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北九州遺跡巡りの旅 (前編)
静御前と義経・弁慶 吉野ヶ里行 私記
投稿者 匿名希望さん
掲載日 03−6−20
5月11日(日) 初日

マチコと春樹か、ウサギとカメか、あの限られた空港内なれど、なかなか出会えない。しかし、8:00定刻には無事全員機上の人となる。

一人バッヂをわすれ、足を少々引きずっての福岡入り、一見してすぐ見分けられる赤紫色のサロンバスと安定型ドライバーさんに4日間10人の命を預ける。

金隈遺跡にはカメ棺がゴロゴロ
お勉強の第一歩は、キンスミ、いやカネスミ、いやいやカネノクマ(金隈)遺跡。発見された300余のカメ棺、百数十の人骨の一部が、当時のままの状態で目に飛び込んできたのには全くたまげてしまった。横浜の北のはずれで、80数基の竪穴住居跡のボコボコ穴が山上に忽然と現れた大塚遺跡にも驚いたが、その比ではなく、内容といい、規模といい、スケールのちがいを実感した次第。本日のメニューはもうこれで充分。宿に直行でもよしと思えど、どうしてどうして、次から次へと刺激的歴史ドラマのオンパレードとなるのである。

次は日本最古の稲作地であり、環濠集落として、国指定の板付遺跡へ。竪穴住居の復元は素朴であった。何でもそうであるが、基本は同じでもここも大塚も絶対的なものではない。なにせ2000年程前、600年間に亘る暮らしの一端であることを再確認。余禄をいえば遺跡入口に銀色に輝くでっかい稲のモミのモニュメントを発見、近づいて見れば高校同級生の田辺光彰の名がある。イサム野口の孫弟子で稲をメーンテーマとし、クレーンを使うなど大きいものを作っていることは知っていたが、まさかこんな所で出会えるとは。月1回やっている同級生による勉強会?なるものに十年くらい前かな。レポーターとして登場。色黒、黒装束のヤサ男が短髪なれど眉にかかる黒髪をかき上げながらスライドを操り、ボソボソと話していたネクラっぽい青年の姿がはっきり思い出された。それをきっかけに我主君、義経殿「私の妹もそうよ」、「何年?」という会話から、何と彼女の三姉妹の一人と同級。しかも高三の時は同じクラス。出席番号も「せ」と「た」で近かったことが判明。驚いたの何の。せっかくの貴重な遺跡訪問の旅なれど、そっちの奇遇の方でも驚き、もう頭は満杯。

そこでやっと休息の地「博多観光会館」で下車。定番となっているという紅しょうが入り豚骨ラーメン600円で一息。12:45出立。

午後は春日市に入る。奴国の丘歴史公園・資料館=須玖岡本遺跡の一部に寄る。奴国王墓のカメ棺を覆っていた大石や、他を凌駕する副葬品の数々、後に「漢委奴国王」の金印を授かる国の広い敷地。資料館内には青銅器、ガラス、鉄器などをつくった鋳造関係の多くも展示され、大掛かりなハイテク工房を備えていたことがうかがえた。これ又個人的余慶にあずかったうれしい話。我主君義経殿は目がいいと言うか幸運の女神といおうか、緑しきつめられた公園丘陵を横切った時、四ツ葉のクローバーを見つけ「あげるわ」と近寄って差し出される。「あーらうれしい、ありがとう。」はじめはうれしくてみんなに見せびらかしていたけど、軸がなよなよしてきたので、パンフにはさんでなくならないよう奥にしまっておく。だからでしょうか、気がつけば疲れて痛いはずの足を忘れているではないか。歩けなくて一人バス待機もいやだと、最初からカバンの底に杖をしのばせていたのに使うことを忘れていた。ありがたいことよ。感謝感謝の思いで奴国の丘を後にする。

途中、水城跡に寄る。人の手で築いた土塁。深さ4mの堀に、名の通り水を貯えて、大宰府防衛線として重要なお役目を課していたことを知る。O氏、バス下車の際、段差に足首をひねりそうになるも、若さで事なきを得る。見ていたスネに傷持つ筆者、日々の鍛え方の違いと納得。

観世音寺の日本最古の梵鐘
そして太宰府市へ。それらしき大宰府政庁跡を左に見て小雨の中、その先の観世音寺に走り抜ける。天智天皇が母君のために発願された寺という。日本最古の梵鐘(国宝)を拝し、そこはかとなく漂う樟の香に導かれ濃緑の大樟に抱かれ、目も心もしっとりうるおったところでバスへ。

そしてやっと本日の宿、二日市温泉に向かう。昔は栄えたのであろう、しかし店を閉じたメインストリートをなぜか一巡して玉泉館へ。同胞は気づいていたけれど、運転手一人先を見すぎ、手前のビルと木とカーブの為、見すごし通過したもよう。はるか遠くへ来たもんだ。やっと落ち着き、部屋で一服。ここで又私事1つ。30数年前の教え子が宿に訪ねて来てくれたのである。新婚旅行で横浜に来たとき以来。あれから十数年ぶりだろう。連休のある日、「年賀状にあった九州旅行いつ来るんですか」のTelが突然入る。尚子チャンが福岡にいることをふと思ったりしてしていたけど、半年前の事は忘れていた。それから「会いたいよ。」、「会いたいね。」しかしこちらも団体旅行、あちらも宗像郡福間町から出てくるという。無理しないで接点が見つかったら会いましょう。しかし彼女家族4人車でかけつけてくれた。若く熱意だけのがむしゃら対応のわたしだったろうに、ありがたいこと、これこそ余慶にあずかる四ツ葉のクローバーのお導きと頭をたれた次第。

その夜の宴会はおして知るべし。浅学非才の私の脳天は混乱の極み。2000年前にタイムスリップしたかと思えば現実に早戻り、そして今日ここに居なかったら再び私の心に登場しなかったかもしれない二人の同級生との間接的出会いと、血のつながらない我子一家とのご対面、体も頭も疲れているのに、何故か高ぶる心地よい感情にたゆとうて、眠られぬ旅の一夜はふけていったのであります。

おっと! 寝てしまったけれど、大事な話を書きそこなってた。
 敵将?のおん前なれど、入りにし人の跡ぞ恋しきと賤ずのおだまきくりかえして衆目の中、罪びとをしたう舞を披露したさすがの静御前! 宿に着くなり丸腰になり、すぐ斥候隊として一人風呂視察、しばらくして、水もしたたるいい女?にでき上がった彼女「女風呂はすごくせまいけど横が男風呂につながってるみたいよ。入口は別だけれど---」「エッ!」追っかけすぐ残りが風呂に向かわなかったのは、乙女心の羞恥心から---と言いたいけれども、アハハハ事実は、タタミにすわったらもうトシで動くのが面倒だっただけの話。
 宴会後そっと浴室へ。だれも居ないかなーと思っていたら数分後あちらで「ポチャ!」「あ、いる!」そのうち以心伝心か、団結力のある金曜メンバーの相棒「あ、Sさんだ。Sさーん!」ともにあられもない恰好だったろうに声かけあっている。図体はでかくも妙に気の弱いところのある我輩、そそくさと部屋に戻る。

又わすれの2つ目。月曜休館ゆえ変更して、あすの予定の九州歴史資料館に急遽寄る。
書くのを忘れる位だから猫に小判。後で資料を見ればそうだそうだ。何年後かに国立博物館がこの地に建つ素晴らしい資料満載の館なれど伸びきった脳ミソへのすり込みは希薄だったというわけである。


5月12日(月) 二日目

大野城の倉庫群の礎石
きのうの道を戻り、再び太宰府市へ。かの天満宮は後にして、まず大野城跡へ。標高500m足らずといえど、いろは坂ごとき七曲をバスは一気にのぼる。途中汗びっしょりの初老の男性一人杖をつきつつ徒歩でのぼっているのが見えた。車窓は小学唱歌 ♪あざやかーな みどりよー。あーかるい みどりよー。--- かおるー かおるー わかばが かおる♪ の世界。「紅葉もいいけど新緑はあざむかない」と誰かが言ってたけどホントだと思う。
山頂での出迎えは2匹の忠犬。嫌いな人は「まったく!!」だろう。けれど塀の上で街行く人々を睥睨している猫や「おっと! あぶねぇ!」とばかり小走りに道を横切り、物陰に逃げ込む猫のいる風景に心なごむ我輩には、体毛は少々くたびれてるけれどつながれてなく、人に寄りそってくる犬と、誰もいない緑なる山の史跡との違和感が新鮮な刺激となって、目にとびこんできた。
 7世紀大宰府の北の守りとして四王寺山頂の山城、桃太郎じゃあないけれど2匹のワンとつかず離れず、のぼりおりし、眺望のひらけたところで360度確認。これでよし、バスに戻ろうかと思っていると、「あった。あった。こっちこっち。」の声。下草は刈ってあれど、木の間の道なき道をたどれば、ひとかかえ---いやかかえられない。一股一歩位の礎石が規則的に3列4列となし、雑草の中浮き出ている。すごい。1300年前こんな山の上に、こんな大きな建物群の城があり人や物が躍動し、下って、戦国時代には7百数十名の命をのみ込み、今静かに自然に身を託している。これを見てこそ大野城へ来たということ。しろうとの私は、もうてっぺんに着いて説明書きを読めば---(その時はわかったと思っても三歩歩けば忘れてしまうのに)もう一件落着の感有。今まではそんな外側だけさわってわかったつもりの自称”歴史探訪”が多かった。今回はプロのガイドを隣に座らせての大名旅行。次元の低い質問をして恥をかいても、今更嫁にいくわけでもなし、あらためて素直になっていっぱい吸収していこうと誓った次第。
 又帰りには、島津軍に玉砕した高橋紹運の墓への道標が見えた。千年の時代を越えての栄枯盛衰、この朝の光に輝く新緑におおわれた全山。ここも又1つの兵どもが夢の跡と感慨深くおりてきたのである。それにしてもあの犬達、横になっていたのにバスが着くや立ち上がり、共に上から街や山並みを眺め、そして林の中にもついてきて礎石まで。戻ってくる時も後になったり先になったり---そして帰路に着くや後追いもせずいずこへか---ここ一帯にかって歴史を綴った人々の魂が宿っているとするならば、「よく来てくれた、よく来てくれた」と、犬の姿を借りて案内してくれたような霊気、切なさが一瞬心をよぎり消えていったのです。

太宰府天満宮
何度も横目で見ては通りすぎてた太宰府天満宮へやっと到着。私には格別思い入れのある所である。京都北野天満宮より梅、牛は多くなく、飛び梅も何代目だろうか。本殿前にそそとたたずむ。数百年は経ているであろう大楠が林立。梅が枝餅ののぼりがいやに目につく。
 ここで私の親の事、昭和20年に終戦となった太平洋戦争の戦犯として巣鴨にとらえられ、現地・英国裁判にかけられるべく東海道を下り、岩国飛行場で自決した父は2月25日生まれ。ふるさとにもお天神さんのお祭りがあり、「秀はお天神さんの子だから」と、母は姑からよく聞かされていたという。終戦時市川の憲兵隊長をしていた38歳の青年が、本当にこの日本を戦争にかりたてた本当の犯罪者だったのだろうか―。江戸から明治への変革や敗戦という国の大きな逆転の時に、個はまさに翻弄され殉ずる者、時代におどりでる者等、激動の人物史が展開されてきている。それを思えば道真さん程有能な男ではなくとも、父はお天神さんの子として、懸命にその時代を支え、いい子3人を母に托し、己の幸いは薄く短い生涯を終えたんだ―。その本家本元の太宰府天満宮に、母と一緒じゃないけれど、私、今来ていますよ。無念の最期だったでしょう。けれど今私がそのかわりを生きてますからね。
 境内近くの茶店で梅が枝餅と抹茶で小休止。もう二度と来られないかもしれないけれど、一度訪れることができてよかった。91歳で2年前に逝った母を守ってくれてありがとう。不肖な子で、母への親孝行やけなげなさばかりに目がいき、これまで父の一生について心をはせることは少なかった。けれどその大きな後ろだての母をなくしてみて、はじめて母の父への純愛に生きたわけがわかってきた。「『とし子さんなら立派にやれます』と勝手にいなくなってしまってお母さんも苦労したねえ」と、父の50回忌に言う私に「そんなことないよう。一生懸命やったことが悪いとされ、今をみられないお父さんがかわいそうだよう---」と遠くを見た母の顔が浮かんだ。私にとって、まさに母死して父顕らかに立つ、であった。
 おなかがすいてきた。何か食べたいなあ。並ぶ店々からの呼ぶ声に誘惑されそうになる。今日のランチは? 場所はバスの中。メニューは金賞コロッケに鳥のからあげ。わかめ or しそおにぎりに、おいしいお茶一本。時間の節約経済的---。こうゆう手もあったのか。とても楽しい気分の昼食であった。

吉野ヶ里の女性ガイドと記念写真
車は、本日のメイン吉野ヶ里へ一直線。車窓から歴史プロのAさん「見える見える。」指さすかなたを見れば初夏を思わせる晴れわたった空の下にうす紫とも見える大きな望楼が望めた。何とでかいこと。こんな遠くからみえるのだから近くへ行ったらもっと驚くだろう。
 車を止めて、おりたってみれば何と遊園地---いや何かのテーマパークに到着した感じ。後で資料を見れば40haを越える広さで、環濠は2.5kmにも及ぶという。弥生時代600年間の流れがこの中につまっている。
 女性のガイドさんであった。暑い日だったので、傘をさすことをすすめてくれた。入口で借りて大助かりであった。身分は嘱託でありユニフォーム貸与。但し白手袋は自前ということであった。南内郭、北内郭の壮大な復元建物に目を見張るばかり。墳丘墓も我町の公園より広い。炎天下の歩行で疲れてきた。座りたいけどやたら腰かけてブブーッと警報器鳴ったら大変。ゆきついた所の休憩所で水分補給しホッ。濠内も様々な役割を持つ場所に分けられている。中のムラ、市、等をめぐりながら戻るも、トシの私、シルバートレインを目ざとくみつけ乗りたくてたまらない。誰彼かまわず誘うも、勉強家の方々ばかり。楽してのっぺり遺跡を通過することを好まず、しっかりこの目と足で確認して身につけなさる御様子。もう頭も足も飽和状態なる私なれど、一人らくちんする勇気もなく、渋々後にくっついていく。しかしそれがいつもの事ながら正解となるのである。途中、甕棺墓発掘現場ごときすぐ脇を通る。おもしろそうなトロリーバス?には乗れなかったけれど杖もつかず歩けたし、生々しい墓の様子が見られたのはよかった。やっぱり我を張らずひと様の意向に添うべきである。それにしてもどうして私は安易に流れたいのだろうか。ひと様より脳ミソが少ないかわり、消化器官が発達してしまったからであろうか。ともかく2000年前のムラ社会のイメージが大きくかわりウーン!!のため息吐息。うまく文が綴れない。

本日の宿は武雄温泉の扇屋。懐石料理自慢の宿と聞いていたけど表向きはせまく、うなぎの寝床のよう。お部屋はウーンであったけれどお食事で満足。外見でなく中味で勝負ということ。今夜も静御前、着くなり、食事前に斥候役を引き受けそろり階下へ。中二階か物置部屋を改装したか、急な階段を下った真下に、これ又うなぎの風呂場。ここじゃあ「ポチャ」も「おーい」もあるまいて。
 食後近くのカラオケ店「北斗」へ。貸し切りの感有。喉の調子は、お金をつぎ込んでいる人はそれなりに、うぶな人はこれ又それなりにういういしく盛り上がって楽しみ、そして帰館。数えてみれば中に行きそこなってた人2人。これで旅程の半分が終る。まあよく毎日お勉強したことよ。寝ながらつらつら思ったことは、語学も私はサンキューベロマッチョ組だし、大事な歴史も、学んだことは全部棚に上げ、あるのは渡された青表紙テキストだけ、そのテキストを点とする弥生時代の底の深さ、横の広がりにおいて、他者と雲泥の差があることを実感する。よくもいばって2年間ガイドしてきたものよ---。微苦笑しつつも、心地悪くない思いで、いつの間にか眠ってしまっていたようである。(続く)
 
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