シリーズQ&A その12

「無癩県運動」について教えてください。戦前、「らい」と呼ばれていたハンセン病患者を一人残らず療養所に送り込むために各府県が“患者狩り”をやったという風に聞いています。そんなことが戦後も行なわれていた、というのは事実ですか。

瓜 谷 修 治


 残念ながら事実です。そのために1950(昭和25)年から「第二次無癩県運動」として都道府県別に未収容患者の実態調査を行い、厚生省の指示のもとに戦前を上回る周到さと過酷さで有無を言わさず在宅患者を療養所に送り込みました。人権尊重をうたった憲法の精神を、国自らが土足で踏みにじって恥じることがなかったのです。

 その辺のことは後で説明することにして、どんな経過をたどって「無癩県運動」が全国に展開されていったのか、その経緯をふり返ってみましょう。
 この連載の第7回目にも書きましたが、わが国のハンセン病政策は、当初から患者を治療し病気の拡がりを防ぐ医療・公衆衛生の見地から感染症対策として立案されたものではなく、患者の取締りをどのように行なうか、という発想からスタートしています。
 最初の「らい」立法である「癩予防ニ関スル件」(1907年、明治40年成立)の法案審議の際、感染症対策を主管する内務省は、患者を隔離する内容について“予防より救済が先”と説明していますが、国の本音はまったく別のところにありました。
 当時、先進諸国と肩を並べようと躍起になっていた明治政府にとって、物乞いなどをしながら街中をうろつくハンセン病患者、“浮浪らい”の存在は「国辱」以外のなにものでもありません。それを一掃するのが本当のねらいだったのです。
確かに療養する場所をもたない“浮浪らい”だけを隔離の対象としている点では、当時の国際的知見であるノルウェー方式に合致しているように見えますが、弱い感染力、患者の人権に配慮して在宅治療も認め相対隔離方式といわれた考え方とは全く無縁のものでした。要するに国は、隔離についての知見も十分に承知のうえで、“浮浪らい”の取り締まりを「救護」と称したに過ぎないといっていいでしょう。
 このように、日本のハンセン病政策は患者を取り締まりの対象として強制隔離する治安政策としてスタートを切りました。言い換えれば、強制隔離という考え方は医学的根拠など一切抜き、時の政府の「都合」だけで生まれ出たのです。

 その結果、不幸なことに、その「都合」によって隔離政策は限りなく強大で理不尽なものへと変身していきます。やがて戦時体制をバックにして国家主義が頭をもたげると「日の丸の汚れ」とする民族浄化論が高まり、兵力確保の要請と歩調をあわせるようにして隔離政策に拍車がかかりました。
 隔離の対象を全ての患者に拡大し収容目標を一万人に設定、これにあわせて1921(大正10)年には10年で5000床の第一期増床計画が立てられました。さらには1930(昭和5)年には、内務省が「癩根絶策」を発表し全ての患者を終生隔離するための対策が具体化されました。「十年間で全患者を収容・隔離し、次の十年で根絶に至らしめる」という「癩根絶20年計画」がその中身だったのです。
 そうした国、内務省の方針に沿うかたちで法の改正なども進められ、1931(昭和6)年の「癩予防法」制定によって国が「癩予防ニ関スル件」制定の際に思い描いていた隔離絶滅政策は、その全容を現したのです。
 この法改正によって入所対象者の資格を従来の“浮浪らい”に限らず〈癩患者ニシテ病毒伝播ノ虞アルモノ〉として、自宅で療養していた患者の隔離が法的に認められるなり、隔離絶滅に拍車がかけられたのです。

 そこで「無癩県運動」が登場してきます。1929(昭和4)年、愛知県の方面委員数十人が愛生園を視察、わが県から「らい」をなくそうという運動を始めたのが「無癩県運動」の始まりとされています。運動はその後、岡山、山口県でも行なわれ、全国に拡がって行きました。
 そんな運動も1937(昭和12)年に日中戦争が始まるとともに戦時体制に組み込まれ、このころから「無癩県運動」は国によって組織的、体制的に推進されて行きます。1940(昭和15)年、厚生省は都道府県に「…患者収容の完全を期せんがためには、いわゆる無癩県運動の徹底を必要なり認む。……」と運動徹底を指示。浮浪患者の取り締まり、「癩」部落の解消、在宅患者の隔離収容など、法改正によって明確に浮かび上がってきた明治以来の懸案だった隔離絶滅政策が「無癩県運動」のかたちで強力に推し進められることになったのです。
 その意味で、全ての患者を根こそぎ地域社会から排除するという、この運動のあり方は、まさしく「癩予防法」の精神を体現したものでした。

 こうした「無癩県運動」は、驚くべきことに戦後もなお存続したのです。1949(昭和24)年6月、全国ハンセン病療養所所長会議が厚生省で開かれ、運動を継承することが決められたのです。
 会議では「過去40年を顧みて反省し将来の根本策を計画すべきだ。必要なら予防法を変えてもよい」という厚生省の東医務局長の発言はなぜか無視されます。さらに厚生省担当者の軽快した者は退所させ終生隔離を止めるという提案に隔離絶滅政策を推進してきた愛生園の光田健輔園長が猛烈に反発、終生隔離政策の変更をしてはならない、と恫喝、自説を貫いたのです。
その結果、「無癩県運動」を継続することが決まり、療養所の収容力の増強、患者の一斉検診の実施などが決められました。日本国憲法、治療薬プロミンの登場という新しい状況下で、新たな「無癩県運動」(第二次無癩県運動)による新規の隔離絶滅政策が決定されたのです。単なる戦前からの隔離絶滅政策の継承ではなく、その後の政策の展開は、明らかに国が積極的に推し進めたものだということを物語っています。
 戦前戦後にわたって強力に展開された「無癩県運動」のなかで「癩は極悪の伝染病である」という偽りのプロパガンダが繰り返されました。その結果、「癩」は“手足の腐る恐ろしい病気”と嫌われ、恐れられ、差別されました。その差別が拡大再生産され、患者だけでなく、その家族、親戚にいたるまで差別され、結婚、就職、就学など社会生活のあらゆる局面で差別を受けることになったのです。それが一家心中や自殺に結びついたケースなど数えればキリがありません。
 戦前のことですが、サーベルをガチャつかせて「療養所に入れ」と説得にくる制服の警官。そんな姿はいやでも近所の人の目に止まります。それも家に居たたまれなくして、患者を療養所に向かわせる“いぶり出し”の手だったのです。
 差別を煽ったのは偽りのプロパガンダばかりでありません。患者が収容されたあと殊更大げさに、家中が真っ白になるまで行なわれた消毒。このため家を捨て、あるいは追い立てられた家族がどれほど居たか ─。「伝染病患者輸送中」の張り紙をした患者輸送専用の“お召し列車”も「恐怖の病い」を社会に印象づけ、患者のいぶり出しを容易にする手段でもあったのです。

 最後に次の言葉を紹介しておきます。
  「地域社会に住むこと許さず、療養所以外に行き場を無くし、患者さん犯罪人のように狩りかりたてる ─それが無癩県運動だ」(大谷藤郎氏)


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