ひょうご再発見(41) IHI第1修理ドック 相生市
2006/12/28 神戸新聞


 船を癒やし 国支える

 相生湾沿いに広がる石川島播磨重工業(IHI)相生事業所の施設群。そこに、日中戦争のさなかに完成した第1修理ドック(船渠(せんきよ))がある。水やガスなどの配管が幾重も巡り、巨大なクレーンが周囲にそびえる。

 長さ238メートル、幅35メートル、深さ9メートル。40,000トン級の船も入渠できる。修理の際は、まず船を海からドックに入れ、門を閉めて排水する。底には、盤木(ばんぎ)と呼ばれる木とコンクリートでできた塊を、図面をもとにあらかじめ配置。それらで船体を支え、修理が行われる。

 国防強化の声が高まった昭和初期、軍需産業の伸びとともに造船業は活気づいた。IHIの前身、播磨造船所でも海軍艦艇の修理や商船の新造が増え、1938(昭和13)年、この国内屈指の大型ドックができた。加えて小型艦船用のドックも完成し、大小の船が量産された。  

 戦後、同造船所の名を高めたのが日本水産の捕鯨母船・第三図南(となん)丸(約19,000トン)の修復だ。貴重な栄養源である鯨の捕獲量増加のため大型船が必要だったが、連合国軍総司令部は新造船の規模を制限。そこで戦時中にトラック島(現・ミクロネシア連邦)で爆撃され沈没したこの船が注目された。51(同26)年、同造船所は引き揚げに成功し相生へ曳(えい)航。船はこのドックでよみがえり、日本人の食生活を支えた。

 図南丸に詳しい姫路市の医師、八木正宏さん(70)は「当時の金額で10数億円を費やした大事業。半年間で修理を終えたのは、溶接などの高い技術力を裏付けている」と話す。

 62(同37)年から3年間、工場別の艦船建造量で相生工場は世界一に。70年代に入ると造船不況に見舞われ、87(同62)年に新造船部門が撤退。90(平成2)年から関連会社が造船・修理を再開した。時代が移り変わる中、事業所内に現存する最古のドックは、昔も今も変わらず船を迎え、癒やし、送り出す。

(写真・文 三浦拓也)

<相生と造船業>

 漁村だった相生の地に1907(明治40)年、唐端清太郎村長らが阪神間の資本家から出資を受けて播磨船渠を創業。16(大正5)年、播磨造船所に改称、新造船部門へ本格参入した。60(昭和35)年、石川島重工業と合併して石川島播磨重工業に。現在は関連会社アイ・エイチ・アイ・アムテックが新造船や船舶修理を行っている。


【とんび岩のコメント】

 図南丸の文字が懐かしい。子供のころ、遠洋航海を終えて修理にもどった姿を何度も見に行った。とんび岩の掲示板には、「呉市民まりもん」さんからの、図南丸に関したご投稿がある(No.1123)。 

 上の新聞記事には30×20aの大きな写真が付いている。見たい人は神戸新聞のホームページへ(ただし縮小されている)。同写真の説明文は次の通り。

 ドック内の壁面に刻まれた狭い通路は、「犬走り」と呼ばれる。かつてはそこを作業員が上下左右に移動しながら、大型船の修理に当たった

 コンクリートで築かれた船形の空間。修理する船が入っていないときは、盤木が乾燥して割れないように水が張られている=いずれも相生市相生 


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