
赤城宗徳 あかぎ・むねのり(1904〜1993)
茨城県出身。東京帝国大学卒。上野村村長を経て1937年(昭和12年)衆議院当選。戦後、公職追放。52年、総選挙で当選し政界に復帰。 岸派に属す。57年第1次岸信介内閣の農相、58年第2次岸信介内閣の官房長官、防衛庁長官を歴任する。安保騒動に際しては 岸首相に治安維持のため自衛隊出動を打診されるが反対する。岸派分裂後は川島派・椎名派に属す。 71年佐藤榮作内閣で農相に再任。79年椎名派解散後、三木派に入会。80年反主流派の刷新連盟座長として大平批判の先頭にたち、 大平内閣不信任案決議に欠席。90年政界を引退。平将門の研究家で著作もある。
浅沼稲次郎 あさぬま・いねじろう(1898〜1960)
東京都・三宅島出身。早稲田大学卒業。在学中建設者同盟を結成して社会主義運動に没頭。1925年(大正15年)農民労働党書記長となり、以後、労働農民党、日本大衆党、全国労農党の組織部長等を務め衆議院議員。戦後、社会党結成に参加し1948年(昭和23年)書記長に就任。51年社会党分裂で右派社会党書記長。55年左右統一後は書記長として鈴木茂三郎委員長のもとで左派に接近し、59年訪中の際には「米帝国主義は日中両国民協同の敵」と演説した。60年3月の党大会で左派の支持を受け委員長に選出され、安保闘争を指導。同年10月12日、日々谷公会堂での3党首立会演説会で演説中、右翼少年に刺され死亡した。演説の巧みな現実政治家として「人間機関車」「ヌマさん」の愛称で親しまれた。
飛鳥田一雄 あすかた・いちお(1915〜1990)
神奈川県出身。明治大学卒業。弁護士となるが労働運動にも積極的に参加。戦後、社会党結成に参加し横浜市議、神奈川県議を経て衆議院議員。六十年安保では論客として活躍。1963年(昭和38年)横浜市長に当選。全国革新市長会を結成し会長に就任。東京、神奈川などで革新知事が誕生すると革新自治体構想を提唱して政府自民党との対決姿勢をとった。 社会党内では左派の平和同志会に属し、74年党副委員長。77年、成田知巳辞任後、社会主義協会と反協会派の激しい抗争で揺れる中、委員長に就任。横浜市長を辞し79年から東京1区で衆議院議員。「百万党」建設を旗印に党再生に取り組む一方、従来の「全野党共闘」路線を棚上げし公明党とのあいだで共産党の排除を明記した連合政権構想を成立させ、更に公明党をブリッジにした社公民選挙協力に舵を切るが、80年5月に提出した大平内閣不信任決議案がハプニング解散を招きダブル選挙に敗北。 党内抗争も再燃し、82年には若手の馬場昇書記長起用が右派の反発を呼びわずか10ヶ月で辞任に追い込まれ、更に後任の平林書記長は2ヶ月後に急死。混乱のまま迎えた83年参議院選挙に敗北、委員長を辞任した。
荒船清十郎 あらふね・せいじゅうろう(1907〜1980)
埼玉県出身。明治大学中退。家業の織物業、秩父銀行等を経営。村議、県議を経て1946年(昭和21年)自由党から戦後第1回衆院選に当選。公職追放を受けたが解除後、再び衆院選議員。大野、川島−椎名派。66年第一次佐藤栄作内閣の運輸相の時、自分の選挙区にある深谷駅を急行停車駅に指定して世論の批判を受け辞任。 70年衆議院副議長となるが、72年舌禍事件を起こしまたもや辞任に追い込まれた。76年衆議院予算委員長としてロッキード事件の証人喚問を取り仕切った事は有名。76年三木改造、77年福田改造内閣でそれぞれ行政管理庁長官。椎名派解散後は無派閥ながら非主流派の立場から、79年の四十日抗争では大平退陣の強硬論の先鋒になった。
石田一松 いしだ・いちまつ(1902〜1956)
広島県出身。法政大学卒。在学中の1920年(大正9年)演歌師となり、代表作「ノンキ節」等で人気を博す。戦後、1946年以後東京から衆議院議員に当選4回。国民党、国協党を経て民主党所属。 52年、講和条約・安保条約批准に反対し民主党を脱党。
石田博英 いしだ・ひろひで(1914〜1993)
秋田県出身。早稲田大学卒。在学中に、初出馬した三木武夫の応援に赴く。中外商業新報(日本経済新聞の前身)に入社し上海支局長、政治部次長を歴任。 1947年衆議院選に出馬し自由党から当選。「叛乱軍」を称して吉田茂のワンマン体制に反対する先鋒に立つ。石橋湛山に師事し、鳩山退陣にともなう56年の自民党総裁選では 石橋派の参謀として、人事の空手形を乱発して各派の切り崩しを行い、岸有利という大方の予想を覆して決選投票で石橋に逆転勝利をもたらす。 石橋内閣の官房長官となるが、石橋がわずか3ヶ月で病気退陣、岸信介を後任に推した。岸・池田・佐藤の各内閣で労相。三池争議・安保闘争で高揚した労働運動の対策にあたったほか ILO批准に努め「石田労政」の時代を築く。また自民党ニューライトの論客として鳴らし「保守政党のビジョン」などの論文が注目を集めた。石橋の政界引退後、派閥を引き継いだが、71年に三木派に合流。 74年三木政権では幹事長代理、76年運輸相、引き続き福田内閣で再び労相。超党派の日ソ友好議員連盟会長を務めた。83年引退。
石橋政嗣 いしばし・まさし(1924〜)
台湾生まれ。1944年(昭和19年)台北経済専門学校卒業。復員後、米軍の長崎県佐世保基地で進駐軍労務者となり、53年長崎県労組評議会議長。55年左派社会党から衆議院当選。和田博雄に私淑し左派のホープとして注目され、のち勝間田清一派。70年成田委員長のもとで書記長となり、以来77年まで連続4期で成田・石橋体制。 副委員長を経て83年委員長。自衛隊を「違憲・合法的存在」とするなど、従来の路線から一歩踏み出した「ニュー社会党」を提唱、更に綱領「日本における社会主義への道」を見直し「新宣言」を採択するなど現実路線を推進したが、86年衆参ダブル選挙に大敗を喫し辞任。90年政界を引退。
井出一太郎 いで・いちたろう(1912〜1996)
長野県出身。京都帝国大卒。作家丸岡秀子の弟、井出孫六の兄。家業の醸酒業を継ぎ、戦後岳父小山邦太郎の地盤を受け継ぎ 1946年国民党から衆議院議員当選。協同党との合併で国民協同党に所属し、以来三木の忠実な同志として政治行動を共にする。 石橋・岸内閣で農相、佐藤内閣で郵政相を歴任。三木内閣発足で官房長官に就任。その後も三木派代表世話人、四十日抗争では非主流派「自民党をよくする会」会長を務め三木の側近中の側近として活躍した。 80年に三木派が河本敏夫に引き継がれてからは派閥を退き、86年政界引退。アララギ系の歌人吉植庄亮に師事した文人政治家としても知られる。
伊藤宗一郎 いとう・そういちろう(1924〜2001)
宮城県出身。東北大学卒。1948年(昭和23年)読売新聞社に政治記者として入社。河野一郎の秘書に転じ60年衆議院初当選。 河野の死後は三木派に属す。鈴木内閣で防衛庁長官に就任し、初入閣の感想を「男子の本懐」と述べたのは有名。竹下内閣で科学技術庁長官。96年衆議院議長に就任。
稲葉 修 いなば・おさむ(1909〜1992)
新潟県出身。中央大学法学部卒。同大学教授から1949年(昭和24年)衆院選に民主党から当選。自民党河野派から、同派分裂後は中曽根派の幹部となる。72年第1次田中内閣で文相として初入閣。74年三木内閣の法相就任。 「日本国憲法は欠陥憲法」と発言し物議をかもす。歯に衣を着せぬ発言は稲葉節と呼ばれ、ロッキード事件では「これまで逮捕した連中は相撲に例えれば十両か前頭。これからどんどん好取組が見られる」などと大相撲の横綱審議委員も務める 好角家らしい軽妙な国会答弁で湧かせたが、これが反主流派の反発を呼んだ。その後も中曽根派内の強硬派として大角主流派に反発し、80年の大平内閣不信任案採決には中尾栄一とただふたり中曽根派から欠席したが、直後の同日選挙では落選。3年後に返り咲く。90年引退
犬養 健 いぬかい・たける(1896〜1960)
東京都出身。東京帝国大学文学部中退。木堂・犬養毅の長男。白樺派の作家として創作集『南京六月祭』等を発表する。政友会総裁に就任した父木堂の秘書として政界入りし1930年(昭和5年)総選挙に東京2区から当選。5.15事件で木堂死後はその地盤岡山選挙区に移る。 木堂の遺志を継ぎ日中和平を志し、汪精衛政権樹立を援けたが、1941年ゾルゲ事件に連座し逮捕される。翌42年の翼賛選挙は非推薦で当選を果たす。戦後、幣原内閣で外務政務次官。進歩党結成に参加し、総務会長に就任。1947年(昭和22年)民主党結成で最高委員に選ばれるが、公職追放。48年解除され、昭和電工疑獄で芦田逮捕後の民主党総裁に就任。49年総選挙後、吉田民自党との連立唱え、民主党は連立派と野党派に分裂した。50年、民主党連立派の大部分を民自党に合流させたが、自身は無所属にとどまる。 翌51年に自由党(民自党改称)入党。52年、第四次吉田内閣の法相就任。第5次吉田内閣でも留任。54年4月、造船疑獄事件で佐藤栄作自由党幹事長逮捕阻止の指揮権を発動し、辞任した。その後自民党では同期生の大野伴睦派の客分。晩年、日中和平運動を回顧した『揚子江は今も流れている』を著した。
臼井荘一 うすい・そういち(1902〜1987)
東京都出身。早稲田大学卒。家業のセメント製造業を継ぎ、千葉市議、県議を経て1952年(昭和27年)衆議院当選。第三次池田改造、第一次佐藤内閣で総理府総務長官に就任。76年落選し息子の日出男に地盤を譲り一旦引退、しかし81年の参議院補選に担ぎ出され当選、83年まで務めた。
宇都宮徳馬 うつのみや・とくま(1906〜2000)
東京都出身。京都大学中退。父は陸軍大将宇都宮太郎。製薬会社ミノファーゲン本舗を興し社長。1952年(昭和27年)から衆議院当選10回。 改進党に入党。自民党では石橋派に所属。その後石田博英らと三木派に入会。自民党内でも最も左寄りの異色政治家として知られ、65年にはハト派議員の集まりであるアジア・アフリカ研究会(AA研)を 創設し代表世話人を務めた。74年三木内閣の組閣にあたっては三木首相が入閣候補に予定していたが、党内の強い反対で逸した。ロッキード事件が発覚すると自民党の金権体質を批判し離党。79年総選挙で落選し 参議院に転じ80年から2期当選。日中友好に努め、また軍縮問題に熱心で私費を投じて「軍縮問題資料」を発刊し続けた。
江田三郎 えだ・さぶろう(1907〜1977)
岡山県出身。東京商大中退。在学中に山上武雄の影響を受け農民運動に参加し、1931年(昭和6年)全国大衆党に入党。37年岡山県会議員となるが38年人民戦線事件で検挙。出獄後、43年北京にわたり華北政務委員会工務総署弁事となる。 戦後帰国し岡山県農民組合書記となり日本社会党入党。48年昭和電工疑獄に関係した西尾末広の除名提案演説で有名になる。50年参議院議員当選(のち衆議院)。左派のホープとして活躍した。60年3月書記長となり浅沼稲次郎委員長とともに安保・三池闘争を指導。浅沼暗殺後委員長代行となり、初の三党首テレビ討論では温厚な白髪の風貌とソフトな語り口調が従来の社会党にない指導者として好評を博した。61年、 構造改革路線を打ち出して、以来、党内に激しい構造改革論争を巻き起こす。62年党大会で「江田ビジョン」が最左派・社会主義協会、佐々木派に反対決議され書記長辞任。68年再び書記長。70年野党再編のための「社公民」路線を提唱して委員長選に出馬するが敗北。74年副委員長。76年民社党の佐々木良作、公明党の矢野絢也らと「新しい日本を考える会」を発足させる。これに対抗して協会派を中心とする左派は三月会を結成し党内抗争激化。 76年12月衆議院選挙に落選。77年2月党大会は江田糾弾会の様相を呈し、3月離党。社会市民連合を結成したが、直後に急死した。
大出 俊 おおいで・しゅん(1922〜2001)
神奈川県出身。逓信官吏練習所卒業。全逓本部副委員長、総評副議長を経て、1963年(昭和38年)社会党衆議院議員。安保・防衛問題に精通し、予算委員会で政府与党を追及してはしばしば審議をストッブさせ、「国会止め男」の異名をとった。86年国対委員長。94年村山内閣の郵政大臣就任。96年政界引退。
大野伴睦 おおの・ばんぼく(1890〜1964)
岐阜県出身。明治大学中退。政友会の院外団に入り東京市議を経て1930年(昭和5年)岐阜1区から衆議院に当選。政友会鳩山派。42年の翼賛選挙では落選。戦後は鳩山一郎の日本自由党結成に参加し、河野一郎が公職追放の後を受け吉田茂のお目付け役として幹事長就任。48年、昭電疑獄に連座し起訴されるが、51年無罪判決。当初、吉田茂とは対立関係にあったが、鳩山の追放解除後は三木武吉、河野らと対立し吉田派に転じ、林譲治、益谷秀次とともに「党人御三家」として優遇される。52年衆議院議長就任、53年には第五次吉田内閣に国務相・北海道開発庁長官として入閣、次いで自由党総務会長に就任。 吉田辞職後、自由党が野党に転じた後は三木武吉と和解し、ともに保守合同を進め1955年の自由民主党結成で総裁代行委員に就任。57年副総裁。岸信介首相から協力の見返りに後継総裁の念書をもらったが反古にされ、60年、岸退陣後の総裁選出馬を表明するが直前で断念、党人連合を組み石井光次郎を支持するが池田勇人に敗れる。その後池田に接近し61年再び副総裁。「伴ちゃん」の愛称で親しまれ「政治は義理と人情だ」等の名言を残した。また力道山の後見人となり第2代の日本プロレスリング・コミッショナーも務めた。
岡田勢一 おかだ・せいいち(1892〜1972)
徳島県出身。大阪造船学校卒。造船所見習からたたき上げて岡田組設立.「日本のサルベージ王」と言われた。1946年無所属で衆議院当選。のち国民協同党所属。国協党中央常任委員会議長、書記長。48年芦田均内閣の運輸相。55年落選し引退
春日一幸 かすが・いっこう(1910〜1989)
岐阜県出身。名古屋逓信講習所高等科卒。名古屋市中央電話局に入るが、詩人を志して単身上京、生田春月に師事。その後名古屋に戻り春日楽器製造会社を設立。1947年(昭和22年)愛知県議会議員選挙に出馬し当選。52年愛知一区から衆議院議員当選。右派社会党に属す。 左右統一後、党中小企業局長。60年民主社会党結成に参加。67年書記長、71年急死した西村栄一の後をうけ第3代委員長。77年委員長を辞任しその後は党常任顧問。反共を掲げ中道勢力結集をはかるとともに自民党にも接近し、74年田中角栄退陣後には自民党を巻き込んだ野党政権樹立を画策、 更に78年自民党総裁選直後に非主流派と、また79年の四十日抗争でも分裂した自民党との連合を模索したが、いずれも実を結ばなかった。独特の演説口調は「春日節」と呼ばれた。
片山 哲 かたやま・てつ(1887〜1978)
和歌山県出身。東京帝国大学法学部卒。弁護士となり労働争議や小作争議の解決に取り組んだ。1926年(大正15年)社会民衆党結成に参加し書記長、30年(昭和5年)第2回普選で当選。32年全国労農大衆党と合併して社会大衆党が結成され書記長となったが、40年、反軍演説した斎藤隆夫の除名決議に反対して西尾末廣らとともに党を離れた。戦後、45年11月の社会党結成で書記長に選ばれ、46〜50年に初代委員長。47年5月総選挙で社会党が第1党となり民主、国協両党と連立で内閣を組織したが党内の対立で48年2月に総辞職、決断が遅く「グズ哲」と酷評されることもしばしばだった。49年2月総選挙で落選。右派社会党から社会党顧問。59年、西尾らと離党し60年1月民主社会党を結成し最高顧問となった。63年落選し引退。日中文化交流協会初代会長。
勝間田清一 かつまた・せいいち(1908〜1989)
静岡県出身。京都帝国大学農学部卒。1931年(昭和6年)農林省に入りいわゆる革新官僚となり、41年、企画院調査官在任中に企画院事件に連座した。戦後、片山内閣の経済安定本部長官だった和田博雄の秘書官となり47年総選挙に当選。50年の森戸・稲村論争では調停役として社会党を「階級的大衆政党」と位置付けた。左派社会党を経て、55年統一後の社会党では国対委員長、政審会長を歴任。62年江田三郎らとの構造改革論争で社会主義理論委員会の事務局長として62年に「日本における社会主義への道」をまとめ論争を決着させた。67年委員長に就任したが、68年参議院選挙敗北の責任を取り辞任。78年社会主義理論センター所長。83年から86年まで衆議院副議長を務めた。
河上丈太郎 かわかみ・じょうたろう(1889〜1965)
東京都出身。東京帝国大学卒。クリスチャンの父の影響で少年時代に洗礼を受ける。東大法学部卒業後、立教、明治学院等の講師を経て1918年(大正7年)関西学院大教授となる一方、東大新人会とともに無産運動に参加し、26年(昭和2年)に日本労農党入党。 28年第1回普通選挙に当選。日本大衆党、全国労農大衆党、社会大衆党等を経て、40年大政翼賛会の総務となり、42年の翼賛選挙で推薦される。戦後、社会党結成に参加するが、公職追放。51年追放解除され52年に右派社会党委員長に就任。55年統一後は社会党顧問。60年安保闘争の最中には背中を刺され重傷を負った。61年3月委員長に就任。65年5月病気のため委員長を辞し、間もなく没した。
川崎秀二 かわさき・ひでじ(1911〜1978)
大阪府出身。早稲田大学卒。戦前の民政党代議士川崎克の次男。日本放送協会企画部副部長を経て1947年三重県の父親の地盤を継いで 衆議院当選。改進党国対委員長。1955年第2次鳩山内閣の厚相。66年松村派に参加。日中友好促進に尽力、また、日本陸上競技連盟理事も務めた。
菅野和太郎 かんの・わたろう(1895〜1976)
愛媛県出身。京都帝国大学卒。彦根高商、大阪商科大学等の教授を歴任。経済学博士。1936年(昭和11年)大阪市教育部長就任。1942年(昭和17年)4月衆議院議員選挙に立候補して初当選。戦後、公職追放となり、解除後の1952年、大阪一区から再び衆議院議員当選。 1959年(昭和34年)6月、第ニ次岸改造内閣の経済企画庁長官として初入閣、さらに佐藤内閣の通商産業大臣兼万博担当大臣、その後再び経済企画庁長官を務めた。学者として経済史の研究書多数。
清瀬一郎 きよせ・いちろう(1884〜1967)
兵庫県出身。京都帝国大卒。弁護士から政界入りし1920年(大正9年)衆議院当選。28年衆議院副議長。国民党、革新倶楽部などを経て国民同盟に転じ幹事長。戦時中は翼賛会・翼政会・日政会の総務。戦後東京裁判で東條英機元首相・大将の主任弁護人を務めた事でも知られる。 その後公職追放。追放解除後は改進党から衆議院当選6回。松村謙三らとともに三木派に属す。改進党幹事長、日本民主党政調会長を経て鳩山内閣で文相。憲法9条の範囲内で再軍備可能とする清瀬理論を提唱。また、日米新安保条約の強行採決の時の衆議院議長だった。
鯨岡兵輔 くじらおか・ひょうすけ(1915〜2003)
福島県出身。早稲田大学卒。父親の経営する鯨岡製袋に入社しのち社長。足立区議、東京都議を経て1963年衆議院当選。 三木改造内閣で官房副長官。80年環境庁長官。田中・竹下派支配に批判的だったため冷遇され当選回数の割にはその後入閣できなかったが、環境・軍縮、政治倫理問題に熱心な議員として活躍した。92年河本派を離脱。93年衆議院副議長。 東京選出議員の長老として都知事選では度々党本部の方針に反発し一時離党もする。2000年引退。
久次米健太郎 くじめ・けんたろう(1908〜1980)
徳島県出身。中央大学中退。三木派の徳島県議4期を務めたのち、1968年徳島地方区から参議院議員に当選。74年の参議院選挙では田中派の後藤田正晴との公認争いに敗れて無所属で出馬。三角代理戦争と呼ばれる激しい選挙戦を繰り広げ、 これが三木の田中内閣副総理辞任のきっかけを招いた。80年再び公認争いに敗れ引退。県農協中央会長も務めた。
河野金昇 こうの・きんしょう(1910〜1958)
愛知県出身。早稲田大学政治経済科卒。在学中より中野正剛に私淑し、1933年(昭和8年)卒業後、国見同盟政策研究倶楽部員となり政策の調査立案に従事、1940年には中野の東方会に入り、組織宣伝部員として党勢の拡張に活躍。 戦後、1946年(昭和21年)4月の衆議院議員選挙に無所属で出馬し当選。三木武夫らと協同民主党の結成に参画。以後国民協同党、国民民主党、改進党、日本民主党を経て自由民主党。この間、国民協同党常任中央委員、国民民主党副幹事長、改進党副幹事長、日本民主党総務等の要職を歴任。 1955年、第二次鳩山内閣の三木運輸大臣のもとで運輸政務次官に就任した。
河本敏夫 こうもと・としお(1911〜2001)
兵庫県出身。日本大学卒。高校時代に反軍演説をして放校処分になる。日大在学中から親戚の経営する三光海運(のち三光汽船)の取締役になり、1937年(昭和12年)社長。戦後吉田内閣の海運政策に反発して49年衆院選に出馬、民主党から当選。「日本のオナシス」と称された豊富な財力で 三木派の資金を担当して同派の幹部となる。68年佐藤内閣の郵政相で初入閣。74年三木内閣で通産相。三木おろしに際しては徹底抗戦を提唱して三木首相を支えた。 福田内閣で政調会長、通産相、大平内閣でも政調会長歴任。一貫して積極財政論を展開した。78年の総裁予備選に立候補するが最下位に敗れる。80年三木から派閥を譲り受け河本派を結成。82年の総裁予備選では中曽根康弘に次点で敗れた。85年に三光汽船が倒産し、責任をとって閣僚を辞任。 89年の総裁選には出馬の意欲を見せたが竹下派の意向で断念、自派の海部俊樹を支持した。93年には衆議院議長に推す声もあったが自民党が政権を失い実現しなかった。寡黙で滅多に笑顔を見せないことから「笑わん殿下」と呼ばれた。1996年に政界を引退。
小山邦太郎 こやま・くにたろう(1889〜1981)
長野県出身。神戸高中退。1914年(大正3年)家業の蚕糸業を継ぐ。1928年(昭和3年)第1回普通選挙に当選、以降連続6回当選。鶴見祐輔らと明成会を結成。1929年、民政党に入党。1940年米内内閣の海軍参与官、1945年鈴木貫太郎内閣の陸軍政務次官。 蚕糸業国策運動を起こし31年蚕糸業組合法成立に特別委員会委員長として尽す。1946年(昭和21年)全国森連会長。公職追放となり解除後50年から小諸市長をつとめ56年参議院議員に当選。3期つとめ74年引退。井出一太郎は女婿。
坂田道太 さかた・みちた(1916〜2004)
熊本県出身。東京帝国大学卒。八代市文書課長、石井光次郎商工相秘書官を経て、1946年(昭和21年)総選挙に自由党から当選。石井派から無派閥。57年の岸内閣の厚相。文教政策のエキスパートで、68年佐藤内閣文相となり全国的に広がった大学紛争の処理にあたり大学臨時措置法を成立させた。 74年、三木内閣の防衛庁長官。「三木おろし」に際しては、政争による自衛隊員の士気への影響を顧慮して中立を貫く。81年鈴木内閣の法相。85年衆議院議長。89年総理総裁の打診を受けるが、「議長を務めた私に格下の総理は務まらない」と拒絶した。90年政界引退。
坂本三十次 さかもと・みそじ(1923〜2006)
石川県出身。東北帝国大学卒。1967年衆議院議員初当選。83年第2次中曽根内閣の労相として初入閣。90年第2次海部内閣の官房長官。 竹下派の影響下で主体性を失いがちな海部政権にあって、三木直系の硬骨漢として海部首相を支えた。2000年総選挙には出馬せず引退。
佐々木更三 ささき・こうぞう(1900〜1985)
宮城県出身。貧農の三男に生まれ、24才で上京し働きながら日大専門部政治学科に学び卒業後は労働運動に専念。1931年(昭和6年)全農宮城県連書記。38年人民戦線事件で検挙。戦後、社会党結成に参加し、47年衆議院議員に当選。51年社会党分裂後は左派に属す。社会主義協会(協会派)だったが、55年統一後、親中的立場から親ソ路線の協会を離れ社会主義研究会(佐々木派)結成、左派の領袖として西尾末廣、江田三郎ら右派と対抗した。副委員長を経て、65年、委員長就任。 67年健康保険特例法案賛否を巡り党と対立して辞任。その後は反協会派として江田派とも共闘。76年衆議院選挙に落選。ズーズー弁で「ササコー」の愛称で親しまれた。
佐々木良作 ささき・りょうさく(1915〜2000)
兵庫県出身。京都帝国大学卒。日本発送電に入社。日本電気産業労働組合の初代書記長に就き、1947年(昭和22年)参議院選挙に全国区から無所属で当選、一期務めた後、55年右派社会党から衆議院兵庫5区に出馬して当選。60年の民社党結成に参加し、国対委員長、書記長、副委員長を歴任。77年、ライバルでもあった春日一幸の後をうけて委員長。 書記長時代から政界再編に強い意欲を示し、江田三郎社会党書記長、矢野絢也公明党書記長との「江公民」路線による野党再編を模索したほか、田中退陣まぎわの74年暮れ、反主流派の三木武夫と保革連合政権を模索、委員長時代の84年には、自民党総裁選における二階堂進副総裁擁立劇にも関与するなど「五五年体制」の打破を目指した。 85年委員長を辞任。90年政界引退。
笹森順造 ささもり・じゅんぞう(1886〜1976)
青森県出身。早稲田大学卒。アメリカに留学し1916年(大正5年)デンバー大学卒業。東奥義塾、青山学院長を歴任し戦後政界入り。 最初衆議院、のち参議院議員。47年片山連立内閣に国協党から入閣し国務相(復員庁長官、48年賠償庁長官)。その後自民党では両院議員総会長を務めた。
志賀健次郎 しが・けんじろう(1903〜1994)
岩手県出身。早稲田大学卒。朝日新聞記者から大日本産業報国会情報部長。戦後衆議院議員に当選し改進党から自民党。1962年(昭和37年)第2次池田内閣防衛庁長官。69年(昭和44年)総選挙に落選し引退。
鈴木茂三郎 すずき・もさぶろう(1893〜1970)
愛知県出身。早稲田大学卒。大学卒業後、読売新聞、東京日日新聞等の記者。この間、1922年(大正11年)共産党入党。27年(昭和2年)山川均らの『労農』同人。28年無産大衆党結成に参加し書記長。以後、山川の共同戦線党理論に基き日本大衆党、全国大衆党、全国労農大衆党等に参加。36年、加藤勘十らと労農無産協議会(のち日本無産党)を結成するが、37年、人民戦線事件で検挙.戦後、社会党結成に参加、また、46年から衆議院議員に当選、左派の指導者として活躍。47年5月、片山社会党政権ができると「共産党との絶縁」を声明したが、党内的には五月会を結成して左派を結集し右派に対抗、48年2月、予算委員長として政府予算案を否決して片山内閣を崩壊に追いこんだ。 51年1月委員長となり、「青年よ銃を取るな」と挨拶、また、「平和4原則」を掲げ全面講和を主張した。同年10月講和条約の是非を巡り社会党分裂後は左派社会党委員長。55年社会党統一委員長に就任。60年辞任後は社会主義理論委員会委員長となり、64年、「日本における社会主義への道」を作成した.
田川誠一 たがわ・せいいち(1918〜)
神奈川県出身。慶応大学卒。河野洋平の従兄弟。朝日新聞社に入社し、同社労組委員長等を務める。1960年(昭和35年)参議院選挙に当選。河野・中曽根派。松村謙三系の日中友好派。76年河野洋平らと自民党から離党し新自由クラブ結成。西岡武夫離党後、幹事長。79年河野に代り代表。83年自民党と連立を組み、第二次中曽根内閣の自治相。86年自民党がダブル選挙に大勝し連立解消。新自由クラブは解散後し河野らは自民党に復帰したがひとり留まり進歩党結成。93年引退し進歩党も解散。
竹山祐太郎 たけやま・ゆうたろう(1901〜1982)
静岡県出身。東京帝国大卒。農商務省に入省し、農林技官として全国の農村を歩いた。戦後全農指導部長を経て衆議院当選。 国民協同党で書記長代理を務める。1954年鳩山内閣の建設相として入閣。1967年静岡県知事選に出馬し当選。2期務めた。参議院議員竹山裕は息子。
田中伊三次 たなか・いさじ(1906〜1987)
京都府出身。立命館大学卒。京都市議・府議を経て1942年(昭和17年)衆議院当選。戦後公職追放。解除後は自民党で石井派。 石橋・岸内閣の自治庁長官、1963年衆議院副議長。佐藤内閣、田中内閣の法相。73年8月、田中内閣の法相当時発生した 金大中拉致事件ではKCIA(韓国中央情報部)の関与を示唆する発言で注目される。また、ロッキード事件では航空機問題特別委員会の委員長に就任し、党内の反対を押し切って灰色高官名を公表するなど硬骨漢振りを発揮した。 三木派に入会し反金権政治の立場から大平内閣退陣の急先鋒に立つ。80年の大平内閣不信任後の総選挙では無所属で出馬。その後も超党派の政治倫理確立議員懇談会で田中角栄の議員辞職を 要求した。
田中 覚 たなか・さとる(1910〜2002)
三重県出身。東京帝国大卒。1934年(昭和9年)農林省に入省。三重県部長等を経て1955年、当時の全国最年少で三重県知事に当選。5期約17年務め、 四日市コンビナート誘致に尽したが、公害が表面化するとその対策にもかかわった。任期中の1972年(昭和47年)衆議院議員に立候補し当選。 76年落選し77年参議院三重地方区から新自由クラブ公認で立候補するが落選。三木武夫の妻・睦子の義弟。
谷川和穂 たにがわ かずお(1930〜)
広島県出身。慶大卒。父・谷川昇の後を継ぎ1958年(昭和33年)旧広島2区から衆議院議員に立候補し当選。 以来当選12回。三木−河本−高村派。82年、第一次中曽根内閣の防衛庁長官として初入閣。しかし翌83年総選挙では現職大臣の身で落選。 その際、興奮してテレビのインタビューアーに食って掛かる様が全国放映された。86年総選挙で返り咲き88年宇野内閣の法相。 その後旧河本派代表世話人、また自民党総裁選挙管理委員長などを務めた。2003年引退。
中村三之丞 なかむら・さんのじょう(1894〜1979)
京都府出身。早稲田大学卒。大蔵大臣秘書官などを経て、民政党から衆議院議員に当選し通算当選8回。1937年近衛内閣の大蔵参与官。戦後公職追放になり、解除後1953年より改進党から当選。 57年、第1次岸内閣の運輸大臣。 著書に「インフレーションへの警告」「英国の総選挙」等
中村寅太 なかむら・とらた(1902〜1978)
福岡県出身。糸島農学校卒。農業のかたわら普選運動に参加。戦後農村青年同盟を結成し、1947年衆議院当選。49年農民協同党結成に参加し書記長。改進党結成に参加。佐藤内閣で運輸相、国家公安委員長。 早川崇、菅野和太郎らとともに三木派内の福田支持グループを形成。76年引退。
灘尾弘吉 なだお・ひろきち(1899〜1994)
広島県出身。東京帝国大学卒。内務省に入り1941年(昭和16年)大分県知事。その後内務省生活局長、地方局長を歴任し45年内務次官。 戦後公職追放。解除後、52年衆議院議員当選。自由党で緒方竹虎派、緒方の死後は自民党石井派。56年から石橋内閣、第一次・第二次の 岸内閣で文相に就任し勤務評定闘争が高まる日教組対策にあたった。58年岸首相の政治姿勢に反対して三木・池田とともに閣僚辞任。 61年第二次池田内閣で厚相。63年第三次池田、67年第二次佐藤内閣でも文相に就任し教育改革を推進。高潔な人柄と超然とした政治姿勢から椎名悦三郎、前尾繁三郎とともに自民党の三賢人と称され、66年総裁選挙では立候補していないにもかかわらず11票が投じられた。 74年三木政権下で総務会長。76年三木おろしに際しては円満な三木退陣を意図して党内の取りまとめに務めた。79年病気辞任した保利茂に替わって衆議院議長。四十日抗争の時には非主流派の総裁候補に擬せられたが議長に再任。 83年引退。長年にわたって全国社会福祉協議会会長を務めた。
成田知巳 なりた・ともみ(1912〜1979)
香川県出身。東京帝国大学卒。1935年(昭和10年)三井鉱山に入社。戦後、三井化学の最年少課長となるが、財閥に革新の望みなしとして意見書を提出して退職。47年社会党から衆議院当選。左右分裂時には左派に属し、両社統一委員会事務局長もつとめる。統一後は政審会長を経て62年書記長となり左派佐々木派・右派江田派の仲介役として挙党体制確立に努力。 68年より委員長。社共共闘を軸とする全野党共闘路線を推進する。77年参議院選挙敗北で引責辞任。書記長時代に社会党の労組依存体質からの脱却等の体質改善を目指した「成田三原則」を唱えたが、長期低落に歯止めをかけられなかった。
西岡武夫 にしおか・たけお(1936〜)
長崎県出身。早稲田大学卒。父親は長崎県知事竹次郎。大学在学中より長崎民友新聞を経営、1963年(昭和38年)衆議院議員に初当選。 文教族の代表的議員。76年河野洋平らと新自由クラブを結党し幹事長。しかし保守刷新を掲げる西岡に対して中道志向を強めた河野洋平とが路線問題で対立し79年離党。その後自民党復党。竹下内閣で文部大臣。海部内閣で総務会長。93年再び離党、 新進党結成に参加し幹事長。新進党解党により自由党結党に参加、副党首。98年長崎県知事選挙に出馬し敗北。2000年衆議院選挙にも落選。 2001年参議院議員に当選。
早川 崇 はやかわ・たかし(1916〜1982)
和歌山県出身。東京帝国大卒。紀州民報社社長、みやこ新聞社副社長を経て1946年(昭和21年)の戦後第1回の衆議院選挙に初当選。国民党に所属。 協同民主党に合流し国民協同党、さらに国民民主党、改進党、民主党に参加。保守合同で自民党。第2次池田改造内閣で自治相として初入閣、第3次池田内閣にも留任するがライシャワー事件で引責辞任。 国協党以来の三木派幹部だが政治的思想的立場は岸・佐藤寄りで、池田・佐藤が全面対決した64年の総裁選では池田支持の三木の意向に反して佐藤に投票。「早川忍者部隊」の異名を取った。佐藤内閣で労相、自治相。 72年総裁選では三木も立候補しているのに福田に投票し、三木派から除名され福田派に転じた。しかし三木おろしでは福田派の強硬な三木おろしには批判的だった事から内閣改造で三木首相に入閣を要請され、 これに反対の福田の意向を無視して厚相で入閣するなど三木擁護の姿勢を取った。学者肌で、政治学や英国政党史に関する著作・訳書もある。
原 健三郎 はら・けんざぶろう(1907〜2004)
兵庫県出身。早稲田大学卒。アメリカ留学ののち講談社に入社し、雑誌「現代」編集長等を務める。戦後政界入りし、1946年(昭和21年)から連続20回衆議院当選。進歩党・民主党を経て、自由党。61年衆議院副議長、68年第2次佐藤内閣の労相就任。71年、第3次佐藤改造内閣で再び労相に就任するが、72年、地元淡路島の成人式での発言が老人軽視と批判を浴び辞任した。 大野・船田派から同派解散後は中曽根派に転じ、80年、鈴木善幸内閣で国土庁長官、86年には衆議院議長に就任。88年の消費税国会の舞台回しに務めたが、翌89年、予算案強行採決の国会混乱の引責で辞任。土下座して支持を訴える選挙運動で知られ、96年に尾崎行雄、三木武夫に次ぐ在職50年を迎える。が、悲願の3人目の銅像は国会に建てられぬまま、2000年に遂に引退した。 小林旭主演の日活映画「渡り鳥シリーズ」の原案者としても有名。
福田赳夫 ふくだ・たけお(1905〜1995)
群馬県出身。東京帝国大学卒。大蔵省に入り官房長、銀行局長を経て戦後、主計局長。1948年(昭和23年)昭和電工疑獄で収賄の嫌疑により収容され、のち退官。52年吉田内閣の「抜き打ち解散」による総選挙に群馬三区から立候補し無所属で当選。 岸信介門下に入り、57年から岸政権の政調会長・幹事長・農相を歴任する。60年12月池田政権の政調会長に就任するが「高度経済成長政策は両3年内に破綻を来す」と池田財政を厳しく批判、更に党風刷新連盟を結成して派閥解消を提唱し、 反主流派として池田時代は干された。佐藤政権の誕生により65年蔵相就任。66年11月幹事長、68年再び蔵相。71年外相に転じ沖縄返還等あたった。 ポスト佐藤の最有力視されていたが72年7月所謂「角福戦争」の総裁選で田中角栄に敗れる。12月第二次田中内閣の行政管理庁長官、73年11月には三度蔵相に就任し緊縮財政でインフレ克服に務めた。 74年7月、田中内閣の金権政治を批判し辞任。12月三木内閣の副総理・経済企画庁長官。76年12月、三木おろしを経て漸く政権の座に就く。福田内閣は東南アジア諸国歴訪や「福田ドクトリン」の発表、日中平和条約締結等の外交成果を挙げたが、内政では 国会の与野党伯仲状況や党内基盤の弱さから目立った結果を残せなかった。三木おろしの際、一期2年で大平に譲るとした「大福密約」があったとされるが「福田再選は天の声」と78年11月総裁公選に再出馬、 しかし予備選挙で大平に大差で敗れ「天の声にもたまには変な声がある」と警句を吐いて本選挙を辞退し退陣した。79年11月、所謂「四十日抗争」では非主流派統一候補として本会議首班指名選挙に立候補するが、再び大平に敗れた。 86年安倍晋太郎に派閥を譲り、第一線を退く。90年に政界引退。引退後も「世界のフクダ」を称しOBサミットで存在感を示した。
福田篤泰 ふくだ・とくやす(1906〜1992)
東京都出身。東京帝国大学卒。外務省入省。中国勤務などを経て、戦後は吉田外相兼首相の秘書官。1949年(昭和24年)自由党より衆議院当選。 59年第二次岸改造内閣で総理府総務長官就任。以後、防衛庁長官、行政管理庁長官を歴任。76年三木改造内閣で郵政相就任。水田派から三木派に転じた。
藤井勝志 ふじい・かつし(1915〜1996)
岡山県出身。東京帝国大学法学部卒。岡山県議3期、井笠鉄道監査役、協同民主党県支部書記長などを経て、1960年(昭和35年)衆議院初当選。 国民協同党県支部書記長時代からの三木派。大蔵政務次官、通産政務次官などを歴任し76年福田内閣の労働大臣に就任。 79年総務会長代理。三木派の論客として、党役員会などで田中派支配を批判した。86年引退。
船田享ニ ふなだ・きょうじ(1898〜1970)
栃木県出身。東京帝国大学法学部卒。兄は船田中(衆議院議長)弟は藤枝泉介(衆議院副議長)。東大大学院を経てローマ法研究のため朝鮮総督府在外研究員として、仏、独、伊、英に留学。 法学博士。京城帝国大学教授。戦後、作新学院理事長。1946年(昭和21年)公職追放中の兄・中に替り協同民主党から衆議院当選。 47年国民協同党結成に参加。同党政調会長。48年、芦田連立内閣で国務大臣(行政管理庁長官)就任。52年学究生活に戻り、 東京、東北、早稲田等の各大学の講師。作新学院女子短期大学副学長に就任。
古井喜実 ふるい・よしみ(1903〜1995)
鳥取県出身。東京帝国大学法学部卒。在学中に高文試験合格、1925年(大正14)内務省入省。42年地方局長就任。のち茨城県知事、警保局長、内務次官等を歴任。 敗戦後公職追放になり退官。解除後の1952年(昭和27年)衆議院議員に当選。60年第2次池田内閣の厚相就任。三木派から松村派を経て無派閥。78年第1次大平内閣の法相。 松村謙三と共に自民党内の中国通として知られ、日中友好議員連盟会長、日中友好会館初代館長等を務めた。
本名 武 ほんな・たけし(1911〜1991)
北海道出身。帯広市議を経て、1946年(昭和21年)の戦後第1回の衆議院選挙に初当選。その後3回連続落選、53年に改進党から返り咲く。 72年、第一次田中内閣内閣で総理府総務長官。79年落選し引退。
松浦周太郎 まつうら・しゅうたろう(1896〜1980)
北海道出身。1937年(昭和12年)衆議院初当選。戦後、改進党副幹事長。1956年、石橋および第一次岸内閣で労相、1964年、第三次池田、第一次佐藤内閣で 運輸相を歴任した。全国木材組合連合会会長。
松野鶴平 まつの・つるへい(1883〜1962)
熊本県出身。城北学館中退。熊本県議を経て1920年(大正9年)衆議院当選。政友会所属。内務政務次官、政友会幹事長を歴任。「選挙の神様」「ヅル平」の異名をとり党内裏工作に巧みだった。40年米内内閣の鉄道大臣。戦後、日本自由党結成に参加するが公職追放。その間、吉田茂の総裁擁立に一役を買い、以後、吉田派の謀将として裏舞台で活躍する。 追放解除後、53年の参議院選挙で当選。自由党参議院議員会長を経て、56年から参議院議長に就任し62年まで務める。議長退任直後に死去。
松野頼三 まつの・らいぞう(1917〜2006)
熊本県出身。慶応大学卒業。松野鶴平の三男。戦後吉田首相の私的顧問役になった父鶴平の縁で吉田の秘書官。1947年(昭和22年)公職追放中の鶴平の地盤から衆議院初当選。自由党吉田派に属する。のち自民党佐藤派所属。 岸内閣の総理府総務長官で初入閣。その後も労相、農相、防衛庁長官を歴任する。また、佐藤派五奉行の一人。72年の総裁選では佐藤首相の意向を受け保利茂らと周山クラブを結成して福田赳夫を支持、佐藤派分裂後は福田派に属した。 74年に三木政権が誕生すると福田派から政調会長として党三役に送りこまれる。しかし次第に三木首相に共鳴して福田離れし、 三木おろしでは三木擁護の姿勢を打ち出した。三木内閣改造にあたって総務会長に転じ引き続き三役に留まる。同時に福田派を離脱。以後無派閥ながら三木派の客分格。79年、グラマン疑惑で証人喚問を受け、自民党を離党し議員も辞職。 直後の総選挙では落選。翌80年総選挙で返り咲く。90年の総選挙で落選し政界を引退。引退後も政界のご意見番としてマスコミで活躍し、細川護煕首相や小泉純一郎首相の指南役も務めた。
松村謙三 まつむら・けんぞう(1883〜1971)
富山県出身。早稲田大学卒。報知新聞社記者から富山県議を経て、1928年(昭和3年)の総選挙(第1回普通選挙)で衆議院議員に当選。 以来当選13回。民政党所属。戦後東久邇宮内閣で厚相兼文相、さらに幣原内閣では農相となり、農地改革を行うが、公職追放のため辞職。 追放解除後は改進党に属し三木武夫と三木・松村派を形成。54年日本民主党結成で政調会長、55年第二次鳩山内閣で文相就任。 保守合同後は反主流派の長老格。59年の総裁選では岸首相に挑戦して出馬し、156票を獲得し健闘した。池田首相退陣の際には河野一郎支持だったが、三木幹事長が佐藤栄作を後任に推したため反官僚政治の立場から独立し、 古井喜実、川崎秀二、笹山茂太郎とともに松村派を結成した。69年引退。日中国交回復に積極的で再三北京を訪問した。
三木武夫 みき・たけお(1907〜1988)
徳島県出身。徳島商業時代、不正会計を批判するストライキを起こして中外商業に転校、理事長の結城豊太郎(のち日銀総裁・蔵相)の知遇を得る。明治大学商学部卒業後アメリカに留学、帰国し明治大学法学部に再入学。1937年(昭和12年)、林銃十郎内閣の「食い逃げ解散」による総選挙に故郷徳島2区から立候補し無所属で全国最年少当選。42年翼賛選挙では非推薦で立候補し当選。45年鈴木貫太郎内閣の軍需省(商工省より改称)参与官就任。戦後、無所属を経て協同民主党結成に参加。国民党との合同による国民協同党結成で書記長就任(事実上の党首)。 47年社会・民主・国民協同3党連立政権に参加し片山内閣に逓信大臣として入閣。50年4月、民主党野党派と合同し国民民主党結成、51年には改進党を結成し幹事長。54年11月日本民主党結成に参加、鳩山内閣の運輸相就任。55年の保守合同には保守2党論の立場から反対する。56年12月の総裁選で石橋湛山を支持し、石橋政権下で幹事長。58年6月第二次岸内閣の経済企画庁長官就任、しかし12月、岸首相の党運営を批判し池田国務相・灘尾文相とともに閣僚辞任。60年7月の総裁選では河野・大野・石井・石橋各派と党人連合を結んで石井光次郎を支持するが池田勇人に敗れる。池田政権下では最初反主流派だったが、のち準主流派に転じ科学技術庁長官、政調会長を歴任する。 63年4月には派閥解消等を提唱した近代化案(三木答申)具申。64年7月池田三選を支持し幹事長就任。11月に池田が病気引退し川島副総裁と党内調整にあたり佐藤政権で引き続き幹事長、65年佐藤内閣改造により通産相就任。通産省の名物次官佐橋滋との軋轢で「佐橋大臣、三木次官」とマスコミに書かれた事もあった。66年12月外相に転じ小笠原返還の処理等にあたる。68年11月、沖縄の核抜き本土並みの全面返還を提唱して外相辞任、佐藤三選に挑戦して総裁選に初出馬。前尾繁三郎を上回り2位獲得。70年10月の佐藤四選にも唯一の挑戦者として立候補し、大方の予想を上回る111票を集めた。72年7月の総裁選に三度立候補したが、69票で最下位に終る。 第一次田中内閣に無任所の副総理で入閣、12月の第二次田中内閣から環境庁長官兼任。74年7月参議院選挙後金権政治を批判し辞任。12月、田中退陣後の「椎名裁定」で第7代自民党総裁、第66代内閣総理大臣就任。三木内閣は政界浄化を最優先課題に掲げ75年4月に政治資金規制法、公職選挙法改正法案を提出、更に独占禁止法の改正に意欲を燃やしたが、党内の激しい反対に合い、選挙ニ法案はかろうじて成立したものの、独禁法改正案は廃案になり、この過程で田中、福田、大平、椎名らとの対立を深めた。76年2月にロッキード事件が発覚するや真相の徹底解明を唱えたが「三木おろし」が発火し、同年12月の総選挙は分裂選挙となり過半数割れの敗北を喫し退陣。80年7月、三木派を解散し河本に派閥を譲る。 その後は自民党最高顧問として田中支配や世代交代に対抗したが、86年脳出血で倒れ7月の総選挙には病床から19回目の当選。87年4月議員在職50年表彰。88年11月死去。
毛利松平 もうり・まつへい(1913〜1985)
愛媛県出身。慶応大学卒。1958年衆議院議員当選。74年三木辞任のあとを受け田中内閣で環境庁長官就任。83年政界引退。日本武道館理事長。
森 美秀 もり・よしひで(1919〜1988)
千葉県出身。森矗昶の子。三木武夫の妻・睦子の弟。玉川学園卒業後、日本冶金工業に入社。戦後は、東亜精機代表取締役、苫小牧ファーム社長などを歴任。 兄・森清の急逝で後継者として政界に転身し1969年(昭和44年)総選挙で初当選。大蔵委員長、自民党国対副委員長、副幹事長、大蔵政務次官、経済企画政務次官などを経て1985年第二次中曽根内閣の環境庁長官に就任した。
森山欽司 もりやま・きんじ(1917〜1987)
栃木県出身。東京帝国大学卒。外務省に入り、外交官補、終戦連絡事務局連絡官。1949年(昭和24年)民主党から初当選。73年第2次田中内閣の科学技術庁長官、78年第1次大平内閣の運輸相を歴任。 三木派内では世話人の一人を務めた。妻は参議院議員・衆議院議員で官房長官や文相を歴任した森山眞弓。
山口敏夫 やまぐち・としお(1940〜)
埼玉県出身。明治大学卒。卒業後と同時に石田博英労相の秘書官となる。1967年(昭和42年)全国最年少議員として衆議院初当選。 石田とともに三木派に属したが、76年のロッキード事件を契機に河野洋平らとともに脱党し新自由クラブを結成。新自由クラブ国対委員長、幹事長を経て84年中曽根政権のとき自民党との連立で労相として初入閣。86年新自由クラブを解散し自民党に復党。中曽根-渡辺派に属した。93年には自民党を再び離党。翌年新進党結成に参加。 95年ニ信組から親族企業への不正融資が発覚し、背任容疑で逮捕された。
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