
●歴代衆議院議長
まず、戦後新憲法施行後の初代衆議院議長・松岡駒吉は社会党出身である。直前総選挙で社会党が第1党となった事で、政権とともに議長ポストも獲得した。 松岡は労働界出身で、元総同盟会長。反共右派の中心的存在であり、のちにこの流れが同盟・民社党ブロック形成に繋がった。
第2代の幣原喜重郎は昭和初期の協調外交で知られた外交界の長老。戦後復活し首相を務めた後、衆議院に当選、吉田民自党から推され議長に就任した。行政府と立法府 の長を経験した唯一の存在となったが在任中に死去。
第3代・林譲治は土佐の自由民権政治家林有造の子で戦前は鳩山文相秘書官、戦後、吉田茂の又従兄弟にあたる事から重用され、書記官長、副総理から議長、更に自由党幹事長を務めた。
大野伴睦は政界同期の林の後を受け、念願の議長就任。ところが翌日、吉田内閣が抜き打ち解散を行ったため、たった1日の議長の椅子に。選挙後、再び議長に選ばれる が、半年後に今度はバカヤロウ解散が起こり、結局短期間の在任で終った。
バカヤロウ解散で過半数を割った吉田自由党は、野党連合票で議長ポストを失い、改進党の堤康次郎が就任した。堤は西武の創業者で清二・義明の父。戦前から民政党代議士も務め、追放解除後は改進党所属。 国会への初の警官隊導入をした議長として名を残した。
その後、改進党と鳩山派、岸派等が合同して日本民主党が結成、次いで鳩山内閣が発足したのを機に議長も松永東に交代。松永は弁護士出身、戦前は政友会代議士。衆議院解散までの2ヶ月務めた。
総選挙後、与党民主党は三木武吉を議長候補に立てたが、自由党は左右両社会党と組み議長に益谷秀次、副議長に左社の杉山元治郎を推す作戦に出たため破れた。 益谷は判事・弁護士出身で戦前は政友会代議士、戦後は吉田派党人。保守合同後は池田派長老として副総理や幹事長を務めた。
益谷の在任中に保守合同で自由民主党が誕生、また、社会党も左右統一し、初の二大政党下で行われた総選挙後、岸派の長老・星島二郎が議長に就任した。 星島二郎は同郷の犬養木堂の秘書から政界入りし、サンフランシスコ講和会議全権も務めた。星島は警職法改正案を巡る会期延長問題で紛糾した国会正常化の代償として、副議長の椎熊三郎とともに辞任した。
代って選ばれたのは加藤錬五郎。また、副議長には野党・社会党の正木清が選ばれた。
清瀬一郎は東京裁判で東條英機の主任弁護人を務めた事で知られ、民政党代議士として昭和初期に帝国議会で副議長の経験を持つ。 硬骨で鳴る清瀬は公正を期するため、自民党会派を離脱したが、皮肉にも、新安保の強行採決を執行するハメに陥った。 ちなみに新安保可決の時、清瀬を議長席に抱え上げたのは若手議員の頃の金丸信。
船田中は作新学院理事長、あの「政界失楽園」の元の祖父。大野伴睦と同期生で、のちに大野派の代貸しとなった。 日韓国会紛糾の詰め腹を切らされ辞任したが、のちに再び議長。晩年、作新の卒業生江川卓投手の後見役として巨人入りを後押しした事でも知られる。 ちなみに、次弟・藤枝泉介も副議長を務めた。
山口喜久一郎は、戸川猪佐武の「小説吉田学校」で山崎首班工作に暗躍する中井川隆一郎のモデル(実名政治小説なのに、なぜか彼だけ仮名)。 政界「黒い霧」のひとつである東京大証事件に関与し議長を辞任。
綾部健太郎は実業界から政界入りした。作家・菊池寛の京大時代の友人でもある。山口の後を受け議長に就任し「黒い霧」国会を仕切ったが直後の総選挙で落選、 1ヶ月足らずの議長の椅子だった。
中村梅吉は三木武吉の法律事務所に務めた、弁護士出身。三木の子分として一貫し、鳩山派が吉田自由党に復帰した時に三木らとともに戻らなかった「八人の侍」の ひとりでもある。その後は河野派から中曽根派長老。議長就任5ヶ月目に船田前議長の叙勲パーティーで「野党を誤魔化しておいた」と失言し、議長を棒に振った。
前尾繁三郎は大蔵省出身で池田勇人の弟分。宏池会を継承したが、優柔不断が災いして派閥の長を追われた。議長就任に際し、自民党会派を離脱し、以後の慣例を作った。
保利茂は政治記者から政界入りし、吉田、佐藤の側近として鳴らした。ロッキード事件の影響で自民党が大敗し与野党伯仲となった国会の取り仕切り役として議長に就任、 また、この時から副議長を野党第1党に譲る事が慣例化した。任期と中で病気のため辞任、まもなく没した。
保利に代った灘尾弘吉は前尾、椎名悦三郎と並ぶ自民党三賢人のひとり。 親台湾派の灘尾は中国の実力者・登小平副主席来日の際、議長として祝宴に呼ばれたものの「ボクがあまり話してると心配する人もいる」と、そそくさと帰ってしまい、登を苦笑させた。
1980年6月の衆参同時選挙に自民党が圧勝し、これによって伯仲国会が解消した事から、副議長も自民でとるべきとの声が上がる。しかし和を重んじる善幸総理は従来通り野党に譲った事で、議長に福田一、副議長には再び社会党の岡田春夫が就いた.福田一は新聞記者から政界入りした。通産相時代、思い通り次官人事を断行して物議をかもした一件は城山三郎の小説「官僚たちの夏」に詳しい。
福永健司は埼玉県副知事から政界入りし、吉田側近として活躍した長いキャリアの最後を議長で飾ったが、実際には醜い政略の犠牲になってしまった。すなわち、二階堂進を議長に棚上げするため、金丸信が福永を外しを画策し、 老齢で足元がおぼつかない福永は開会式での天皇の前で見苦しいと難癖をつけられ、無理矢理辞任に追い込まれた。議長の地位が派閥の権力抗争に使われた、最も悪質な例だろう。
尤も、二階堂議長は実現せず、代って議長に就いたのは丸メガネがトレードマークの坂田道太。 のちに、竹下後継の総理総裁に擬せられたが、「国権の最高機関の長を務めた自分に格下の総理は務まらない」と断わった。 引退後の2000年には森首相に「故人」扱いされたが、2003年現在、今も健在。
原健三郎は雑誌記者出身、小林旭主演の「渡り鳥」シリーズも手掛けた脚本家でもある。国会在職50年で議事堂に銅像が建つ事が悲願だったが、今もまだ銅像は建っていない。
田村元は大野派-村上派から田中派幹部に収まり、田中派分裂時には派内の中間派を率いて竹下派に与した。それだけに竹下にとっては厄介な存在で、原が予算案強行採決の詰め腹を切らされ辞任後、棚上げの形で議長に推された。 これには本人も戸惑い、「まるで若年寄になった気分」と就任の感想を述べた。ちなみにこの時、田村は65才だが、前任の原は17才年上の82才だったのだ。奇しくも老齢議員の名誉職化を象徴していた。
田村の言葉通り、総選挙後の議長職は本来の長老・78才の櫻内義雄に回り、櫻内は次の総選挙までの3年、81才まで務めた。
この総選挙で自民党は野党に転落し、議長には社会党から、そして女性として初めて土井たか子が選ばれる。だがこれは、小沢一郎がウルサイ土井を棚上げするため画策した結果とも言われる。 土井は議員の「君」付けを止め「さん」付けで呼ぶ事に努めたが、土井以後はまた元に戻ってしまった。
その後、政権は自民党に戻り、議長ポストも自民党に戻った。副議長の渡部恒三は新進党出身、しかし任期の終った時には新進党が消滅していた。渡部としては人的繋がりのある民主党に戻るべきところだったが、民主党の推す後任副議長候補の石井一を自民党が嫌ったため、野党系の渡部が自民党に推される奇妙な形で副議長に再任された。 2003年で7年に及ぶ副議長在任の最長記録を更新中である。
●歴代参議院議長
「良識の府」と称される参議院を長く象徴したのは緑風会である。第1回選挙直後に作家の山本有三らを中心に無所属議員74名で結成され、 この中から初代〜第4代までの参議院議長が選ばれた。初代の松平恒雄は会津藩主松平容保の4男で秩父宮妃勢津子の父。外交官を経て宮中入りし、最後の宮内大臣を務めた後、昭和22年の第1回参議院選挙に当選、初代議長に選ばれたが、在任中に急死した。
第2代、3代の佐藤尚武は外相、駐ソ大使を務めた外交界の長老。
第4代の河井弥八は内務官僚出身、議長を辞任直後の参議院選挙では落選した。
55年体制の成立で参議院も政党化が進み緑風会は衰退、第5代には自民党の松野鶴平が選ばれ、以後議長ポストも与党・自民党の戦利品的色彩を帯びてくる。松野鶴平は頼三(農相・自民党総務会長)の父、「ヅル平」と呼ばれ、院外団から代議士にのし上がり、戦後は吉田茂の引き出しにひと役を買った。
重宗雄三は明電舎社長で岸・佐藤兄弟に繋がる山口県出身。3期9年にわたりに議長に君臨し参議院自民党に「重宗王国」を築いたが、そのワンマン振りが反発を買い、最後はクーデター的に議長を降ろされた。重宗は「三角大福」の名づけ親でもある。
河野謙三は一郎の弟・洋平の叔父。参議院改革を唱えて議長選に出馬し重宗を引き降ろし、重宗のダミー木内も投票で破って議長に就いた。 河野は自民党会派を離脱し、以後これは慣例となった。
河野が2期6年で議長を退任した後は前自民党参議院議員会長の安井謙が就任。以後、参議院会長から議長になるのが自民党参議院議員の出世コースの「上がり」として定式化する。また、与野党伯仲を受けて、副議長を野党から選ぶ事もここから慣例化した。安井謙は、官選知事から戦後初代の東京都知事となり3期務めた誠一郎の弟、原文兵衛は警視総監から政界入り、木村睦男は運輸省から政界に入り自主憲法制定運動を展開したタカ派議員。
議長が一丁上がりポストにならなかったのは土屋義彦。議長を辞任した翌年、強引に埼玉県知事選挙に出馬して当選して現在、3期目を務めている。
斎藤十朗は父・昇急死の後を継いだ世襲議員。参議院改革に熱を入れ近年珍しく2期目も務めたが、比例区での非拘束名簿式を導入する公職選挙法改正を巡り国会審議ストップとなった一件の詰め腹を切らされ辞任した。
井上裕は秘書給与授受疑惑で辞任、議員も辞職した。衆議院の山口以来、参議院では初の不祥事で辞任の議長という汚点を残した。