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自衛隊の災害派遣について知ることのできるページ

目次

ある中隊長の災害派遣(前編)

 災害派遣は人それぞれその感じ方が異なるものである。しかし、その渦中にあった人の感想は災害派遣を知る上で重要なてがかりとなる。

 今回取り上げる題材は小糸満の『草兵日記』(原書房)である。小糸(本名 草場安夫 退官時一等陸佐)は、1923年生まれ。1945年陸軍士官学校を卒業し少尉任官するが終戦により公職追放される。1950年の追放解除後、1951年幹部候補生として警察予備隊入隊。防衛大教官、34普連中隊長、陸幕監理部、防衛研修所等を経て1976年定年退官した人物である。在職中から部内外問わず論文、エッセイ、美術作品等を発表している。

 一般的な自衛官像とは異なる人物ではあるが、自衛官としての経歴を見ると異端児としての扱いを受けていたわけではなさそうだ。そのような草場が38豪雪に中隊長として参加した14日間が約25ページにわたって掲載されている。本書の分量は25年間を530ページに掲載だからたった14日で1年分以上を費やして記述しているということになる。

 では、草場の日記をから公刊資料からは読み取りにくい派遣隊員の思いを明らかにしたい。

出発

 昭和38年2月1日 第34普通科連隊第2中隊長草場三等陸佐はようやく出動命令を受ける。38豪雪の災害派遣は2月3日に新潟県知事から2,000名の増援要請があったことからこれを予期しての(準備)命令と見られる。実際に現地入りしたのは5日朝である。草場はこのときの心境を次のように語る。

 愈々明日出動することに決まった。待ちに待ったこと故、むしろ救われるような思いがする。以前冬山の遭難(大雪山)のとき、用事のため救助にいけないことがあって、いつまでも悔いが残ったことを記憶している。(『草兵日記』p139 昭和38年2月1日分)

移動

 2月4日午後4時25分御殿場を出発した列車は横浜、沼田を経由して一路新潟へ向かう。移動時間は約12時間かかる。このころになると派遣先が越後川口駅付近で分駐する連隊の一部(2個中隊)の指揮官として任務に当たることも判明していたようだ。この節のタイトルはあえて「移動」とした。自衛隊ならば「前進」という言葉のほうがしっくり来るような気がするが、そんな悲壮感もなく列車内は修学旅行のような雰囲気に包まれ、草場眠れなかったのかは列車内で文庫本を読んですごしていたようだ。そのときの様子を草場は次のように語る。

 (前略)鶴見あたりだろうか。元気な隊員たちは修学旅行のように楽しそうだ。明朝からこの隊員たちはへとへとになるまで働くのだ。
 井上政次の「大和古寺」を車中で繰り返し読んでいる。その一節がとても美しいので急に転記してみたくなった。(『草兵日記』p140-141 昭和38年2月4日午後7時50分)
 今十一時十五分。列車は沼田を過ぎて、しきりに山合いに細い汽笛を鳴らしながら進んでいる。窓外はあと四日で満月を迎える上限の月が中空に浮かび、いまだ深くならない雪原に蒼白い影を落としている。(中略)一面の雪国はどんな感情を私に与えるだろうか。これから災害救助に向かう一人の隊長なのに、まるで解放されてひとり旅を愉しんでいるかのような自身を不図おかしく思う。(『草兵日記』p141-142 昭和38年2月5日午前1時)

越後川口(分遣された部隊の長として)

(参考)陸上幕僚監部『38・1豪雪災害派遣誌』より「第1師団新潟派遣隊増援後の態勢」

 2月5日 午前4時ごろ長岡着。草場は2個ico、管理要員、衛生隊員(約130人)を率いて越後川口駅の除雪を行うよう命を受け午前6時に越後川口着。先発隊は川口中学校に分駐所の開設準備ををほぼ整えており、午前7時30分から除雪作業にかかる。(この手際のよさを後日視察に訪れた連隊長から賞賛されている)除雪し、その雪を貨車14両への搭載。これを近くの魚野川へ捨てに行く作業を当日は3回行う(体力温存のため1回減)。

 以降は作業内容に関する記述がない。おそらく同様の作業をしていたのだろう。以降は作業内容に関する記述はなく、2月8日の転進までは草場個人の周囲の話に多くの記述がなされているのでいくつかあげたい。

河野建設大臣(災害対策本部長)の通過

 河野建設大臣は38豪雪の災害対策本部長であり、本災害に対して自衛隊の活用を強力に推し進めた人物である。新聞報道(『読売新聞』昭和38年2月3日朝刊)によれば、被災地域の住民は自衛隊に対して感謝の気持ちが足りないと発言するなど、自衛隊に対してかなり好意的な人物であった。その河野建設相以下視察団の一行が帰京の際、2月5日に乗り換えのため越後川口駅に降り立った。その際大臣に『手を振ってもらった』時のことを感動まじりにこのように記している。(私には理解しがたい表現もあるが、彼はそう感じたのだろう)

 隊員一同は川に雪捨てに行っているので、私と中隊旗手はホームと反対側の雪壁上にたって見送った。反対側のプラットホームはいろいろな知名人で混雑していたので、要件を(陸幕)第三部長に報告した後、私は旗手と二人で反対側の雪壁の白キャンバスの真中に真紅の隊旗と並んで立った。それは私個人を明示するためでなく百数十名の部下を代表して立つためでであった。河野氏は混雑するホームから身を避けるようにして反対側の窓に坐られ、当然発車時、私たちは眸を全く一致せざるを得なかった。大臣は手を挙げられた、そこには河野氏個人も私個人もなかった。美しい心と心が大きな目的のために、人を高貴にする瞬間だけが漂っていた。「有難う。」「しっかりやります。」本当は河野本部長にも状況を報告するように上司から達せられていたのだが、むしろこの無言の対話のほうがはるかによかったと思う。言葉を超えた対話の深さだ。(『草兵日記』p143 昭和38年2月5日午後7時20分)

地元の人々 −人々の好意に戸惑う−

 川口駐屯部隊の長である草場の所には朝から晩まで多くの来客があったようだ。日記に記載されている来客は(1)何かの用があり草場のところにきて話しこんでしまう人。(2)自衛隊の活動に感激し感謝の意を伝えようとする人が多い。しかし、(2)のパターンで訪れる来客に草場は悩んでいたようだ。
 他の災害の場合と同じくいつ部隊が転進・撤退するかわからない中で、来客の厚意に対して十分報いることができないままこの地を離れる可能性が高いこと。そのため厚意が不信感に変わってしまう事態を恐れることや、部外からの慰問品の取り扱いをどうするのか。今でも変わらぬ命題ではあるが、このときの心境を日記から読み取りたい。

 越後の第一夜を迎える。今郵便局のお客さんが見えてひとしきり雪害のすごさを聞いたところだ。(『草兵日記』p143 昭和38年2月5日午後9時)
 今日も無事仕事が終わり保線区の風呂を貰い、夕食をしてストーヴの前に坐っている。(中略)今夜風呂に入りながら保線区の人が、この辺りから静岡の方へ働きに行く人も多いけれど、皆もう帰ってきません、こんな雪深いところに住むのはこりごりだと言っているとのことである。(『草兵日記』p145 昭和38年2月7日午後8時30分)
今、婦人会の人たちが数人訪ねてきて、何かお手伝いでもと申し出られるのだが、未だ鉄道のほうだけしか作業していないので御迷惑をかけたくはない旨簡単に答えて帰って貰った。帰りがけにそのうち一人が「何だか張合いがないみたい。」と言っていたが、私の心としてはいまだ町の仕事は何もしていないのだから、そう答えるより仕方がなかった。(『草兵日記』p145 昭和38年2月6日午後8時30分)
 昨夜は九時に就寝したが、その直後客が突然見えて又話し込んでしまった。客というのは近所の農家の方で、自衛隊の努力に対して非常に感激され、個人として贈物を数箱分持参されたのには、実に有難迷惑な程感謝せざるを得なかった。一応受取っておこうと思う、それにしてもそのうち町ぐるみの厚意の攻勢に遭いそうで困る、本当に困る。私の心を知って呉れる人なら、私がどんな気持ちでいるか分かって貰えよう。たった一人、雪の中で自分自身に語りかけて黙々と働きたかった。非人情になり切って大自然の中に自分自身を試してみたかった。しかしここにも温かい人情があったのだ。案外窮屈な世界が。しかしこれは飽くまで個人的な気持ちであって、多くの隊員を預かる身としては只一人未知の旅たのしむようなわけには行かないのかも知れない。ただ、厚意が美しく素直に終わる場合はよいが、それ以上の関係になるのを危惧する。町への協力或は作業期間も未だ全然不明の今、どんな状態になっても良いように冷静に状況を判断しなければならない。(『草兵日記』p145 昭和38年2月7日午前7時30分)
 今日は中学生からの便りがあり「自衛隊さんが帰ると淋しいのから、もっと居て欲しい。」
 という可愛い文章なので全員に対して先任の佐藤君に読んでもらう優しい心根だ、いつまでも居て手伝ってあげたいが、いつ引揚げの命令が来るか分からない。(『草兵日記』p145 昭和38年2月7日午後9時30分)

 この後草場が危惧していたとおり転進命令が届く、その顛末については次回に掲載したい。


ある中隊長の災害派遣(中編)はこちら

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