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ミュージカル「異国の丘」


劇団四季のオリジナルミュージカル「異国の丘」を観て参りました。
ある程度以上のご年齢であればご承知の向きも多いかと思いますが、このミュージカルのタイトルは同名の軍歌から取っております。異国の寒空の下、いつか祖国へ帰る日を思った兵士の歌です(歌詞を本頁末に載せましたので、もし御存知でない方は是非ご一読頂ければと思います)。

ミュージカル「異国の丘」は、近衛文麿首相の息子、近衛文隆の波乱に満ちた人生を描きます。

『夢顔さんによろしく〈上・下〉―最後の貴公子・近衛文隆の生涯』(西木正明、文芸春秋、1999年)を題材とし、近衛文隆の大まかな人生は史実通りですが、ディテールは可也脚色されています。
従いまして、所謂歴史物とは言い難い部分がありますが、然しシベリア抑留について、当時の日本の決断について、考えさせる作品です。

ストーリーは、米国プリンストン大学に留学中の近衛文隆が同じく留学中であった蒋介石の姪と恋仲に落ち、日本の上海攻撃で一旦は別れるものの、やがて文隆は近衛首相の、蒋介石の姪は蒋介石の間を取り持ち、日中和平を目指しますが、戦争継続を望む日中の人々に阻まれてあと一歩で実現せず、その後文隆は兵役で満州へ赴き終戦を迎え、11年間のシベリア抑留中に死亡する、というものです。

劇団四季の主催者であり本ミュージカルの演出家である浅利慶太氏は、こう語ります。
「私は戦争ならなんでも反対というような、単純な反戦論者ではない。人間の歴史の中には、戦わなければならない戦争がある。例えば外国が我々の国土を軍事占領し、民族を隷属させようとする事態が起こったらどうだろう。当然、武器を取って立ち上がり、家族を、民族を、祖国を護るために戦わなければならない。侵略者を撃退し、二度とそうした事態を招かないようにしなければならない。そのためには、命を捨てることも受け入れる。これは、私自身が日本人であるための、最低の覚悟だと思っている。ナチズムやテロリズムのように無辜の市民を襲う暴力に対しても戦うだろう。」

全くその通りだと感じます。

その当たり前の感覚が欠如しているのは世界的にも珍しいでしょう。植民地支配の中で祖国の感覚が薄くなってしまった香港などでは多少そうした傾向が見られますが、日本のように長い歴史を持ち、ほぼ同一民族からなる国で、この意識が薄い国は殆ど無いのでは、と思います。

「異国の丘」は、是非とも多くの方に観て頂きたいミュージカルです。

<軍歌「異国の丘」>

軍歌「異国の丘」 作詞:増田幸治/補作詞:佐伯孝夫/作曲:吉田正/編曲:坂下晃
今日も暮れゆく異国の丘に 友よつらかろ切なかろ がまんだ待ってろ嵐が過ぎりゃ 帰る日もくる春がくる
今日も更けゆく異国の丘に 夢も寒かろ冷たかろ  泣いて笑って唄ってたえりゃ   望む日がくる朝がくる
今日も昨日も異国の丘に  重い雪空陽がうすい  倒れちゃならない祖国の土に  たどりつくまでその日まで

余談ですが、軍歌=軍国主義、という図式から抜け出せない人が特に左系に多いようですが、決してそんなことはありません。日本の軍歌は、単に勇ましい戦意高揚歌ばかりではなく、寧ろ戦地に赴く厳しさや寂しさを歌ったものが少なくないのです。この「異国の丘」もそうした軍歌の一つです。
そうした意味に於いて軍歌は立派な日本音楽の一分野であり、歌い継いでいくべきだと感じます。


<『夢顔さんによろしく〈上・下〉―最後の貴公子・近衛文隆の生涯』(西木正明、文芸春秋、1999年)のラフストーリー>
名門近衛家の長男文隆は父文麿の勧めでプリンストン大学へ留学、学業よりも遊びに興じる一方で西洋を学んでいく。
文麿の総理就任に伴い、かねてより学業成績の芳しくなかった文隆は帰国を命ぜられ、首相秘書官を務めることになる。この間に後にゾルゲ事件の主犯となるゾルゲ、尾崎と親交を深める。
当初は単なる局地戦だった日支戦争は軍部の強硬論に押されて徐々に戦線を拡大、近衛文麿総理の蒋介石政権との和平折衝工作も失敗に終る。そんな中、文麿の意向もあり時局打開の糸口を見つけるべく文隆は上海へ渡航、近衛家がかつて設立した上海の大学へ事務員として赴任する。
上海でもプリンストン時代同様に豪遊する文隆に、或る日、蒋介石政権幹部の娘が接近する。二人は恋に落ち、また日支友好の志も同じくしたことから、文隆はその手引きで蒋介石政権のある重慶へ向かおうとするも、直前で日本憲兵隊に発覚、阻止されて失敗に終る。
この件で日本軍に反戦的として目をつけられた文隆は二等兵として召集され、入営後満州へ渡り、昇級試験を経て士官となる。そこへかつて恋仲に落ちた蒋介石政権幹部の娘が日本憲兵隊の息の掛かった中国人反重慶政府組織に殺されたことを知らせる手紙が届く。
その後文隆は本願寺の息女と見合い結婚し、二人で満州へ赴任。文隆の舞台はソ連との国境最前線近くではあったものの、特段実戦も無く日々を過ごしていた。その頃日本では、ゾルゲ事件にてゾルゲ、尾崎に死刑が執行される。
やがて戦局の悪化とソ連の満州への侵攻により文隆はソ連軍捕虜となってしまう。その後、シベリア、モスクワなどソ連各地の収容所を回り過酷な生活と労働、取り調べの日々を送る。そんな文隆に、ソ連政府は早期帰国と引き替えにソ連のスパイとなることを勧めるが、文隆はこれを断固拒否する。
やがて日本とソ連間の交流が再開され、日ソ国交回復へと向かう。そのような社会情勢の変化により帰国の機運高まる戦後11年目のある日、帰国を目前にして文隆はシベリアで謎の病死を遂げる。
家族へ宛てた葉書の中に「夢顔さんによろしく」という謎の言葉を残して。

2003年9月