日本赤軍の女帝重信房子     週刊現代001116発行

本誌・週刊現代だけが知っている逃亡29年、ついに逮捕

「血と銃弾と愛欲の1万日」を明かす!

 

■実質的な拠点は北京に置いて

■ゲリラに守られ市内を闊歩

■“飼い殺し”状態だった赤軍メンバー

■長女はソルボンヌ大学に留学

 

「ブントのマタハリ」「テロリストの女王」といわれた伝説の美女闘士“重信房子”が日本に潜入帰国していた! 驚愕する国民を後目に、逮捕された重信容疑者は、護送される際、手錠をかけられた手を高々と上げた。パレスチナゲリラとともに闘った壮絶な「革命人生」の裏にかくれた素顔のすべてを明かす。

 

 

実質的な拠点は北京に置いて

  「重信は来年日本に帰ってくるよ」

 日本赤軍の支援者A氏は、一昨年('98年)、ある団体の忘年会の席上、こう明言したという。出席者が、驚きながら「どうやって?」と質問すると、A氏は、

「偽造パスポートを使えばわけない。偽造でなくとも、同じ年格好で見分けのつきにくい人は結構いるものだ。そういう人間のパスポートを使えば難しいことではない」

 と、自信満々に答えた。

 日本赤軍最高幹部、重信房子容疑者(本名=奥平房子)の突然の逮捕劇は日本中をあっと驚かせた。が、すでに2年前に、潜入帰国はごく近い人々には通達されていたのである。

 重信容疑者は11月8日朝、大阪府高槻市内のホテルを支援者の男性2名と出てきたところを逮捕された。

「今年7月下旬、大阪府警本部に、『重信房子に似た女がいる』というタレコミがあった。赤軍内部からの情報だ。高槻は'70年代に赤軍派の拠点があったところで、現在でも支援者が多い。中でも市内のB病院は、職員のほとんどが日本赤軍の支援者で、一大拠点となっている。この病院関係者の住まいや寮、関連施設などをしらみ潰しにあたっているうちに、アジトに出入りする中年女性を発見した。最初は重信とわからなかったが、写真や指紋をとり、前日までにようやく確認がとれ、逮捕に踏み切った」(公安関係者)

 やはり支援者の一人である関東在住のC氏によれば、

「重信が帰国しているという噂は、今年の夏前から、一部新左翼関係者の間で囁かれていた」

 というから、情報が警察に漏れるのは時間の問題だった。

 重信容疑者が潜伏していた大阪市西成区のアパートには、本人の顔写真が貼ってある別の日本人名義のパスポートやノートパソコン、フロッピーディスク、携帯電話数台などが残されていた。アパート、ホテルとも支援者名で借りてあった。中東情勢に詳しいジャーナリストが言う。

「中東の日本赤軍は、岡本公三がイスラエルでの13年にわたる獄中生活で精神を病み、ベイルートで一斉拘束された他の4人も今年3月に国外強制退去ののち送還されて逮捕された。もう実質的には彼女一人しか残っていないような状態でしたから、生きていくので精一杯だったようです」

 警視庁に移送された重信容疑者に接見した弁護士によると、重信容疑者は、

「やり残した仕事がたくさんあり残念だが、日本で皆さんに会えることを楽しみにしている」

 と話したそうだ。このコメントには“望郷”のニュアンスも感じられる。重信容疑者は、9月末に香港から関西国際空港に着いており、それ以前にも、中国、マカオなどを転々とし、日本にも過去3年間で4回入国した記録があるという。

「最近の重信の拠点はもはや北京といっていいほどだった。今年2月には、アラビア石油がサウジの油田採掘権の再契約に失敗した件を材料に、自分のコネクションを通じてサウジ王家と交渉できることをアピール。それを取引材料に政府に働きかけて帰国を実現しようと画策した。水面下では、何度かそうした交渉があったのです」(元公安調査庁調査第二部長・菅沼光弘氏)

「日本赤軍の女帝」重信房子容疑者は55歳。'71年に日本を出国し、レバノンに渡ってから29年になる。血と銃弾に彩られた彼女と日本赤軍の軌跡を簡単にたどっておこう。

 日本赤軍の前身ともいえる共産主義者同盟(ブント)赤軍派が結成されたのは'69年。その後、赤軍派のメンバーは3つに分かれていく。

ひとつは'70年、日航機「よど号」乗っ取り事件を起こし北朝鮮に亡命した田宮高麿ら9人のグループ。重信容疑者が奥平剛士と偽装結婚してベイルートへ出国した翌年の'72年2月には、日本では「連合赤軍」が「浅間山荘」に立てこもり、警察と銃撃戦を展開。凄惨なリンチ殺人事件を起こしていたことが発覚し、国内の赤軍派は事実上壊滅する

 そして残る一つが重信容疑者ら中東を拠点とした「日本赤軍」だ。彼らは'72年5月30日に岡本公三容疑者(52歳)らが、イスラエル・テルアビブのロッド空港で乱射事件を引き起こしたことをきっかけに地下に潜り、'74年に「日本赤軍」を正式に名乗る。重信容疑者は、その最高機関・政治委員会のリーダーに就任した。

 その後、日本赤軍は、PFLP(パレスチナ解放人民戦線)と共闘し、レバノン・ベカー高原を拠点に、オランダ・ハーグやマレーシア・クアラルンプールの大使館占拠事件、日航機をハイジャックしたダッカ事件など、国際テロ事件を次々に起こし、世界にその名を轟かせた。

 

“飼い殺し”状態だった赤軍メンバー

 が、'97年にテルアビブ空港乱射事件の唯一の生き残りで、パレスチナ人民から英雄視されていたはずの岡本公三容疑者ら5人のメンバーが、潜伏先のレバノンで逮捕される。全盛期に30人といわれたメンバーも逮捕が相次ぎ、中東情勢の変化もあって、組織は衰退の一途をたどった。

 中東問題の専門家である拓殖大海外事情研究所・佐々木良昭教授がいう。

「日本赤軍にかつてのような戦闘能力はなくなっている上、中東の情勢がその存在を許さない環境になっている。パレスチナにとっても、いまや赤軍は邪魔でしかなくなっていたし、シリアも大統領が代わって対日政策が変わりつつあり、赤軍は居場所がなくなっていた。先に逮捕された赤軍メンバーの丸岡修服役囚(50歳)のしまりのない体型を見ても、もはやコマンド(=ゲリラ戦闘員)のそれではなかった。彼らは日本へ帰る以外に行き場所がないんです」

 こうした中で重信容疑者は、日本の支援者に書簡を出したり、声明を出すなどプロパガンダに努めてきたが、武装闘争を手段とするテロリストの側面はなくなっていった。

'72年以来、テルアビブ乱射事件の日(5月30日)に、毎年、重信は『5・30声明』を出し続けてきたのですが、'95年には“武装闘争は誤りである”という声明を出し、この年にはベカー高原の拠点を引き払って、ベイルート市内のアパートに身を寄せるようになっていた。彼女はPFLPの幹部と結婚しているから、それなりの待遇ではあったようだが、もはや飼い殺しに近い状態になっていたようだ。現に今回の逮捕でもPFLPからは何の声明も出ていない。いかに日本赤軍との縁が薄くなっていたかの証拠でしょう」(全国紙外報部記者)

 また、支援者に、「湾岸戦争後、CIAの圧力が強くなったため、東南アジアに活動の拠点を移すつもりだ」とも語っていた。関西の左翼系新聞「人民新聞」の編集主幹は、今回の逮捕をこう見る。

「いくら組織支援とはいえ、重信が報道のように小規模の会議にのこのこ出てくるとは信じがたい。最近、彼女は、うちの新聞に、『銃による平和はもうたくさん』などと、大衆闘争路線への転換を示唆するようなリポートを寄せている。日本国内に拠点を移し、公然活動に入るための、覚悟の逮捕ではないか」

 多くのテロ事件に関わったとされる重信容疑者だが、いずれも実行犯ではない。日本赤軍のメンバーが次々に逮捕されていく現状のなかで、比較的罪の軽い重信容疑者が帰国して“みそぎ逮捕”され、公然の存在となって新たな活動を続けようとしていたのではないか、というわけだ。

 しかし、9日にはこうした重信容疑者の思惑を裏切るかのように、警視庁はハーグ事件での殺人未遂容疑で彼女を再逮捕している。

 

 

ゲリラに守られ市内を闊歩

  およそ30年間にわたって世界を騒がせてきたテロリスト・重信房子容疑者の素顔とはいったいどのようなものなのか。

 終戦の年の'45年、東京・世田谷で重信容疑者は生まれた。父親は鹿児島出身で、若いころは、右翼組織「血盟団」のメンバーだったという。食料品のよろず屋を営んで、生計をたてていた。重信容疑者の手記『わが愛わが革命』(小社刊)には以下のようなくだりがある。

'67年の羽田闘争のあとだったと思う。泥まみれになって帰った私に、父が言った。

「房子、今日の闘争はよかった。だけど、あれには、人を殺す姿勢がないな」

……父はつづけた。

 二・二六事件にしても、血盟団にしても、歴史はあとで右翼とか何だとかいうが、われわれは正義のためにやったのだ。政治家が腐敗していたから、われわれが権力を変えて、もっと人民がうるおえる社会にしたいと思ってやったのだ。房子は、いま左翼だといわれているけれども、とにかく自分が正義だと思うこと、それだけをやれ!〉

 重房容疑者の“革命家”としての下地は、父親によって育まれたのかもしれない。高校卒業後、キッコーマン醤油に就職。1年後、明治大学の二部に入学する。OLのかたわら、夜間大学に通うようになり、ここで大学紛争に出会うのである。

 気さくな美人活動家として学内で知られた存在だった彼女には恋の噂も多かった。大学時代には婚約までしていたという。相手は地方の名家出身で2〜3歳上の早大生だった。それでも、

〈あいかわらず彼は、私の手も握らない。会うたびに、この間別れたときから、今日まで何をしてたか、そんな話と討論に時間が過ぎていく〉(同書)

 が、彼は暴力的な学生運動には無縁だった。一方、彼女はどんどんのめり込み、やがてバリケードの中に泊まり込むようになる。そして1年後、彼女の方から別れを告げた。闘争に明け暮れる生活はOLと両立しなくなり、会社も辞めた。そんなとき、

〈突然、職業革命家になろうと決心していた〉(同書)

 いわば、彼と別れた傷心の中で“女革命家”が誕生したのである。この手記を構成した脚本家・佐々木守氏が当時を振り返る。

「大学の先輩後輩でもあった僕と彼女が知り合ったのは、'70年安保の真っ最中。新宿の左翼学生がたむろする、酒場みたいなところで話すようになったのがきっかけです。そういうところに出入りする女子学生というのは、マルクスとかを一生懸命勉強している生真面目な女性ばかりでしたが、彼女は、『この前、守さんがやったテレビ見ましたよ』と話しかけてくれた。人を見て対応する能力に、実に優れていた。それはベイルートで会っても変わりませんでした。生来の天真爛漫さ、ほがらかさで、自然とまわりの人間を楽しませてくれる明るさが、他派に比べて日本赤軍という組織が長く続いた原因の一つではないでしょうか」

 前出・佐々木教授がいう。

「重信房子の存在というものは、日本赤軍にとって一種、精神的なよりどころだったのだと思います。当時、日本の左派は、内部で盛んに粛清していました。赤軍に参加した20代の若者にとっても、生きづらい危険な状態が続いていたわけです。そんな中で彼女は、たどたどしい言語を使ってパレスチナとコンタクトをとり、ときに自分の体を張った行動で信頼を得て、PFLPと渡りをつけた。メンバーにとっては、彼女は、母であると同時に、姉であり、妹であり、恋人でもあるような存在だったのだと思います。今ではさすがに美貌もおとろえていましたがね」

 前述のように、レバノンに渡ったのは'71年。すでに2回の逮捕歴がある重信容疑者がパスポートを申請すれば、公安側に筒抜けになる。名字を変えるための偽装結婚が必要だった。

〈わたしはあせった。あせりながら結婚の相手を探した。……ある日、わたしはついに決心して奥平君を訪ねた。『やっぱりあんたの名前借りるわ』。そしたら奥平君は、ぴくっと顔を上げて、照れたように笑っていった。『ああ、それでもいいよ』。それがわたしたちのプロポーズであり、婚約であり、結婚式であり、要するに、男と女が結婚するためのすべてであった〉(同書)

 当時、レバノンで日本レストランを経営していた女性Dさんは、重信容疑者の印象を、

「迷彩をほどこした野戦服にカラシニコフ銃のパレスチナゲリラを引き連れて、颯爽とハムラ通り(メインストリート)を歩いていた。かっこ良かったですね」

 と言う。かつて「ブントのマタハリ」とよばれ、美人闘士として名をはせた彼女の絶頂の頃である。しかし'72年には夫の奥平剛士は、テルアビブ空港乱射事件で自爆して死亡。それまで公然と活動をしていた重信容疑者も地下活動へと突き進んでいった。

 

長女はソルボンヌ大学に留学

 その後、重信容疑者は、PFLPの幹部と結婚、2児をもうけた。

「私は彼女の夫に2〜3回会ってますが、長身でスマート、役者にしてもいいような美男子です。2人の子供はパレスチナの難民キャンプで生活してました。長女は優秀で、パリのソルボンヌ大学に入り、さらに大学院まで進みました。もう30歳近いんじゃないでしょうか。次女もソルボンヌに進学したと伝え聞いたことがあります」(重信容疑者と交流のある都内の元書店経営者)

 2人の娘が成人したことも、重信容疑者が帰国を決意した理由ではとみる関係者もいる。

 さて、重信容疑者の逮捕で、今後、日本赤軍はどうなるか。

「はっきりしているのは、赤軍の中東における使命が、完全に終わったということです。赤軍はこれまでベカー高原を拠点にし、シリア支配下にいたが、保護者たるアサド大統領が死去。加えてアラブ情勢が大きく動いて、イスラエルの力が増大した。モサド(イスラエル中央情報局)は彼女たちの動きを逐一把握しており、昔のようなゲリラ活動は不可能です。しかも、シリアは日本との間で経済上の取引があり、その利害を連動させて日本赤軍の扱いを考えるはず。注目されるのは、重信が表面上は黙秘でも、何をどこまで話すか、どんな取引材料を持ち出すかでしょう。ハーグ事件などに関与したといっても、彼女は実行犯ではないから、それで起訴できるかどうかも予断を許さない。はっきりしているのは旅券法違反など軽いものだけなので、その面でもまだ流動的です」(前出・菅沼氏)

 21世紀を獄中で迎えることになった日本赤軍の女帝は、何を思っているのか。テロを指導して世界を恐怖のドン底に陥れた罪が重いことは言うまでもない。