広嶺のそら 播磨空港予定地と里山B
跡継ぎ 当時を知る“最後の若手” 

2000/10/01 神戸新聞


 戦後、市民の生活スタイルを急変させた高度成長の流れに、農業の神として広く信仰を集めた広嶺山は、のみ込まれた。

 魚住寿太郎さん(67)は週に一回、山上のだれも住まなくなった屋敷に通う。戸を開け放し、風を入れる。家の傷みを少しでも遅らせるためだ。

 「私の代で、つぶしとうないし…」

 山からそう遠くない、八代大歳神社(姫路市八代宮前町)の宮司である。かつて広峯神社の御師(おし)でもあった。

 山を下り、すでに四十年近くがたつ。

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 「山を下りることに…、決めた」

 高度成長が流行語となった1961(昭和36)年。魚住さんは、父親に打ち明けた。突然の告白に、父は口を結んだが、胸の内は痛いほど分かった。

 「神主にするつもりでいた跡継ぎが、山を下りるなんてもってのほか。そう思っていたのでしょう」

 技師として旧国鉄に勤める一方、休日は御師として父を手伝った。正月から春先にかけ、自転車の荷台に五穀豊穣(ほうじょう)を祈願したお札を詰めた行李(こうり)を三箱くくり、はかま姿で播州一円の山道を懸命に走った。

 「広峯から参りました」

 「ごくろうさんでございます。どうぞ、どうぞ、泊まっていってください」

 待ちわびた地域の有力者の歓待を受け、周辺へお札を配って回った。

 春先になると、代わりに神社を訪れる参拝者を山上の御師屋敷でもてなした。

 「ゆでたタケノコやフキを大皿に盛り上げておきましてね。旦那(だんな)衆はサイコロを振って、かけ事なんかを夜通し楽しむんです。交流の場というのか。レジャーのなかった当時の庶民の年中行事でした。それは、にぎやかでした」

 小学生だった魚住さんは、庭から三合とっくりの熱かんを座敷に運んだ。ふもとの魚屋が、とろ箱を担いで山道を通い詰めた。

 「年中、暇なしです」。シーズンの半年間で、一軒の屋敷に一万人が宿泊するにぎわいだった。

 ところが終戦後、農薬が普及し、農業の機械化が進んだ。科学の力が、お札のありがたみを薄れさせた。参拝者は減り、御師の生活を圧迫した。お札の配り方も、次第に簡略化されるようになった。まとめて地元の代表者に預けたり、郵送に頼ったり。味気のなさは、勢いの衰えを象徴した。

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 魚住さんは、次代を担う若手として期待される最後の一人だった。しかし子供が生まれ、雨水頼みの山上生活は苦労続き。「はたしてここで暮らしていけるのか」と、自問を繰り返した。

 山を下りる決意をしたときはすでに、御師の多くがふもとでの生活を送り、教師や会社員として、第二の人生をスタートさせていた。山上に残る古老が、寂しげにつぶやいた。

 「とうとう、あんたも下りてか」

(掲載日: 20001001 )


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