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善光寺と布引観音


「牛に引かれて善光寺詣り」と申しますが、この由来となった布引観音と善光寺についてご紹介します。


【布引観音の歩き方】

JR小諸駅発バスで行く事も出来るようですが、バス停からも相当の距離があるようですので、基本的には車での訪問をお勧めします。
布引観音は布引山中にあります。左写真が参道入り口ですが、ここからひたすら険しい山道を登って行く事になります。尚、境内には自動車がありましたので寺務所の方に他のルートが無いかお伺いしたところ、山野反対側から車で入るルートもありますが、駐車場が無いことと、参道は矢張りこの山道なので、参拝は是非とも山を上ってきて下さい、とのことでした。

山道の参道を登る途中には滝や牛馬の形をした岩、木彫り仏像など、多くの見所がありますので、焦らず、ゆっくりと上ってきて下さい。

10分ほど上ると古い山門(仁王門)が見えて来ます。この山門の真上にそびえたつ崖に観音堂があり、ここから見上げる観音堂は京都清水寺にも喩えられるそうです。この山門から更に急な山道を観音堂へ上っていくのが本来の参道だったようですが現在は立ち入り禁止になっており、山門を通り過ぎて緩やかな階段を寺務所へ上っていくルートとなっています。恐らく、山道が厳しすぎて危険な為、参道を変更したのではないか、と思います。

参道を更に数分登ると寺務所へ出ます。この寺務所からの観音堂が一番綺麗に見えるのではないか、と思いますので、少し休憩も兼ねて景色を楽しんでみては如何でしょうか。

寺務所から観音堂へ向かう途中には、岸壁をくり抜いた洞窟を抜けます。この洞窟は、高さが男性の身長程度しかありませんので、注意しましょう。
洞窟を抜けたところで、目の前に真っ赤な色鮮やかな観音堂が見えて来ます。布引観音の伝説の元となっている観音様はこの観音堂の中に安置されています。

と、ここまでが観音堂までの歩き方なのですが、観音堂の奥には実は更に道が続いています。崖沿いの、高所恐怖症の方には厳しいかもしれない、観音堂奥から続く道を抜けると、山頂へと続く登山道になります。

この山頂への道ですが、はっきり申し上げて「危ない」です。崖と斜面をところどころにある手すりと樹木を手掛りに上っていくことになります。体力とバランス感覚に自身の無い方は、絶対に止めたほうが良いと思います。

山頂へ向かう途中に木製ベンチが置いてある朽ちかけた展望台があり、ここから小諸市内を一望でき、景色としてはなかなかの絶景です。
山頂には、以前、お堂か何かがあった跡が残っていますが、基本的には何もありませんので、この展望台で戻っても良いのではないか、と思います。


【布引観音】(右写真はクリックすると拡大します)

一般に布引観音といわれていますが、天台宗布引山釈尊寺が正式な名称です。また、信濃三十三観音霊場の第二十六番札所でもあります。

創建年代は、神亀元年(724年)に行基によって開かれたと伝えられていますが、それを裏付けるものは特に無い為、正確なところは不明です。

近世以降の記録では、天文17年(1548年)武田信玄が楽厳寺入道・布下仁兵衛を攻略した際に一旦焼失し、その後、弘治2年(1556年)に望月城主であった滋野左衛門佐が再建するも、享保8年(1723年)に再び焼失したようで、現存する伽藍の大半は小諸城主牧野周防守康明によって再建されたものとのことです。
観音堂内にある「宮殿」は昭和24年5月30日に国の重要文化財、「白山社社殿」は県宝に指定されています

布引観音寺務所から頂戴した縁起を記した紙には以下の通りありました。

<布引山釈尊寺縁起

牛に引かれて布引の 山々布引く釈尊寺 御寺を詣る人々は 山の縁起をたづね見よ
寺は聖武の御時に 僧の行基が開基より 西行法師も三年へて 晒らす御歌を残しけり
それその昔なつかしく 千曲川辺の赤岩や 信心浅き夫婦等が 世にも稀なる言ひ傳ひ
或日媼は留守居して 川に布をば晒せしが 一匹の牛現れて 布をば角にかけり行く
媼驚き後追いて 北へ走れば善光寺 思はず詣る御仏の 光り仰ぎてひざまづく
戻りて仰ぐ布引や 山風時にあれいでて それかと見れば岩上に 晒せし布を吹きつけぬ
今布岩の名もそれよ 取るにすべなき岩壁を 見る見る媼は日を過し いつか化石となりにけり
翁媼を探しきて 化石となれる悲しみに 岩にまばゆき布見つつ 烟と遂に消へ失せぬ
後人それを憐れんで 祠を立ててまつれるか 牛と化せしもありがたや 聖徳太子の観世音
霊験日々に新たにて 光りかがやく布引の 山の真清水くむ人は 心すまさぬものぞなき


「牛に引かれて善光寺詣り」の伝承は、ディテールは結構細かく違っているものがたくさん残っているようですが、一応、オリジナルのストーリーは上記だと考えてよさそうです。特に、老婆が化石となって、以下のストーリーは、通常は「善光寺で改心し家に帰った老婆は、岩山に観音菩薩を祀り毎日拝み、やがてそこに祠を建てたのが布引観音の始まりです」となっています。化石となって憐れんで祠が建った、という展開は、御仏への信心を語るには些か残酷に聞こえたので、一般に流布する際に修正されたのかもしれません。



【善光寺】

善光寺は「牛に引かれて善光寺詣り」で有名ですが、然し一方でその実情は殆ど知られていません。よくよく調べてみると、むしろ謎だらけのお寺、と言い得ます。

善光寺の創建年代は記録がなく、善光寺縁起では皇極天皇3年(644年)とされていますが、出土物からは7世紀後半の創建ではないか、と推定されています。縁起からは、日本に最初に伝わった仏像がご本尊となったことになっています。

善光寺は記録に残っているだけで11回焼失していますが、現在の本堂は禄16年(1703年)に幕府が松代藩に命じ、設計を甲良豊前宗賀が、棟梁を木村万兵衛が務めて、宝永4年(1707年)に完成したものであり、日本の国宝建築物の中で、東大寺大仏殿、三十三間堂に次ぐナンバー3だそうです。

善光寺は非常に珍しく無宗派ということになっていますが、実際には天台宗と浄土宗の2つの宗教が取り仕切っており、何れも所謂住職役になっています。天台宗の住職が「お貫主(かんす)様」であり山門左手の「大勧進」を本拠地とし、浄土宗の住職が「お上人様」であり仁王門左手の「大本願」を本拠地としており、それぞれ時間をずらし、それぞれの御勤めをされています。ご住職が2宗派それぞれにいる、しかも夫々に相当高い地位、という光景は、正直申せば些か俗に映らなくもありません。

この大勧進と大本願を中心に、25の院と14の坊という小寺に護符される形となっています。尚、院が天台宗、坊が浄土宗です。
天台宗が多いのは、当初は時宗の5坊があったのですが、これが天台宗に振り替わった為です。院と坊は、夫々に宿坊を営み、参拝者の宿泊や参詣手引きを行っています。

また、善光寺の特徴としてとして、ご本尊が本堂正面にはない、ということも挙げられるかと思います。
善光寺本堂は3つに分かれており、ご本尊は左側の瑠璃壇に祭られています。では、真ん中と右は、というと、善光寺の名前の由来にもなった創健者、本田善光と妻の弥生、そして子の善佐が祭られているのです。何も知らずに真ん中に向かってだけお参りをされてしまうと、実はご本尊ではなく本田善光さんにだけお参りをしたことになってしまうので、注意しましょう。

本堂も「撞木造」という独特の造りです。「撞木」とは、鐘を叩くもので、T字型をしており、棟がその形をしていることからこう呼ばれます。


【善光寺ご本尊について】

善光寺のご本尊は、謂わずと知れた7年に一度の御開帳ですが、御開帳で見ることの出来るご本尊は「本物」ではありません。ご本尊を模して作ったという「前立本尊」が公開されているのです。本当のご本尊は絶対の「秘仏」であり、誰もみたことはありませんが、もし本物が存在しているのであれば、伝承では日本に仏教が伝来した際の、即ち日本最古の仏像、ということになります。

ご本尊が秘仏になっている理由は、
1.秘仏にすることで本尊を荘厳する
2.古いので保存を考えて外へ出さない
3.実は拙作若しくは毀損しているので見せられない
4.盗難防止
など諸説がありますが、当然乍ら真実は闇の中です。泊った宿坊の方には「そういうことは考えてはいけません」と言われてしまいました。

善光寺のご本尊は、戦国時代に日本周遊の旅(?)に出られます。
武田信玄と上杉謙信による「川中島の合戦」は善光寺から車で15分ほどですが(右写真は川中島公園にある合戦のブロンズ像)、この合戦の後、上杉と武田はそれぞれ善光寺の宝物を持ち帰ってしまいます。この際、武田氏によって甲斐の国に持ち帰られたご本尊は、その後織田信忠によって岐阜へ移され、更に徳川家康の手によって各地を転々としたのち、豊臣秀吉が京都へ運び、慶長3年(1598年)にやっと長野に戻ってきました。

ご本尊である善光寺阿弥陀如来(阿弥陀三尊像)は、少なくとも前立御本尊から判断する限り、飛鳥・白鳳時代の特徴を有しており、ここから判断する限りにおいては、日本に仏教が伝来したころの最古の仏像というのは、強ち根拠のない話ではないようです。


【布引の伝承について】

善光寺を一躍有名にしている布引の伝承ですが、上記でご紹介した本家本元の布引観音縁起以外にも複数が伝わっています。

代表的なところは以下かと思います。

神亀元年、行基菩薩が絶壁の中腹に観世音菩薩を建立した。この山のふもとには、大の信心ぎらいの老婆がいた。観音さまのお祭りの日に布を乾かすと不吉なことがあるといわれているのに、老婆は千曲川のほとりで布をさらしていた。するとそこに牛が現われ、角に布を巻きつけてかけ出したので、老婆はあわてて後を追った。牛は善光寺まで来て、金堂近くで消えてしまった。日も暮れたので老婆は本堂で一夜を明かすことになった。例の牛が夢に現われてヨダレで字を書いた。
「牛とのみ思いはなちてこの道に、なれを導くおのが心を。」
老婆は大いに悔いて、念仏をとなえながら一夜を明かした。
翌日、家に帰って観音さまにおまいりすると、崖に布が化石となっていた。さては牛は如来の化身であったかと、それからは信仰厚くなり、極楽往生をとげた。以来、この観音を布引観音という。
(梅むら旅館うぐいす亭HPhttp://www.uguisutei.jp/minwa.htmより引用)

布引観音の伝承と大きく異なる部分、及びそれに対する私見を展開させて頂きたいと思います。

1.老婆が布を晒していたのは、布を乾かしてはいけない観音様のお祭りの日であったこと。
何も悪い事をしていない老婆の布を観音さまともあろうものが牛の角に引っ掛けて「奪った」のは都合が悪いので、そもそも老婆が悪かった、という理由付けの為に追加されたエピソードではないか、と想像しています。

2.老婆を導いた牛が善光寺にてヨダレで字を書いた。
この伝承は布引観音には全く出てきません。このエピソードも、観音様の化身である牛がありがたい言葉を残すことで、より神々しさを出そう、という演出だと思われますが、然し流石に口をきくのではなく、ヨダレで字を書く、というところでギリギリのリアリティを出そうとしている節もあります。

3.崖に布が化石となっていた。
布引観音縁起では、老婆が化石になっていますので、明確に元の話を摺り替えています。流石に、元のストーリーでは残酷すぎて、信心を民衆に持たせるには問題だということで修正されたものと想像されます。

さて、「牛」に引かれるのは何故か、という疑問ですが、これについては幾つか説があります。

五来重という方は、熊野詣の先達(案内者)を「御師(おし)」ということから中世善光寺でも同様の呼び名だったのではないか、そして善光寺には先達が信者の列を白布で作った綱で引っ張る事例があること、から「御師が信者を白布で引っ張る様子」が漫画化されて、「牛に引かれて善光寺詣り」になったのではないか、と指摘しています。

また、信濃長谷寺に拠れば、禅の教えに「十牛図」があり、調整できない心を牛に例えて、若い牧童が十の段階を進み、次第にその牛を馴らし、やがて一体化する(覚る)様子を画によって示しているので、布引の牛もそうした過程を表象したものではないか、とのこと。
牛は巨大な力を持ち時として人がコントロール出来ない。それに準えて牛そのものが善でも悪でもないのと同様に、私たちの心の働きもそれ自体としては善でも悪でもないが、私たちの日頃の意識が慳貪な煩悩によって勝手に苦しんでいるにすぎない、とのこと。
(信濃長谷寺HPhttp://www.asahi-net.or.jp/~yg5t-msd/hasedera/reijo29.html


【おまけ:宿坊に泊ろう!】

古来から伝わる善光寺詣りは内陣に一晩御篭りするものでしたが、本殿が国宝指定されてしまいましたので、現在は内陣に泊る事は出来ません。従いまして、最も本来の善光寺詣りに近いのが、宿坊に泊っての参詣ではないか、と思います。

宿坊には、先にも書きました通り天台宗の「院」と浄土宗の「坊」がありますが、今回は予約がギリギリだったこともあり、宿坊組合にお任せし、最勝院という宿坊にお世話になりました。最勝院は全ての宿坊の中でももっとも善光寺(特に大勧進)に近い場所にある院です。

本来の宿坊は、本来は精進料理のみ、当然お酒などご法度、ですが、最近は敬虔な信徒以外も宿泊することから、精進料理をベースにしつつも生臭ものも料理に出ますし、お酒も出ます。

宿坊に泊る最大のメリットは、「お朝事(あさじ)」からじっくりと参加出来ることにあります。最勝院の場合は、ご住職御自ら先導(ご開帳時でしたので檀家代表の方がご案内役)頂き、大変に貴重な経験が出来ました。

先ず朝5時頃に宿坊を出て大勧進の玄関前に並びます。最勝院の宿泊者は、余程の混雑がない限り玄関すぐ前に並べるようです。
ここで、お朝事(簡単に申せば「朝の御勤め」)に向かうご貫主様よりお数珠頂戴を行います。「お数珠頂戴」とは、参道に並ぶ信者に対してお導師が信者の頭を数珠の房で撫でて功徳を授けるという儀式です。これは信者ではなくとも、観光客でも並んでいれば同じ様にやって貰えます。

これが終ると本堂へ。もっと早朝から並んで内陣に座る人々を横目に、最勝院の宿泊者はまっすぐ内々陣に入ることが出来ました。内々陣でご貫主様のお朝事の後、お戒壇巡りをします。「お戒壇巡り」とは瑠璃壇とご三卿の下のロの字型の回廊に入り、ご本尊の真下にある錠前に触れることです。真っ暗の中、壁に手をつけつつ手探りで錠前を探すのは、なかなか神秘的な感覚を味わう事が出来ます。

丁度出てきた頃には、頃合よく、ご貫主様の次にお朝事を終られたお上人様がお帰りになられる時間帯なので、今度は本堂脇に並び、お上人様からお数珠頂戴を頂きます。

取敢えず、お朝事に関連する行事はこれで終わりですが、宿坊に泊った人は、希望があれば内々陣にて祈祷を受けることが出来ます。お志が必要ですが、通常は入ることの出来ないご本尊瑠璃壇の前で名前と願い事を読み上げて頂くのは、なかなか効果がありそうな感じになります。

最近では仲見世沿いの宿坊の中にはピカピカのホテルのような内装にしているところも多いようですが、今回偶々ではありますが宿泊させて頂いた最勝院は、部屋は単に襖で仕切った昔乍らの宿屋、料理も本格的な精進料理ではなかったのですが、一方で、本当の目的である宿坊から善光寺参詣という意味では、非常に満足出来るものでした。ご住職自らご案内頂き、様々なポイントでも大勧進に近いメリットを生かしたサービスが非常に抜きん出ていたと思います。


【参考文献】
『善光寺まいり』、五来重、平凡社、1988年。
『善光寺御開帳公式ハンドブック』、信濃毎日新聞社、2003年。

2003年5月