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自衛隊の災害派遣について知ることのできるページ

目次

新潟地震

概説

 新潟地震は昭和39年6月16日13時1分に発生した新潟県沖の日本海を震源とするマグニチュード 7.5の地震で、地震・津波および火災により新潟市などに大きな被害をもたらした。(気象庁)死者26人、家屋全半壊・焼失8600戸。(西日本新聞

この地震に対して陸海空自衛隊は発生当日から7月23日まであわせて述べ約108,000人を投入し、鉄道、道路、堤防、港湾の復旧、消火支援、物資・廃棄物輸送、航空写真撮影等にあたった。

自衛隊の活動(新潟県を中心に)

要請まで

 陸海空自衛隊は地震発生直後、それぞれ大きな災害の発生を予測し、災害派遣実施のための準備を開始し、一部部隊を派遣した。

 陸上自衛隊第30普通科連隊(新発田)は当時新潟国体支援の代休中で勤務態勢は手薄であったがあったが地震発生後直ちに非常呼集を行い、連絡幹部班を新潟県庁に派遣するとともに、要請を待ついとまなく部隊を派遣した。(1)

 海上自衛隊は航空機5機をもって、佐渡、新潟付近を偵察するとともに舞鶴在泊の艦艇8隻に救援物資を搭載し15時30分以降順次新潟方面へ向け出港した。

 航空自衛隊は航空救難待機の任務のため新潟空港にあった航空救難群入間分遣隊のヘリが地震発生後すぐさま離陸し、偵察を行った後新潟県地震対策本部に新潟市内の被害状況を報告し、その後航空支援のため待機した。

初動(16日要請後から17日)

 新潟県から陸上自衛隊(第30普通科連隊)に要請(2)がなされたのは16日15時30分であり、県庁において連絡幹部であった小林3佐(第3科主任)に対してであった。海上および航空自衛隊への要請時刻は不明であるが、資料の文脈から17日、到着した部隊に対してであったと見られる。

陸上自衛隊

 第30普通科連隊の先遣部隊は新潟県の要請(取り合えず万代橋の修復)を17時ごろ新潟駅付近で携帯ラジオより知覚し、その後連絡幹部より伝達を受けた。

 第30普通科連隊を除く第12師団隷下部隊は師団長以下ほぼ全員が妙義山(群馬県)で機動および山岳訓練を実施中であったが地震発生を承知した各部隊は直ちに帰隊し師団全力が17日2時に新潟に集結すべく派遣準備にかかった。
 第12師団長広瀬栄一陸将は17日4時40分ごろ新潟県庁に到着し、ここで広範多岐にわたり特に緊急を要する8項目の支援要請を受けた。内容は次のようなものである。

塚田十一郎新潟県知事より広瀬栄一第12師団長への要請項目(3)
孤立被災地帯被災民の救出
信濃川堤防決壊箇所の補修
防疫および給水支援
主要幹線道路の応急開啓および補修
鉄道(新潟駅および焼島駅構内)の応急復旧
昭和石油消火支援作業
水道およびガスの応急復旧作業
日本石油重油漏れ防止作業

 東部方面総監部はまず第一ヘリコプター団などに第12師団の行う偵察行動を支援させ、続いて後方支援関係部隊に、さらに次第に判明する被害の状況に応じ第1師団、第1施設団、第1空挺団に派遣準備を命じ、被害状況がほぼ判明した17日5時に第1師団、第1施設団などを新潟に派遣し第12師団長に配属した。

 山形県庄内地区においては16日より神町(山形県東根市)駐屯部隊(第6師団)約150人が給水および倒壊家屋解体処理支援に当たった。(庄内地区には述べ4804人(最大時530人)を派遣、倒壊家屋処理77戸、給水3350t)

海上自衛隊

 16日に舞鶴を出港した3隻の護衛艦は17日5時新潟港に到着した。新潟県はこれを受け内田一臣1等海佐(第3護衛隊司令)(4)に以下の項目の支援を要請した。

塚田十一郎新潟県知事より内田一臣第3護衛隊司令(舞鶴地方総監部災害派遣部隊指揮官)への要請項目(3)
援助物資の輸送
応急復旧資材の輸送
新潟市民の交通援助
航空自衛隊

 航空自衛隊は16日の地震発生以降部隊を新潟に集結させていたが、17日になってようやく中部航空方面隊に対して次のような要請がなされた。

塚田十一郎新潟県知事より中部航空方面隊への要請項目
被害状況の調査
防災対策連絡

災害派遣活動

 今回の災害派遣活動にける指揮官は広瀬栄一第12師団長が当てられた(海・空は協力関係)県庁3階第1・第2会議室に設置された指揮所は次のようなものであった。(5)

新潟県側自衛隊側
「連絡宿営部長」
吉川国体事務局次長
「第12師団師団長」
陸将広瀬栄一
第12師団幕僚など※
隷下・配属部隊連絡幹部※
 陸幕連絡班(第12師団を支援)
 東部方面総監部連絡班(第12師団を支援)
海上自衛隊災害派遣部隊連絡班
航空自衛隊災害派遣連絡班

 17日朝に第12師団長と災害対策本部長(知事)が会談を行い基本的な調整が行われたが、さらに自衛隊側は県災害対策本部各部の責任者と陸海空自衛隊の幹部とが毎日夕刻に定例会議を開くことを申し入れこの場で情報交換と協議が行われた。(6)

 今回の災害派遣で最も重要な任務となったのは信濃川堤防の締め切りである。河口部分の護岸が、地震と津波によって破壊されたため新潟市の浸水地帯は外水と直結しポンプを動員したとしても排水が不可能な状況となったため、復興のためにはまず、堤防の締め切りが必要だったのである。

 作業は18日から開始され、19日以降第1師団派遣隊(1500人)が左岸を第1施設団(+第12師団の一部)が右岸を担当し海上自衛隊も土嚢などの輸送に協力し、左岸は「復港作戦」右岸は「みなと作戦」と命名された。作業は石油タンクからの石油の流出などもあり泥水と油にまみれながらの作業であったが23日正午には全面締め切りが完了した。

 この後は排水完了後の道路開啓を中心に給水(中部方面隊・東北方面隊から増援を受ける)、防疫、水道・ガス管の掘開、鉄道の啓開、昭和石油消火支援、日本石油重油流出防止堤防構築、物資輸送などが行われた。

新潟県における活動状況図(「新潟地震の記録」新潟県 昭和40年6月16日p194)(272kB jpeg)

撤収

陸上自衛隊

 堤防の締め切り完了とともに部隊の「再編成」(7)の方針が示され、知事との協議の結果第12師団隷下外部隊は6月27日以降、第12師団隷下で新潟県外の部隊と給水部隊は6月29日以降、新潟県所在部隊は6月30日以降に主力が出発することになった。第12師団の部隊は再編成実施後応急救援隊として待機することも合わせて決まった。

 この後応急救援隊の指定が知事の要請により6月30日0時に解除され、残存部隊も7月10日に完全撤収することが決まり、県庁の指揮所(6月29日以降災害派遣部隊連絡本部(残務処理のため))も7月3日に廃止された。

 7月4日以降も第30普通科連隊と第301給水隊の一部が新潟市内で給水支援を続けていたが7月7日の集中豪雨で刈谷田川流域(新潟県内)で発生した水害に転用されたため7月8日に新潟地震に対する災害派遣は終了した。

海上自衛隊

 海上自衛隊舞鶴地方総監部に対しては派遣目的が達成されるにおよび7月1日に7月3日19時以降の撤収を要請し、これによって活動が終了した。

航空自衛隊

 航空自衛隊の県外部隊は6月26日に撤収した。しかし7月23日までの間災害復旧対策用の写真撮影のために活動を行った。

成果

本災害派遣の成果は次のとおり。(全体であるがほぼ新潟県内)

内容陸上自衛隊海上自衛隊航空自衛隊合計
延べ人員87,944人
15,983人3,585人107,512人
車両17,276両83両66両17,425両
航空機429機40機240機709機
築堤2325m--2325m
土嚢作成394,402表--394,402表
土嚢運搬422,364表22,000表-444,364表
道路啓開37,414m--37,414m
物資輸送696.85t
(うち空輸6t)
乾パン91,624食
副食缶詰42,136食
毛布7,500枚
被服3,340点
88t
(うち消火剤空中投下42.6t)
-
人員輸送725人15,447人409人16,581人
給水支援9,805t--9,805t
防疫3,086,710--3,086,710
軌道開啓6,900m--6,900m

最後に

 新潟地震は自衛隊にとっては規模は大きかったものの普通の災害派遣だったと考えられていたと思われる。行政文書ファイル管理簿の検索(新潟地震)で行ったところ防衛庁が管理する資料は0件であり、それらしい資料も発見できなかったためであるが自衛隊史上においてこの災害派遣に特別の意義を見出すことは難しいと思われる。

 新潟地震の災害派遣については当時第12師団司令部第3部防衛班長だった小糸満(本名 草場康夫)が記した日記『草兵日記』(原書房 昭和51年7月20日)若干の体験談が記載されている。

また、草場は現役時代に自身をモチーフにした小説、「新潟地震」(『修親』昭和45年9月号に掲載、『美奈の瀬川』(原書房 昭和48年10月30日)に収録)と「雪震の山河」(『自由』自由社 昭和60年7月号から昭和61年4月号まで)を執筆している。

主要参考文献と関連リンク

(1)
第30普通科連隊の自主派遣規模は約60人(1個中隊規模か)と見られる。(「新潟地震の記録」新潟県 昭和40年6月16日)
(2)
少数勢力を集中運用するためとりあえず万代橋補修に限定
(3)
「新潟地震の記録」新潟県 昭和40年6月16日 P188
(4)
「新潟地震の記録」新潟県には「第3艦隊群」とあるが「第3護衛隊群」隷下の「第3護衛隊」の間違いと思われる。
(5)
「新潟地震の記録」新潟県 昭和40年6月16日の記述より作成。なお※の部分は明示的な記述はないが他の災害派遣などを参考した上でにおそらく存在したと考えられるもの。
(6)
「新潟地震の記録」1964年8月1日 新潟日報社 p104
「自衛隊のある幹部は「隊が現地に来て、まずやることは偵察行動だ。これができてから具体的な作戦行動ということになるのだがこの点お役所の情報の集め方はにぶくて・・・」ともらしていたが、(中略、この間に新潟県および新潟市が情報をうまくあつめられなかったという旨記されている。)自衛隊は現地に進出して協力体制が整うと同時に、毎日定期的に県、市、国鉄などとの作業打ち合わせ会議を開くことを申し入れてきた。すでに述べたように地元の要請を聞き、自らの作戦計画を練るための、これは自衛隊にとって不可欠の会議というわけだ」
(7)
災害派遣では、「再編成(待機)」、「集結待機」などの言葉で「撤収」が語られることがある。狙いとしては正式な撤収までに1段階を設けることにより不必要に民心を不安定にさせないためや、自衛隊広報上「逃げ出した」と誤解されないため、自衛隊員の疲労回復および戦力回復のため、県側としても新たな要請がまだ出せる状態を保てるというメリットがあると見られる。通常「再編成」などの状態に置かれた部隊は営内者の外出や幹部など自宅を駐屯地外に持つ隊員の帰宅が認められない(にくい)などの状態に置かれ1時間待機などの高い即応体制を保つことになる。

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