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目次

(1962)災害派遣中のP2V墜落事故(奄美大島名瀬)

概説

 昭和37年9月3日 手術に必要な血液を空中投下するため災害派遣された鹿屋基地所属のP2V対潜哨戒機が、空中投下のため低空飛行中に奄美市名瀬の蘭館山に衝突、乗員12名と地元住民1名の13名が死亡、した災害派遣史上最悪の事故。現在までの災害派遣での殉職者のうち、およそ1/4がこの事故による。

発端

 毎日新聞(昭和37年9月4日)によると鹿児島県立大島病院で子宮外妊娠の女性(29)の手術の中に550cc出血し貧血状態となった。1400頃連絡を受けた県(衛生部長)は供血者を探すよう指示したが病院から督促がありやむなく災害派遣要請をした。石川3海佐以下12名は海上自衛隊第1航空群所属のP2V 4628号機は要請から約1時間後の血液(輸血用血液1500cc、血漿300cc)を受け取り1545分ごろ(1445とする報道も日経新聞昭和37年9月4日p15)鹿屋基地を飛び立った。

 現在は沖縄(まれに鹿屋)からのヘリもしくはLR-2偵察機が災害派遣を行なう地域である奄美大島地区に対してP2Vを使用したことについて小幡教育局長は昭和37年10月2日の参議院内閣委員会で社民党の鶴園哲夫議員の質問に対し次のように説明している。

まず最初に、P2Vという大型の飛行機を使う必要がどこにあったかという点につきましてお答えいたします。当時鹿屋にはP2V、R4D、SNJ、S55A、四種願の飛行機があったのでございますが、それでR4Dは非常に全天候に弱いものですから、低空で物を落とすという能力に欠けているという点がございます。それからSNJは物を投下するハッチがない、航続能力も低いという点でございます。それから、S55A、これはもちろんヘリコプターでございまして、航続距離が短いという点から、三機はいずれも不工合でございます。ことに当時は台風十七号が台湾の南方にございまして、逐次シナ方面に向かって進んでいるというような余波を受けまして、そういうふうな面には警戒を要する気象状況でありました。したがいまして、以上申し上げました飛行機の性能から申しましても、P2Vは全天候であるから一番妥当であるという判断を現地は下したのであります

事故の経過

 各紙報道等によると事故機は9月3日1700時ごろ名瀬市の海岸に血液を投下すべく一度投下予定地を確認のため通過した後、再度低空より進入しようとしたところ蘭館山(ランカン山)の木と接触、機体は山腹に墜落炎上。また地上の矢之脇町に破片が落下、死者1名、重傷2名、軽傷7名、約30世帯が全焼し、地元消防団等の活動により7時25分ごろ鎮火した。

 なお、1500ごろ女性の手術は地元高校生からの献血で無事終了した。P2V離陸の45分前に終了していることから国会でも取り上げられているが、これに対し、小幡教育局長は上記答弁の中で下記のように答弁している。

それからその次に手術が終わって、そのあとで到着したのではないかという点でありますが、この点につきましては、いろいろ調べたところによりますと、県庁から二時間以内に輸血してもらわないと患者が死ぬという緊急な要請がありまして、P2Vは即時待機しまして、プロペラを回しておったわけでありますが、実際に輸血が現地に、鹿屋で飛行機に到達いたしましたのは、それから一時間後の、あと一時間しかないという時点であります。そのときもし現地で、そういう手術が終わっているとかりにいたしますならば、そういう情報をいち早く要請者側からいただきたいという感じがしたのでありますが、その連絡が十分つかずに飛び立ちまして、残る一時間をもってどうしても求める血清を投下しなければならぬというような、追い詰められた気持で現地に参りまして、しかも現地の投下地点は、非常に狭い海津の一地点を指定されましたものですから、非常に低空で無理をいたしまして、急速旋回の途中で、丘陵にひっかかりまして墜落したものと考えまして、その点非常に残念に思っております
(鶴園哲夫議員の引き返したりやめれたのではないかという質問に対して)その点ごもっともな点であります。私も現地へ参りまして、すぐにいろいろ調べたのであります。その所在の病院長から県庁へ言ってきたのでありますが、やはりその病院長から県庁へ輸血は一応終わった、しかし、あとあとまだ相当足らぬからという含みのある連絡が、そのときほしかったということを私は考えまして、現在非常に残念に思っている次第であります。

 事故を受け救援物資等を輸送や救助のため護衛艦「むらさめ」とUF2飛行艇を派遣したほか、原因調査のため生田防衛政務次官、小幡教育局長、石渡海幕副長を派遣した。

 地元消防団などにより遺体の収容が行なわれ、5日朝火葬の上「むらさめ」に移され同日2200頃鹿屋へ到着、7日には鹿屋基地格納庫で合同慰霊祭が行なわれた。

朝日新聞(昭和37年9月20日)によると地上の被災者および遺族への補償は9月19日決定され、総額1720万円の保証金が支払われた。

その後

 南海日日新聞(平成18年9月4日のweb記事)によると、事故の翌年奄美大島青年会議所が中心となり建立実行委員会を組織昭和33年9月に「くれないの塔」を建立した。平成18年9月3日慰霊祭の会場で楠田豊春JC顧問は「多くの市民の賛同を得て慰霊の塔を建立した。(当時の人々の)心の象徴であるこの場所を今後とも守ってほしいと」述べたとしている。

 名瀬市は33回忌に当たる平成7年「昭和37年9月3日を忘れないため、また、人命救助のため尊い命を捧げた人々の崇高な行為を永遠にかたり継ぐために」として9月3日を「献血の日」として献血の呼びかけを行なっている。

参考文献等

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