巨大商社・鈴木商店が残したもの(西播磨編) 
2016/04/17 神戸新聞 

 播磨灘を臨む相生湾は初夏のペーロン祭、冬のカキが名物で知られる。

 その西岸に広がるIHI相生事業所(相生市相生)。前身は鈴木商店が1916(大正5)年に設立した播磨造船所だ。巨費を投じ、大型船を建造する造船施設を築いた。

 工場群の北端に立つ赤れんが造りの倉庫は往時をしのばせる。最上部には鈴木商店を示す「米(よね)」マーク。社章が残る建物は、全国でもこの倉庫だけだ。

 思わぬ資料に出合った。同事業所内にある造船会社JMUアムテックの本社1階にある史料館。山上和政取締役(70)が丸めた1枚の紙を棚から取り出した。

 「実はこんな物が残っていましてね…」

          ◇

 神戸発祥の鈴木商店は生産にこだわり、造船、化学など製造業に進出した。相生、姫路にその足跡を追った。

船鉄交換船の設計図

 造船会社JMUアムテックの本社史料館で、山上和政取締役(70)が1枚の紙を机の上に広げた。縦約80センチ、横約2メートル。隅はやや黄ばんでいる。

 英字で「S.S.EASTERN(イースタン) SOLDIER(ソルジャー)」。船の構図が墨で描かれ、寸法や部屋の間取りも細かく記されている。

 鈴木商店の番頭金子直吉の親族にあたる金子直三(66)が思わず声を上げた。「うわ、これはすごいな」

 1917(大正6)年の第1次世界大戦時。米国は鉄鋼の輸出を禁じ、鋼材を輸入に頼っていた日本の造船業は打撃を受けた。

 翌年、直吉は民間人ながら、米国が供給した鋼材で日本が船舶を造って渡すという「船鉄交換協約」の交渉をまとめた。同協約に基づき相生で建造され、20年に完成したのが貨物船「イースタンソルジャー号」だった。

 手書きの設計図が見つかったのは約10年前。倉庫の片隅で、段ボール箱の中に眠っていた。山上取締役は「見た瞬間に鳥肌が立ち、絶対に残さなければと思った」と振り返る。

 相生は戦後も造船業が発展。60年代、単独の事業所として進水量世界一を誇った。山上取締役は言う。「相生の社員は今も自主自立の心が強い。先人たちのDNAを受け継いでいる」

造船のまち

 JR相生駅の南、IHI相生事業所の対岸に広がる市街地。商店街はシャッターを閉めたままの店が目立つ。かつて造船所へ向かう通勤者の自転車であふれた道が、今は閑散としている。

 路地には土壁がむき出しの古い家屋。鈴木商店が一帯を埋め立てて建てた旧社宅街だ。平屋や庭付き、約100坪の一戸建て住宅が並んでいた。社員たちは役職で住む家が決まっていた。

 建設会社大本(おおもと)組(岡山市)の創業者で、播磨造船所の拡張に尽力した大本百松(ひゃくまつ)も、この社宅街に居を構えた。18(大正7)年に鈴木商店本社が焼き打ちされた際、須磨の鈴木よね店主の屋敷まで駆け付けた大本。跡地には今、顕彰碑がひっそりと立つ。

 周辺で育ち、地元の地域史を研究する県立高校教諭の松本恵司(63)は、「造船とともに歩んだまち。次にどうやって発展させるか考えないといけない」。

姫路に残る遺産

 相生から約12キロ東へ。化学メーカー、ダイセル姫路製造所網干工場(姫路市網干区新在家)を訪ねると、緑色の外壁が異彩を放つ洋館に迎えられた。

 明治時代の建物で、資料館として公開している。樟脳(しょうのう)から製造した合成樹脂セルロイド製の虫眼鏡やせっけん箱、水筒など懐かしい日用品が並ぶ。珍しい黒いキューピー人形も目を引く。

 鈴木商店は08(明治41)年、岩井商店(現双日)や三菱とともに、同社の前身、日本セルロイド人造絹糸を設立。新素材として注目されたセルロイドの量産に乗り出した。

 洋館は欧米から招いた技師の宿舎だった。当時は数棟が並んだが、資料館のほか1棟のみが残る。

れんが造りの工場

 敷地内にも歴史を伝える建物が点在する。赤れんがの三角屋根が特徴のセルロイド製造工場、「参」と書かれた製造試験機など。ひときわ目につくのがれんが造りの太い煙突で、高さは約35メートル。09(明治42)年に建設された最初の石炭ボイラーだ。受電施設に役割を変え、使用されている。

 試験機の隣には創業100年を記念したパネル。「先輩諸氏から脈々と続く、ものづくりの系譜がここにある」。力強い言葉が並ぶ。金子直三は「直吉さんの実行力、着眼点の良さがひしひしと伝わってきた」と頬を緩めた。

 =敬称略=

(田中宏樹)




【とんび岩のコメント】


 「船鉄交換協約」や「イースタンソルジャー号」の話は、この記事で知った。民間人の金子直吉が、どのようにして交渉をまとめたのだろう。

 



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