて華北へ進出していた(華北分離工作)。満州で抗日運動を展開する共産党ゲリラの根拠地を殲滅し,あわせて鉄・綿花などの資源に富む華北を日本の経済ブロックにとり込むことをねらったのだ。その足がかりとなったのが,塘沽停戦協定で非武装地帯に設定された河北省東部だ。国民政府による中国統一を嫌った支那駐屯軍は,排日運動を理由に1935年梅津・何応欽協定を結ばせて河北省から中国軍を撤退させ,河北省東部の非武装地帯に冀東防共自治政府をデッチあげた。そして日本からの大規模な密貿易を公認させ(アヘンの密売もおこなわれた),中国の関税収入を激減させた。さらに広田内閣は,華北5省を中国国民政府から切り離して日本の支配下に置く計画を進め,支那駐屯軍の兵力を増強した。
 こうした日本の策動は,中国の主権を侵害し,中国における統一国家づくりを妨害するものでしかなく,中国の抗日気運を高めた。そうしたなかで,1936年12月西安事件がおこった。中国共産党の掃討を督励にきた蒋介石を張学良が軟禁し,国共内戦の停止・一致抗日を強要したのだ。

・日中全面戦争の開始

(1)発端 1937年7月7日北平(北京)郊外の盧溝橋で夜間演習をしていた支那駐屯軍の一部隊が中国軍から銃撃をうけ,それをきっかけとして日中両軍が交戦した(盧溝橋事件)。11日には現地で停戦協定が成立したが,同じ日に第1次近衛内閣は華北への派兵を決定し,北支事変と称した。陸軍中央のなかには事態の拡大に反対する動きもあったが,これを機会に中国に一撃を加えておけば抗日運動をおさえこむことができるだろうと安易に判断する強硬派の意見が通ったのだ。
(2)全面戦争への展開 8月第2次上海事変がおこって戦争が華中へ拡大すると,近衛内閣は全面戦争への突入姿勢を明確にし,9月北支事変を支那事変と改称。それに対して,中国では国民政府・共産党が第2次国共合作を結んで抗日民族統一戦線を成立させ,徹底抗戦した。

日本の中国侵略
≪満州事変≫       ≪日中全面戦争≫
 柳条湖事件(1931.9.18)  盧溝橋事件(1937.7.7)
 ↓←第1次上海事変    ↓←第2次上海事変
 満州国建国        全面戦争へ発展 ←→ 第2次国共合作


 こうして相互に宣戦布告がないまま,日中全面戦争が始まった。日本が宣戦布告をしなかったのは,宣戦布告をすればアメリカが中立を宣言し,アメリカからの軍需物資の輸入がストップすることを,とくに陸海軍が恐れたからだ。
 このように「戦争」であることを公式には認めなかったとはいえ,陸海軍の共同作戦の必要性から大本営が宮中に設置された。戦争を遂行するための作戦司令部だ。ただし,日清・日露戦争時には首相・外相などの文官が大本営に出席していたが,今回は統帥権の独立をタテにした陸海軍の反対で首相ら文官は列席できなかった。
(2)南京占領

ドイツが日中間の和平交渉を仲介していたが(トラウトマン和平工作),近衛内閣は1937年12月首都南京を占領するや,昭和天皇の支持のもと,陸軍参謀本部の反対をおしきって和平交渉を打ち切った。翌38年1月「国民政府を対手とせず」と声明し(第1次近衛声明),南京から重慶へと首都を移して抗戦を続ける蒋介石の国民政府を否定して,親日派による新しい中国政府の育成へとむかったのだ。

 なお,南京占領に際し,日本軍は投降兵や捕虜の中国軍兵士を殺害(国際法に違反),非戦闘員を含めて多数の中国人を虐殺して,国際的な非難をあびた(南京虐殺事件)。また,日本軍人による中国女性への強姦も多発したため,日本軍の指示により管理売春施設(慰安所)が開設された。動員された従軍慰安婦のなかには,だまして連れてこられた朝鮮人女性や日本軍の占領地で徴発された中国人女性が含まれていた。さらに,日中戦争のなかで日本軍は,国際法で禁止されている毒ガス(化学兵器)を使用しており,731部隊(関東軍防疫給水部の通称)などで細菌兵器の研究・製造をおこなっていた。
(3)戦争の長期化

 日本軍は,1938年秋までに中国の主要都市と交通路を占領したものの,軍事動員が限界に達して持久戦の様相を呈した。
 短期決戦の思惑が外れた近衛内閣は対中政策を転換し,11月日本の戦争目的は日満支(中)3国提携により東アジアに新秩序を建設することだと声明し(東亜新秩序声明=第2次近衛声明),国民政府との和平交渉の可能性を示唆した。
 その結果,中国国民党の実力者汪兆銘を重慶からハノイに脱出させることには成功したものの,汪への同調者は少なく,戦争を終結させることはできなかった。

近衛声明
・国民政府を対手とせず声明(1938.1)…国民政府と絶縁
↓←戦争の長期化・持久戦化
・東亜新秩序声明(1938.11)…日満支(中)3国提携を主唱
↓←汪兆銘が親日政権樹立のために重慶から脱出
・近衛三原則声明(1938.12)…善隣友好・共同防共・経済提携を提唱


(4)日米関係の悪化

 イギリス・アメリカは当初,日本との関係悪化を嫌って日中戦争に介入する姿勢をみせなかったが,日本が東亜新秩序建設を声明した際に東アジアからの欧米勢力の駆逐を掲げたことは,ワシントン体制を完全に否定するものとしてイギリス・アメリカを刺激した。とりわけ,1939年日本が抗日運動の拠点とみなして天津の英仏共同管理の租界を封鎖すると,アメリカが日米通商航海条約の廃棄を通告した。イギリスが日本との妥協に傾きがちなことを危惧したアメリカが,日本に対する直接的な行動にでたのだ。通商条約が失効すれば,石油・鉄などの軍需物資の大半をアメリカに頼る日本にとって致命的な打撃となることは確実だった。

・ソ連との軍事衝突

 満州事変以降の日本外交の一つの軸は,極東におけるソ連の脅威を排除することだった。そのため,ソ連との局地的な軍事衝突がしばしばおこっていた。なゥでも,1939年満州国とモンゴル人民共和国との国境で展開されたノモンハン事件では,関東軍が陸軍中央の制止を無視して戦闘を強行し,ソ連軍・モンゴル軍により壊滅的な敗北を喫していた。

ソ連との軍事衝突
張鼓峰事件…1938年第1次近衛文麿内閣・満州とソ連の国境紛争
ノモンハン事件…1939年平沼騏一郎内閣・満州とモンゴルの国境紛争


政治史 国民は戦争遂行にとって重要な人的資源だ。だからこそ,政府は,国民から自発的な戦争協力を引きだそうと努めた。植民地の朝鮮や台湾でも,皇民化政策とよばれる徹底した同化政策が展開された。

・国民の総力戦体制への動員

(1)国民精神総動員運動の開始

 日中戦争の開始にともない,1937年第1次近衛内閣は国民を戦争に動員するため,国民精神総動員運動を展開した。挙国一致を強調して戦争批判を圧殺,尽忠報国を掲げて戦争での犠牲を正当化,堅忍持久の名のもとに生活規制がはかられ,節約や貯蓄奨励が叫ばれた。そして,運動の末端組織として町内会・部落会・隣組の整備が進められた。これと並行して,労働組合の解散とともに産業報国会が組織されて労資一体による戦争協力が推進された。
 戦争に非協力的だったり,戦争遂行の妨げになると判断された思想・学問への弾圧も厳しくなる。1937〜38年にかけて,鈴木茂三郎ら日本無産党,大内兵衛ら非共産党系(労農派)の社会主義経済学者などがコミンテルンの指令で反ファシズム人民戦線を結成しようとしたとの理由で逮捕され(人民戦線事件),植民地政策の研究者で日中戦争における戦争政策への批判を発表した東京帝大教授矢内原忠雄やファシズム批判を展開していた東京帝大教授河合栄治郎などが弾圧をうけた。

明治〜昭和戦前期の学問弾圧

明  久米邦武…論文「神道は祭天の古俗」→1892年
治  喜田貞吉…1911年小学校の日本史教科書で南北朝正閏問題

大  森戸辰男…無政府主義者クロポトキンの研究
正       →1920年(原敬内閣)

   滝川幸辰……自由主義的な刑法学説→1933年(斎藤実内閣)
昭  矢内原忠雄…植民地政策や戦争政策の批判→1937年
   河合栄治郎…ファシズム批判→1938年著書が発売禁止
和  津田左右吉…古事記・日本書紀の神話の研究
         →1940年著書が発売禁止(皇紀2600年式典の年)


(2)植民地での皇民化政策

 朝鮮・台湾では朝鮮人・中国人を完全な「皇国臣民」に同化させ,日本人として戦争協力体制に組み込むため,皇民化政策が進められた。とりわけ朝鮮では,「私共ハ大日本帝国ノ臣民デアリマス」などからなる「皇国臣民の誓詞」が制定されて学校や職場で日常的に斉唱することが義務づけられ,神社参拝や学校での朝鮮語の使用禁止・日本語の常用が強制された。さらに1940年には創氏改名が実施され,朝鮮の伝統的な姓名・家族制度(家系重視・夫婦別姓)を日本式の姓名・家制度(家重視・夫婦同姓)に変更された。

経済史 総力戦体制が本格化するなか,戦争遂行を目的として経済・社会を統制的・効率的に運営するシステムの確立が必要となってくる。

・戦時統制経済への移行

 1937年第1次近衛内閣は,統制経済を進めるために内閣直属の官庁として企画院を設置した(革新官僚や陸海軍官僚が参加)。そして企画院の立案により,1938年度から軍需産業への物資の優先配分を目的とする物資動員計画を作成し,さらに同年10月国家総動員法を制定した。
 この法律が成立したことによって,政府は議会の承認なしに人的・物的資源を統制運用する権限を獲得し,さまざまな勅令をつぎつぎと発令して労働力・物資・資金・施設・報道メディアなどあらゆるものを戦争へと動員していった。他方で,衣料・食糧など生活必需品が不足し,配給制・切符制がしかれて消費を制限され,国民生活は圧迫をうけた。

国家総動員法
1938年10月第1次近衛内閣が制定 ←企画院が立案
内容…戦時(事変の場合を含む)に際し,政府が勅令により人的・物的資源の統制運用をおこなうことができる

国民徴用令……1939年・一般国民を軍需産業に動員(平沼内閣)
価格等統制令…1939年・物価の据置きを命令(阿部信行内閣)