後藤田正晴

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最終更新日2001年9月14日

-Index-

-旧制中学・東京大学時代-

1.五・一五事件(1932) 2.共産主義に対して 3.資本主義に対して 4.規律の重視 5.学習意欲

-官僚時代-

6.内務省時代 7.台湾総督府時代 8.情報収集の重視 9.敗戦の認識
10.内務省復帰(1946) 11.自衛隊について 12.占領下の苦難 13.人材採用について
14.シビリアン・コントロール 15.民主的な役所 16.自治省への格上げ 17.安保騒動(1960)
18.税制改正の教訓 19.後藤田の人柄 20.二世議員への怒り 21.情報戦略の必要性
22.人事に対して 23.安田講堂事件
   (1969)
24.警察庁長官に就任
   (1969)
25.連合浅間山荘事件
   (1972)
26.リーダーシップ 27.内閣官房副長官
   に就任(1972)
28.人材確保法
   (1973)
29.国土利用計画法
   (1974)

-国会議員時代-

30.参院選挙敗退(1974) 31.市民との直接の対話 32.衆議院初当選
   (1976)
33.自治大臣に就任
   (1979)
34.中曽根康弘との出会い 35.行政改革-総務庁
   長官
36.

 

−東京大学時代−

Gotoda 

<五・一五事件の際に>

後藤田の友人:

「この事件は国を想う軍人や農民が一途な気持ちでやったことだ。彼らは立派だ…」

後藤田:

「お前、何を言っているんだ。海軍の軍人が、昼間に軍服を着たまま首相官邸に侵入して、首相を殺害する事が、なんで立派な行動なんだ。そんな事が許されると考える方がおかしい。」
 
…後藤田を知る手がかりの一つは、法律の正確な解釈とその遵守の徹底を求めた事にある。私は、後藤田を知る事で、とっつきにくい法律というものに興味を抱くことになった。法律は、知力が暴力を抑制する手段となりえる。

 Gotoda 

<共産主義というものに対して@>

後藤田:

「共産党の一党独裁は必ず没落する。言論の自由は保障されなければいけない」

Gotoda 

<マックス・ウェーバーが唱える資本主義の合理性に対して>

マックス・ウェーバー

「共産主義のように分配が平等であると、個人の創意や工夫や努力は押し殺されてしまう。資本主義は個人のそういったイニシャティブが存分に働くので、こちらの方に合理性がある。」

後藤田:

「その説はその通りだと思う。言ってる意味はわかる。しかし、共産党内にも地位争いがあるではないか。経済的には平等で、例え賃金が同じ額であっても、地位に対する権力闘争があるではないか。そこにはイニシャティブが発揮される余地がある。一概にイニシャティブが阻害されるというのは誤りだ。」
 
…共産主義に賛成していたわけではない。ただ極端に一方の考えに走る事はなかった。後藤田は高校生の時にすでに自分というものを確立していた。時代の流行に流されない姿勢を堅持していた。

Gotoda

<旧制高校の陸上競技大会の運営責任者となった際に>

後藤田の友人:

「短距離で日本記録を更新しそうな選手がいるんだが、そいつがまだグラウンドに来ていない。客はみんなそいつを見にここへ来てる。あの選手がくるまで待とう。」

後藤田:

「競技の進行は予定通り。あの選手が来なくても、予定通りに行う。」

後藤田の友人:

「いや、しかし…。みんな新記録が出るのを楽しみにして、そいつを見に来てるんだぜ。」

後藤田:

「記録なんかどうでもいいんだ。そんな事より約束の方が大切だ。規律の方が大切なんだ。」
 
…勇気を持って筋を通す。なかなかできることじゃない。

Gotoda

<東大時代>

後藤田

「岡先生の授業は、私には大変興味深かった。現実が語られていてからだ。…実は僕は今でも岡先生の教科書の何頁にどのような事が書いてあるか、詳しく覚えている。それほど熱中して授業を聞いた。」
 
…すげえ。かっちょいい!

後藤田の姉の好子

「弟は、東大時代に体をわるくするのではないかと心配するほど勉強に明け暮れた時期がありました。」
 
…ようやるな。

 

<後藤田の呟き@>

後藤田

「何事にも反対の意見を消してしまってはよくない。適当にあったほうがよい。」

 

−官僚時代−

Gotoda

<内務省時代@>

ところで内務省とは?

…明治6年に山県有朋によって創設される。大蔵省、司法省、文部省などの職掌を除く全ての民政全体を掌握する官庁。大日本帝国の内政の中枢的位置を占める官庁であった。全国都道府県知事をはじめ、府県庁の幹部、警察幹部などはすべて内務省の官僚が占めていた。

 

後藤田

「戦前のエリート官僚と一般職員は、身分格差と経済格差があまりにも激しかった。官僚としての第1線生活が、私に現実社会のヒエラルキーを教え込んだ。」

Gotoda

<台湾総督府勤務時代>

後藤田

「陸軍の経理とは、つまり戦争の原価計算を行う事だ。戦闘になればどれだけ弾薬が使われるか、兵士の戦時手当はいくらになるか、兵站の補給にどの程度予算が必要か、さらに食糧はどのような価格で購入するのか…などなどね。台所からその家の経済状態や暮らしむきがわかるように、経理をしていると軍隊の実態や戦争の行く末も窺い知る事ができたよ。」
 
…色々な事を経験している人は、本当に強い。

Gotoda

<昭和17年:ミッドウェー海戦敗北後の状況下において>

後藤田:

「戦争は、死ぬも生きるも紙一重。だが、死よりも生に近づく方法がある。確かに同じ場にいて、同じ列に並んでいるのに、助かる者と命を落とす者がいる。それは運命と言っていいだろう。だが、運命論だけでは片付かない面が戦争にはつきまとっている。それはできるだけ多くの情報を集め、それを正確に解析して死の側に組み入れられる確率を少なくする努力をしなければならないということだ。運命論者であり続けるならば、いつか死の側に組み込まれる。」
 
…昭和20年、後藤田は台湾総督府から東京へと出張を命じられる。その際、後藤田は、航空班の将校に指示された沖縄上空経由コースを冷静に分析した結果、非常に危険と判断し、コース変更を頑なに主張するのだ。皆とは別ルートで東京に戻った後藤田を待っていたのは、台湾を同時刻に出発して、沖縄上空経由のコースを取って東京に向かった他の飛行機が、アメリカ軍爆撃機によって撃墜され全員死亡したという情報だった。

Gotoda 

<戦争に負けて>

後藤田:

「8月15日に台北の街中で鳴った爆竹、それまで我々と一緒にやってきたと言っても、彼らにとって日本が負けたということは嬉しい事だったんだ。この時に僕は異様な感じを受けたね。それまで異民族に支配されるという屈辱を我々は知らなかったんだな。」

Gotoda 

<昭和21年:内務省へ復帰>

後藤田の友人:

「後藤田君は、立法は苦手だったというが、そんなことはなかった。あの頃は新しい時代に合わせての法案作りで、30代の官僚はみな熱っぽく議論を交わしたものだった。」

 

Gotoda 

<自衛隊について>

後藤田:

「日本の自衛隊は、海外に出て行く兵ではない。オーバーシーの軍隊ではないんだ。これは僕など警察予備隊の起案をしたから良く知っているつもりだ。」
 
…今は、PKO法案も通り、発案者の意志を超えて動く自衛隊。非常に難しい問題。

Gotoda 

<昭和22年:内務省解体→そして警視庁保安部経済第二課長へ>

後藤田の同僚:

「後藤田を含めて我々の世代は、この時期がちょうど中堅の課長クラスでした。GHQの占領政策のもとで、日々実務を進めていかねばならない時代だったんです。戦前なら我々内務省が作った条文をそのまま閣議に提出し、そこで閣議決定すれば法令となったのですが、こんどはGHQの了解を得たうえで、一つづつそれを法令にしていかなければならなかったんです。」
 
…GHQは日本に福音だけをもたらす全能の神ではないとの認識が、後藤田にはあった。占領されるというのは、たとえ戦争に負けたにせよ、屈辱そのものであり、あたかもGHQの下僕のごとくに振舞わなければならないことに、後藤田は耐えられなかった。

後藤田:

「当時は、国民生活はまだ耐乏生活そのままで、配給制、切符制であり、しかも、生活物資の供給が遅れたり、中止になったりという状況で、国民はヤミ市に頼らなければ生活できなかった。東京も、渋谷、新宿、池袋の駅周辺が闇市のメッカだったんだ。私は、その闇市にたむろする商人達を検挙するために、現場へ出て指揮を取らねばならなかった。激高する国民の罵声や哀願する声に耐えながら、ヤミ物資を没収し、正規の配給ルートに載せて配分したんだ。…本当に悩んだ。」
 
…法律の運用をがんじがらめにやれば現実が歪む。しかし、違法の現実を放置すれば、そこに巧妙な連中が暴利を貪るシステムができあがる。後藤田は、当然、そういった現実に不満を持ち悩んだ。手のうちようのない自分にいらだった。

Gotoda 

<警視庁時代@>

後藤田

「現場の叩き上げの人達の信頼を受けるには、それだけの人柄と力量を持っていなければならなかった。人間の器には独特のものがある。むしろそうでないものは警視庁では採らない方がいいな」

Gotoda 

<昭和25年:警察予備隊創設>

後藤田:

「警察予備隊の定員は7万5千名だったのだが、当時私は、合格予定者の中に不穏分子が混じっていないかの調査を行う仕事をしていた。刑事事件に連座したものはいないか、公職追放になった極右思想の持ち主はいないか…それこそ徹底的にね」
「警察予備隊という組織はアメリカ主導で始まったが、アメリカは極端なまでに政治が軍事を支配するというシステムになっている。これには僕も驚いたが、太平洋戦争の反省があったから納得した。しかし、旧軍人達はなかなかそれを理解できなかったようだね」
 
…当時の首相である吉田茂は、文民が軍隊を統括するというシビリアン・コントロールのシステムを日本に根付かせる事を切望していた。こうして警察予備隊は、内局も制服組の要職も全て旧内務官僚が占める形で出発した。

後藤田の同僚

「旧軍幹部はプロとして戦争に負けたのである。その失敗の責任者は、もう行政の舞台に出てこなくていい。我々は警察官僚だから軍事面ではまだ未知の面があるかもしれないが、同じ失敗ならプロよりアマの方がまだいいではないか」

Gotoda 

<昭和27年:警察庁会計課長へ>

・後藤田は、民主党の青年代議士である田中角栄に国家予算を陳情。警察行政の近代化、機械化、迅速化に関する予算がおりる。

後藤田:

「田中は、ある意味で努力家だった。彼は、こう言ったんだ。『俺は池田(勇人)とは違う。池田が役人を使うのと比べると2倍の努力を必要とする。池田は自分が役人出身だから、役人のものの考え方や役人の起案したものなどは、ちょっと目を通しただけでわかる。そして自在に役人を使う。おれはどういう書類でも精読しないとわからん。二倍も疲労するよ。それから役人を動かすんだから…』とね」
 
…田中の決断力、判断力、行動力、そして日々の努力は、いずれも後藤田自身が自らに課していることであった。行儀やタテマエを語る事に慣れている官僚社会では見ることのできないタイプの男に後藤田は共感を覚えた。

・国家公安委員長の正力松太郎が、警察庁にテレビのモニターを導入することを熱心に提案。

後藤田

「よく『役所というのは本当に非民主的だ』などと言われるが、決してそうではない。役所というのはワンマンや独裁がとおらないシステムになっている。民間の方がよほど非民主的だよ」

Gotoda 

<昭和35年:自治庁を自治省に格上げすることに成功 後藤田は税務局長>

後藤田:

「旧内務官僚は、感涙にむせんだ。しかし、旧内務省を復活させるつもりは毛頭ないよ。知事が公選制の時代に官選時代の発想を持ち込んでもだめだ」 

<後藤田の呟きA>

後藤田:

「どのようなことがあっても、警察というのは国民に銃を向けることがあってはならない。いかに治安を守る為とは言っても、そのような愚かなことをしてはならない」

Gotoda 

<1960年:安保騒動

後藤田:

「戦後は大学教育が一般化し、大学生が戦前に比べて飛躍的に増えた。私の時代は、同世代の100人に1人が大学に進んだに過ぎなかったが、この時期には5人に1人が大学に進んでいた。政治的勢力がそこに火をつければ、このような騒ぎになるのは当然の事だ。もし、この大学生が大学を卒業しても、それを受け入れる職場がなければ、なおのことその騒ぎはふくれあがるだろう。だから、私は、彼らが大学を卒業したら職を与え、生活の安定をはかるように考えるのが、国家の役目だと思っていた。…警察力だけでは限界があると考えていたんだ」
 
…安保騒動の後、池田内閣は所得倍増計画を標榜し、高度経済成長を突き進む事を政策の中心に据えた。後藤田は、企業が設備投資や雇用の受け皿を拡大していく様子に安堵感を覚えた。

Gotoda 

<昭和36年:自治省税務局長時代>

後藤田:

「私は、地方税の引き上げに関していくつか手を打ったが、固定資産税の見なおしは失敗だったな。土地の価格を収益還元価格ではなく、市場の実勢価格に変えて、税を負担させることに成功したはいいが、その後、日本の地価は暴騰して、その税収が名目上増えても実質的には税を払えない者が続出してしまった。全く、一筋縄ではいかないものだよ、税の問題というものは」
 
「自治省は交際費など全く無い役所で、局長室の来客用のたばこでさえ、局長自身のポケットマネーで賄っていた。自治大臣は昼食を役所の食堂で食べることもあったけど、それさえ大臣の給料から差し引くという貧乏な役所だったよ。自治省の官僚はそれに馴れていたんだが、大臣の中にはそのあまりの質素ぶりに呆れてしまう者もいてね。俺を馬鹿にするのかと怒った大蔵大臣もいたぐらいだ」
 
…自治省での経験は後藤田の視野を一層広げることになった。彼は、地方独自での財源確保のために地方債の発行の是非を研究するなど、地方自治のありかたに財源の議論が避けられない事に早くから気付いていた。

Gotoda 

<昭和37年:警察庁官房長へ>

鈴木(朝日新聞記者):

「後藤田は口が悪い。人の悪口も平気で言う。そこが面白いところです。人にかみついたり、暴言を吐くだけではレベルの低い代議士並みですが、後藤田がそういう類の人物と異なっていたのは、悪口を言っても筋が通っていた事です。理非曲直がはっきりしているから誰もが納得してしまう」
 
「彼は警察庁では険しい顔をしている事が多かったですね。職務上の過失を叱る時にはすさまじい形相であったようです。後輩からはカミソリといった渾名がつけられたくらいですから」
 
…後輩の失敗に真剣に怒ることがどれほど素晴らしいことか…この年になってやっとわかってきた。

Gotoda 

<昭和38年>

後藤田:

「官僚が総選挙に出馬する時は、官庁を辞めて一定の期間を経ないと立候補できないという法案が野党から国会に提出されたことがあった。私は『2世議員も親父さんがなくなればすぐに立候補できるじゃないか。その法案は間違いだ』と抵抗した。あの頃は、私も立候補する予定など全く持っていなかったのだがね」
 
…官僚時代に後藤田正晴は、政治家の提案した法案と度々対決した。単なる国民に対する人気とりしか考えておらず、自分の身を切るような政策は全く打ち出そうとしない政治家に対して後藤田は怒りを隠せなかった。

Gotoda 

<昭和40年〜44年:警察庁次長時代@〜情報戦略の必要性〜>

後藤田:

「次長に就任してからまもなく、自由主義諸国の情報機関を視察・交流するために外遊した。このときに、アメリカ、イギリス、フランス、西ドイツ、台湾、香港、南ベトナム、タイなどを回った」
 
…後藤田は各国には各国なりのやり方というものがあるが、日本は情報収集、情報解析などの面で全く立ち遅れている事を理解した。日本は防衛的な情報活動を専門にし、そのために外務省や防衛庁などの情報体制を整備しなければならないというのが、後藤田の実感であった。

Gotoda 

<昭和40年〜44年:警察庁次長時代A〜国家公安委員人事に反発〜>

…国家公安委員の欠員に対し、時の佐藤栄作首相は、元最高裁判事の真野毅を任命しようとした。佐藤は国会対策を考慮して、社会党が推してきた真野を任命することにしたのであった。国家公安委員は手続き上は国会の承認を経て、内閣総理大臣が任命することになっているが、事前に警察庁にその人事を示して了解を得ておく慣例があった。この時、後藤田は真野を委員に推す事に難色を示した。

後藤田:

「真野さんは最高裁の判事の時代に、自衛隊の基地は憲法違反だとの判断を示している。これについて私はとやかく言うのではない。だが警察は基地反対の闘争を取り締まっている。この立場はどうなるのか。そのような見解を持つ公安委員を上司として仰ぐ事は断じてできない」

Gotoda 

<昭和44年:安田講堂事件

 学生運動の激化に伴い、警察官の増員がはかられ、機動隊という専門の部隊も作られるようになった。警察庁は、20代の警察官を騒乱の現場に立たせるために装備を整え、訓練をし、現行法秩序の体系をみっちりと教え込み、治安の守護者の意識を植え付けた。だが、彼らは年齢の若さゆえに現場に出ると暴走しがちであった。

後藤田:

「東京に出勤してくる各県の本部長には、決して暴走するな。いかなることがあっても死者は出すな。学生達に死者を出すな、という訓示を与えて送り出した。…確かに警察がその気になって実力を行使すれば、学生を追い払う事は簡単なことかもしれない。しかし我々の任務はこの安田講堂だけで終わるものではない。治安というものは、長期的に見て取り組まなければならない。必要なのは彼らに敵対心だけを与えないことだ。いずれ彼らも善良な市民として育っていくわけだから、そういうしこりを残すと長い目で見たら不利になる。今、必要なのは彼らの行動を国民から浮き上がらせてしまうことだ。なんと愚かな事をしているのかと理解してもらうことだ。少々対応が遅れて、警察は何をやっている、と非難されても構わない。我々は軍隊とは異なるのだから…」
 
…安田講堂封鎖解除の際の学生と機動隊の衝突は、終日テレビでも放映された。これを見ていた国民は、むろん瞬時には活劇でも見ているような心理状態になったが、やがてこの衝突自体に空虚な思いを持ったはずだった。
 
「学生は何をやっているのか」 「こんなことをして何になるか」 「これが革命というものか」
 
…騒乱の場にいた学生運動を応援する東大教授の一団は、次第に哀れな道化役者の様相を帯び始めた。彼らの社会的無恥や驕慢がテレビを通じて明らかになっていったとき、後藤田は警察庁が描いたシナリオの勝利を確信した。

 

<後藤田正晴の解析@>

昭和43年から44年にかけて、全国の大学の学生が騒いでいた時に、後藤田は次長室にあってその情報を集めていた。彼は、「私はそういう情報に触れるにつれて、基本的には革命など起こるわけがない。心配ないなと思った」という。 …警官を殺しかねないような暴れ方をしているのに、逮捕されると「お巡りさん、タバコをくれませんか」などと言う学生がいる。大半の学生は、警官への態度が一変してしまう。憎しみの感情が希薄なのだ。暴れる学生ほど家庭に恵まれていて、逆に警官の方に能力がありながら経済的に大学に進めなかったものが多かった。革命なんか起こるものか、先鋭化した暴徒学生は所詮は社会のはぐれ者にしかならないだろう、と後藤田は自信を持って答えることができた。

Gotoda 

<昭和44年8月:後藤田正晴、遂に警察庁長官へ>

後藤田:

「長官なんか二年もやればいいんだ。四年もやる非常識な奴がいるから、私も待たされて予定が狂ってしまった。」
 
…同輩官僚に向かって呟いた後藤田の本音。そういえば、東大の教授の定年を65歳にしようっていう動きが現在あるな…。

(警察庁長官について)

…警察の中立性、客観性を守るためということで独自の任命システムになっている。警察庁自身が次期長官を推薦して総理大臣の承認を得る。そのうえで国家公安委員会が任命することになっていた。警視総監も同様である。つまり長官が退任して行く時に次の長官を推して行くという慣習であった。その人事には内閣や議会が直接に口出しすることはできない。そのために歴代の長官は、政府と衝突することも珍しくなかった。初代長官の斎藤昇は、吉田首相の更迭の意思を受け入れず、国家公安委員会も「更迭の理由はない」といってその要求に応じなかった。政・警分離は昔の方が徹底していた。
 
 現在は警察不祥事の連続で、警察刷新会議まで開かれる始末。人事権が官邸に支配される可能性が全くないとは言えなくなってきた。

後藤田:

「とくに斎藤さんの時代に、中立性を守るという意味が、長官と警視総監の人事は国家公安委員会と警察庁自身が決める事と確認できた事は重要だった。」

(第三代目警察庁長官 柏原信雄 という人物…)

…60年安保騒動の真っ只中にあって長官を勤めた。昭和36年に騒動も一段落し、新たに警視庁警備部に5個の機動隊を新設したり、公安部を設置したので、柏原は自分の役割は終わったと考え身を引くつもりであった。しかし、自治大臣の篠田弘作に「引退後の天下り先には政府系団体の重要なポストを用意している」と言われた際にこう答えた。「いいポストを用意されていると言われては、私は退任できません。20万余の警官が日夜頑張っているときに、私がいいポストに天下りしては、警官達に申し訳ない」

Gotoda 

<昭和45年:某党機関誌「赤旗」>

赤旗は、後藤田の発言に対して執拗な反論を行った。当時の紙面を紐といてみればその反論のすさまじさがわかる。「後藤田は旧内務官僚出身であり、特高の体質を持っている」「大衆弾圧の元凶である」いった調子だった。
 
…後藤田は、自身が特定の思想、宗教をもたなかったから、そのような一つの思想、一つの宗教にしか価値観を置かず、他を認めないものに侮蔑の念を抱いていた節がある。長官時代も、しばしば共産思想とは対立する言論を行っていた。
 

<昭和46年:過激派のテロ相次ぐ>

・警視庁警務部長宅小包爆発事件

・日石ビル爆破事件

・成田空港警官強襲事件

…相次ぐ凶悪事件の数々が、後藤田を襲い続けた。彼は歴代の警察庁長官の誰もが経験したことのない状況に置かれていた。後藤田はこのころ世田谷の一軒家に住んでおり、その周囲は常に機動隊が護衛していた。彼には自宅で使っている電話のほかに長官専用の電話もあった。それらの電話が、夜になるといっせいに鳴るのだ。受話器を持つときれる。そしてまた鳴り出す…。終夜、鳴り続けるため、家族が眠れない日々も続いた。電話を布団で包み、音が聞こえないようにし、警察庁からの連絡用に、暗号まがいの数字を使う特別の電話まで設置した。後藤田家には日にいくつかの小包が届く。送り先が誰であろうと、それは決して開けず、まず風呂場に持っていく。夜になって警視庁から爆弾処理班がやってきて、小包の一つずつに金属探知機をあてていく。音がすれば処理班が警視庁に持って行くのだ。
 
まさに戦慄!! 陸軍の主計大将として台湾軍司令部にいた時代を後藤田は思い出した…。

 

<昭和47年:連合赤軍浅間山荘事件

赤軍派と京浜安保共闘は合体して連合赤軍を結成し、山岳に入って武装革命の訓練を行っていた。その過程で同士の思想的基盤が弱いとして、「総括」という名の集団リンチ殺人が行われていく。
 
メンバーが次々と逮捕されて行く中、追い詰められた幹部五人は浅間山荘に逃げ込み、管理人の妻を人質にして、警察側と撃ち合いを演じることになった。

(事件について)

後藤田:

「まず、この場合、警察の目的は何か、ということが重要だった。そしてそれは、何があっても被害者の立場を守るということだ。…犯人から守るということだ」
 
…後藤田は長官室に閉じこもって、全ての情報を把握しながら、基本的な指示を出した。長官室には国家公安委員長の中村寅太も詰めることがあった。中村は後藤田に一任しながら、その責任は自分がとるという腹が据わった態度であった。

(二月二八日、警察官二名が撃たれ、殉職)

後藤田:

「第一線警官の厳しさをしみじみと感じた。なんとも言えない気持ちだ」

(同二八日夕方、決死隊を編成し、山荘へ強行突入。人質は救出され、五人の犯人は全員逮捕)

後藤田:

「相手を射殺することは簡単だが、人質を撃ってはならないという、手足をしばられたうえでの警察活動だった。警察官の死は断腸の思いだ」
 
…後藤田は、決死隊のメンバーから「長男」や「妻帯者」を外すことを命令している。勿論、このような配慮に対して、職務を遂行するにあたってそういう条件が必要なのか、といった反論もあっただろう。しかし、こうした配慮は、戦場における最高司令官として最適なものであると、私は感じるのである。

Gotoda 

<警察庁トップとしての後藤田>

朝日新聞記者:

「他県の機動隊を東京に出動させる時は、食糧をどう調達するか、下着を何枚もたせるか、どこに泊めるか、どのようにして休憩を与えるか、そういう細かいことを指示していましたね。びっくりするくらいマメな人でした」
 
…後藤田は人間の営みというものを最も良く知っていた。「食に飢えたり、風呂にも入れずにいたり、雑魚寝のような生活をすれば、人間の精神状態が日頃の状態を維持できるわけがない。これでは人間の知性や感性を低下させるだけだ」 こういった後藤田の熱い信念が、組織としての警察庁を非常に強固なものにしたと考える。

Gotoda 

<昭和47年:内閣官房副長官へ>

二階堂 進(当時の内閣官房長官):

「毎週、閣議があるでしょう。そこでの法案の説明や各種の行事の説明は官房副長官がすることになっていたんだ。この閣議の前に、後藤田さんが僕のところへ来て説明してくれて、僕が書類に判を押すって仕組みになっていた。私はこの仕事を通じて、彼の仕事の正確さに非常に驚いた覚えがある」
 
…内閣官房副長官というポストの力は、後藤田の時代から強くなったものと思われる。各省庁の事務次官会議を主宰する役割を担い、役所の主要人事や人材の配置に関する人事権をも持ちえたポストだった。

Gotoda 

<昭和48年:人材確保法による教職員の給与Up>

田中角栄は、教職員の政治への反発を非常に警戒。彼らを大人しくさせる最良の方法として、教職員給与を上昇させる政策をとった。一般公務員よりも高い給与を与える政策に各省庁は反発したが、後藤田は教職員の質を高めるためだと説いて回り、法案は成立した。
 
…この政策の効果は恐ろしいほど高かったのではないか?
 
高所得者層に位置することになった教職員の多くは保守化。政治への疑問を組合で訴えたり、教室で生徒達に語る事は極端に減ったのではないか?校長を退職した者達は退職校長会を組織し、自民党の票田となっている。
 
政治・経済のドロドロとした部分を生徒達が若い内に学校から学ぶことは、徐々になくなっていったのだ。ここまで言うと大袈裟じゃないだろうかという意見もあるだろう。しかし、私はこの法律は日本の教育体制に大きな影響を与えたと考えている。
 
後藤田さん、この法律は望ましかったと今でも考えてらっしゃいますか…?

Gotoda 

<昭和49年:国土利用計画法制定に着手>

土地の開発にあたっては一定の枠を超えると関係機関に届けるとか、土地の利用にあたっては特定の地域に乱開発が行われないよう制限を加えるといった条文が名目になっていた。土地の私有権に制限を加えるというより、私有権の拡大に歯止めをかけつつ、公共の福祉とのバランスを保とうというものであった。
日本にはこれまで土地の私権と公権との調和を図る法律がなかった。私権が優先するあまり、土地の開発、利用は無秩序になっていたが、それに歯止めをかける初めての法律となった。

田中角栄:

「東京を中心に各地方の主要都市を2、3時間で結んでしまおう。日本は社会資本整備が欧米と比べて格段に遅れている。丁度良い機会じゃないか。日本列島改造だよ」

後藤田:

「土地の私有権をどうするかが大きなポイントだった。税制を高くして、土地を市場に出させようとする事も考えた。もっとも原油価格の上昇による狂乱物価が、この改革を失敗に終わらせたがね。政治の理想と現実を痛すぎるほど学んだ」

 

−国会議員時代−

Gotoda 

<昭和49年:まさかの参議院選挙敗退!>

後藤田は内閣副官房長官という仕事を通じて、国会で議員バッジがない者がいかに軽くあしらわれるかを悟った。そして、自分が主張する政策を効率良く推進していくためには、選挙で国民の洗礼を受け自らが政治家となる事が必要だと考えるようになった。
 
しかし、昭和49年7月7日の参議院選挙(徳島)では、対立候補であった農協を支持基盤とする久次米が19万6000票を獲得。後藤田の票は15万3000票にとどまり、後藤田は叩きのめされる事になった。
 
この選挙は、田中のライバルであった三木にも利用され、三木は田中の金権政治を痛烈に批判する。

後藤田:

「自分の人生の最大の汚点だ。しかし、この選挙によって自分の不明をはっきりと知ることができた。私は少し思いあがってたんだな…。選挙に関してはズブの素人に過ぎなかったのに…。…まあとにかく人生の上でプラスになる出来事だった」
 
…開票が終わった後、徳島県警は選挙違反の摘発に乗り出した。そこで後藤田陣営は268人もの検挙者を出すことになる。当時の選挙に携わった者が一致して強調することは、「後藤田は様々な黒い金の流れについて本当に知らなかった。主に田中角栄のルートから不透明な選挙資金が出ていたようだ。」ということであった。この事に関して詳しい事は未だわかっていない。とにもかくにも、選挙の失敗の原因として、彼自身が選挙民の前に出ず、周囲の者達に選挙活動を任せっきりにしていた事が挙げられると考える。ドロドロした選挙活動の実態を把握せずにいたという点は、反省されるべきだろう。
後藤田は、この参院での失敗で大きなダメージを負ったが、後の人生において大きな教訓を得ることになった。

後藤田:

「社会の表と裏、人間の言葉とその心…。その違いを改めて感じた。自分は世の中を甘く見ていた」
 
「私の不徳の致すところと言う以外にない。大変な金権選挙になってしまった。私の方も相手の方も…。相手は農協活動の一環として選挙運動をやったので、なかなか違反にならなかったようだ。私は細部に渡っては今も誤解されている面があるが、話し出すと言い訳になってしまう」

Gotoda 

<昭和49年:一からの出発!…市民との直接の対話>

 選挙敗退後、後藤田は応援してくれた徳島県民と、一人一人直接会って話をする事に決めた。昭和49年11月から51年11月までの2年間、後藤田と後藤田が真に信頼する徳島の支持者、それに妻と長男は県内の殆どを歩き回った。参議院選挙の不始末を詫び、今後の支援を頼みながら歩き続けた。後藤田は、そこで市民からの生の声を聞くことになった。
 
「冷たい」「威張っている」「頭が高い」「言葉遣いが傲慢」…
 色々な意見を聞くたび、それを正して言った。後藤田の何かが変わりはじめた。それまで後藤田は誰とでも気軽に話すということができなかった。それが日一日と直っていった。
 
「おっさん、こんちは」
という気さくな挨拶言葉も段々口にできるようになった。それは後藤田に本来備わっていた性格であったが、33年間埋もれていたその性格をまた浮かびあがらせたのは、他でもない地域の人々との直接の触れ合いであった。
 

小川信雄(後援会長):

「後藤田は、あの2年間の麦ふみで、人間的に1回りも2回りも大きくなった」

Gotoda 

<昭和51年:後藤田初当選。政治家としての第一歩>

 昭和51年11月に衆議院は解散し、12月5日に総選挙が行われた。後藤田は第2位で当選した。この時、齢62歳。後藤田は、この時から別の人生を歩むことになった。

 昭和53年の総裁予備選では、大平正芳を支援し当選へと導いた。

保阪正康(作家):

「総裁予備選の東京地区の戦いは、軍隊式の先頭であった。情報を集め作戦をたて、果敢に行動するというシステムは先頭であり、そして後藤田は指揮官であった。システムを作り、それを末端まで機敏に働かせるというタイプの政治家は、自民党の中にもそうはいない」

Gotoda 

<昭和54年:第二次大平内閣で自治大臣を担当>

 2回目の当選で入閣を果たした後藤田だが、マスコミの風当たりは強かった。かって、選挙違反で大量の検挙者を出した事を持ち出し、「選挙違反の取り締まりを行う自治省の長として後藤田は適任ではない」とする記事は、決して少ないものではなかった。

 ロッキード事件で逮捕された田中角栄にアドバイスをしているとの情報も飛び交い、批判の的にされた。

Gotoda 

<昭和56年:大平総理死去。鈴木内閣時代、行財政調査会副会長に就任>

 この頃から、後藤田は、当時行政管理庁長官であった中曽根康弘と接触を持つようになる。月に一回会っては3時間以上、行政改革について語り合う。そうしているうちに、後藤田は、彼が本気で改革に取り組むつもりである事を感じ取った。後藤田は、旧内務官僚の後輩である中曽根に対して、「国家とはいかにあるべきか、日本はどの方向に進むべきか」と言った真剣な議論を戦わせ、共通の基盤を確認していった。

後藤田:

「私は、中曽根さんとは全く肌があわない。好きとか嫌いとかいう表現を使えば、決して好きではない。でもその事と、ともに仕事をすることとは別問題だ。その点は僕は割りきっている。…それにね、あの人の行政改革は歴史的偉業だよ」

Gotoda 

<昭和57年〜昭和62年:大きく飛躍! 官房長官、総務庁長官を歴任>

68歳〜73歳

 昭和57年から昭和62年の間は、後藤田が代議士に当選してから7年目−12年目の期間にあたるが、この時期は後藤田にとって大きな飛躍の時期となった。この期間、中曽根内閣は3次に渡ったが、後藤田は官房長官、行政管理庁長官、総務庁長官、そして、再び官房長官を務めた。一貫して閣内にあったのは後藤田ただ一人である。中曽根内閣は、官僚政治家後藤田が、その能力と手腕を存分に発揮した舞台ともいえた。

 彼は、中曽根首相や第2次臨時行政調査会において会長に選ばれた経団連名誉会長の土光敏夫らとともに、国鉄の民営化など、行政の範囲を抜本的に見直す行政改革を推進していった。

後藤田:

 「行政改革を進めるにあたっては、各省庁の縄張り意識がもっとも障害になる。これを打破しなければならない。そのためには中曽根総理が各閣僚を通してではなく、直接に担当官庁の官僚を呼びつけて、説得にあたる必要があるだろうと考え、そういったシステムの整備に尽力した。…「官邸主導型の政治」とか言ってマスコミは批判したが、これは全くのオカド違いだ。行革を実現するためには、官邸がどういう考え方をして、どのような方向性を目指しているかといった明確な顔が必要なんだ。民主制のもとでこそリーダーシップが必要で、それが欠如していてはバラバラになってしまう」

「僕は憲法を評価しているよ。日本の社会は全体としては良くなっている。占領軍の押しつけという理由から中曽根君は改憲論者であったわけだが、僕自身は安易に自衛隊を海外に出すなとずっと主張していた」

「なにしろ役人だけはね、おどしただけでは使えない。うまく頼んでみたり、方向を示して、『まあ後は存分にやってくれよ』と言って、やる気を起こさせなければならない。実際にやればそれなりの評価をするということもはっきりさせておかないと、みんなやらない。役人にそっぽ向かれたら、それこそ仕事が全然できない」

参考文献:保阪正康(1998)『後藤田正晴』文春文庫