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速読練習記がそろそろいっぱいになってきた上に、いろいろと別の内容まで入り込んできたので、ここで、『日記』として別体裁に分ける。
ある本に様々なキューブパズルの作り方が載っている。ルービック・キューブのような派手なものではなく、「組み合わせて立方体を作る」というものである。代表的なものは、ピェット・ハイン作のソーマキューブ(小立方体27個)、H.シュタインハウスのシュタインハウス・キューブ(小立方体27個)、ユーレカのキューブなどがある。特に前二者は手ごろなサイズの立方体があればそれを貼りあわせて自作が可能だ。残念ながら市販品は無い。ユーレカのキューブに似たコンセプトの市販品では、PAXESのホームページで注文できる「キューブロック」がある。この月曜日に注文したので、そろそろ届くころなのだが... パズルの中には手作りできるものが多数ある。このページで紹介していくつもりだ。
今日、書店で雑誌を立ち読みしていて知ったのだが、何年か前にオメガ・スピードマスターがデジタル化されていたんだ(正確にはデジアナ・ハイブリッド)。スピードマスターと言えば、アポロ月着陸船の搭乗員にも採用されたアナログの機械式クロノグラフとして有名だったのだが、時代の流れと言うか、デジタル技術が十分な信頼性を獲得したと言うか、すっかり様変わりているのに驚いた。
私自身はアナログの機械式時計が好きで、休日には祖父の遺品のWaltham U.S.A.のウォッチなど持ってお出かけする優雅さである。まぁ、一日に二、三分は前後するが実用上は支障無い。
じゃ、いっそ、時計の表示板をTFTカラー液晶にしてしまったらどうだろう。それで、MPEG動画像で針を表示するのだ。で、お好みにより針や文字盤、あるいはアナログとデジタル表示の切換えなどを変更できる。さらに時計の文字盤にあたる部分に、WindowsやMacOSの壁紙と同じ感覚でユーザーが撮ったデジカムの写真などを表示できるようにする。パソコンとのインターフェースは赤外通信である(受信だけならさほど電力も食わないのでは?)。 OnTimeにはすっきりと白蝶貝柄。After5はポップアート、デートでは彼女とのTwo Shot。ホテルではやばい写真など表示して、これがタイマーで切り替わったらケッサクだ。なんかの拍子に仕事中に彼女とのエッチ写真に切り替わったら、これは楽しい^^; 'WatchOS'なんて、簡易OSをTronか何かをベースにこしらえて、GUIで色んな表示を切り替えるんだ。リューズの横に小さなジョイスティックをつけて操作すればいい。あるいはいっそ、風防をタッチパネルにしてしまうか? そいでもって、サイズは直径38ミリ、厚さ8ミリ(男性用の場合)に収める! こういう技術はパソコンも作っている、あのセイコーさんに頑張っていただきたい。
昨日、キューブロックが届いたので今日は機嫌がよい。しかも、午後からはNHKの粋な計らいで、ギュンター・ワント/ベルリンPOでブルックナーの第九交響曲が聴けるという幸せ。私の払った受信料も浮かばれるというもの。 この曲を初めて聴いたのはもう二十年近く前、同じオーケストラにカラヤン指揮という盤。当時はクラシックと言えばカラヤンだった。「まだ」素直だった高校生の私は素直にカラヤン盤を買ったのだが、これが、恐らくブルックナーのこの名曲の数あるレコードの中でも屈指のゲテモノで、ブルックナーを初めて聴いた私は一度でブルックナーを嫌いになり、その後、十数年もの間聴かなかった。よほどの「カラヤン流」好きでない限り、このレコードを好きにはなれないだろう。 不自然なテンポ設定、ペーペーと金切り声を上げさせられて気の毒な金管群、逆ピラミッド型の中低音軽視の妙なバランス(私はチェロがしっかり聴こえない演奏は許さない)、マルカートだろうとスタッカットだうろと、下手するとピチカートまでテヌートがかかっているんじゃないか、と思わせるようなネトッとした演奏、クライマックスで「縦の線」をわざと外す「迫力」の演出。これらはすべてカラヤン流なのだ。まったく不自然極まりない。ストラヴィンスキーがカラヤンの「春の祭典」の演奏を聴いて激怒した、と聞いているが、ブルックナーなら主にお許しを乞うだろう。 しかも、それなりに名のある「音楽評論家」が、こんなに美しいブルックナーがかつてあったろうか、だの、カラヤンの演奏は実に楽譜に忠実で自然だ、だの、いったい何を聴いたのか? と疑わざるをえないようなことを書いてあるので、なお始末が悪い。 ワントの演奏は実に自然で良い。自然、と言えばハイティンク。彼も大好きだ。こんなに自然でありながらこんなに充実した演奏ができるところに彼の凄さがある。対する、自己中心派の代表がバーンスタイン。これがまた凄い。シベリウスの第二交響曲(ウィーンPO、グラモフォン盤)を聴いてみて欲しい。なんという遅さ! しかも、不自然さもダレも微塵も感じさせない凄まじい緊張感! これほどの演奏ができる指揮者が今、世界中探して一人でもいるかどうか? バーンスタインは晩年に素晴らしい録音を大量に残した。これは世界遺産だ。 そういえば、CDになってクラシックを聴くのに困っている。ダイナミックレンジが広すぎるのだ。ロックやポップスを聴く時には問題ない(一本調子だから)のだが、オーケストラの場合、弱奏はフルート一本、トライアングル一人なんてこともある。強奏では百人を超える楽団員全員が最大音量で演奏するのだから、その音量の差(これがダイナミックレンジ)はとてつもない。CD時代になってステレオセットのダイナミックレンジが広がり(広いことを自慢にしている。まるで無暗と高性能ばかり強調しているパソコンのように)、弱音がちゃんと聴ける音量にすると強奏が近所迷惑、強奏を程々にすると弱奏が聴こえない。FMラジオやテレビの場合、ダイナミックレンジを適切に調整してくれているので実に聴きやすい。私は音量の大小でビックリしたいのではない。音楽が聴きたいのだ。FMラジオでとてもよかった演奏をCDで聴くとぱっとしないなんてことさえある。可変ダイナミックレンジ・ステレオなんて無いのだろうか? アナログ時代のレコードは、ダイナミックレンジをあまり広げると、弱奏の時にトレースノイズが強調されすぎるので、ダイナミックレンジは狭目にしてあったのではないか? 最近、アナログレコードが見直されている、と言うがダイナミックレンジが狭いために、聴いていて疲れない、というのもあると思う。もちろん、量子化の過程での情報欠失も大きいだろうが。 量子化による情報欠失といえば、最近MDがすっかり普及して、レンタルCDを録音する時はMDにするのが当然のようになってきているが、MDはCDと同程度の内容をあの小さなディスクに収めるためデータに圧縮をかけている。アナログの原音がCDになる過程で情報が欠失しているのに、さらに圧縮過程で輪を欠けて欠失させているのだから、その音の貧しさは推して知るべしである。自分でデジタルペインティングをする人なら知っているだろう。フルカラーの絵を何度もJPEG形式で保存し直していると、見る見る画質が劣化していく。それと全く同じ状態なのだ。本当は上質のテープデッキと上質のテープの組み合わせ(オープンリールならご機嫌)の方がいい音で録れるのだ。 低ノイズ、コンパクト、ランダムアクセス可という利点と引き換えに、肝心の音楽が貧しくなっている。
椎名林檎の『無罪モラトリアム』など聴きながら、秀丸でホームページを編集などしていると、とても心地よい。宇多田ヒカル(彼女はR&Bでヒップホップ系でクラブ系に分類される。分類されるからにはオリジナルではないのだ)もいいのだが、私としてはより個性的で人生の辛酸がにじみ出ている椎名林檎(新宿歌舞伎町二丁目系ポップスだそうだ。そんな分類がかつてあったろうか?)に魅力を感じる。MISIA(R&Bとしてはヒカルより本格派)もとてもいいのだが、彼女は声に頼りすぎているところがある(アルバムの曲にピーッと何やら分からない音が旋律を奏でているが、あれは彼女の声だ。あのようなことをしていては飽きられるのは早い。これは細川たかしがよい教訓だ)。 そういう意味では、ドリカムの吉田美和は驚くべき歌唱力を自然に発露していて、驚異だ。日本人女性ポップス歌手中最高の実力者だと私は考えている。あのコントのような歌(ファンク・ザ・ピーナッツ)をあのように自在に歌える人は他にいないだろう。 まぁ、それはいいとして、ZARDやGLAYや浜崎あゆみなどの曲を聴いていると、その歌詞の世界は渡辺美里の延長にある、と感じる。つまり、中高生が聞くと「ああ、頑張ろう!」と思うような、自分の人生経験とか辛酸とか苦悩とか、そういうものとは無縁のきれいなスローガンが中心の世界である。左翼系学生運動に相通ずるものがある。まあ、対象が中高生なのだから、それでいいのかもしれないが、年間に全部ひっくるめて数千枚が販売され、延べ何千万、何億人が聴くのか想像もつかないような世界なのだから、その影響力も強いのではないか? もっと独創的な世界を提供して欲しいものだ。 とはいうものの、椎名林檎を聴く中高生というのもちょっと...
血液型性格判断とか、血液型占いというのが持てはやされているのは日本だけだと言う。「血液型で性格が分かる」かどうかはなかなか難しい問題だが、だいたい「パンピー」な人は肯定派で、「賢そうな」人は否定派のようだ。で、私は、というと、ちょっと肯定派寄り、というか、「その可能性はある」と考える立場だ。 まず、現在流行している血液型とお人柄の関係について、直接の元祖は能見正比古氏の調査データだ。これは二十年くらい前じゃないかと思う。現在活躍中の能美俊賢氏は正比古氏の息子だ。父親(故人)は東大出の俊英だが息子は未だに親父のスネを齧っている。従って、この息子、「血液型と気質との関連」をマスコミ受け・一般受けするようにずいぶんと脚色してしまったのではないか、と思う。 「元祖」は、著書の中ではっきり書いていたと思うが、「血液型ごとに特徴的な気質がある」。性格占いとか運勢とか占星術との関連なんてことは出てこない。特徴的な気質がある、というのである。気質とは、性格とはちょっと違うようで、もうちょっと動物的なことじゃないかと思う。 では、そういうことが「体液の性質」によって違う可能性があるかどうか、ということだが、こんな話しがある。肝臓移植を受けると性格が変わることがあるというのだ。というのも、体内で使われる蛋白質の大半を生産しているのが肝臓だからで、当然、ホルモンや脳内伝達物質の素も肝臓が作っている。この蛋白の生産量とか割合というのはかなり遺伝的に決まっていそうで、親子の気質・性格が似ているのもこのためかもしれない。ところが、こういう蛋白の生産量のバランスみたいなことは例えば血液型であるとか、HLA抗原(臓器移植の時に問題になる)なんかの型によって偏りがあるらしく、血液型やHLA抗原型によってかかりやすい病気なんてのが実際にある。要するに、特定の働きをもつ蛋白が十分に作られないとか、特定のウィルスに親和性が強いとか、身体に有害な物質を作りすぎる、あるいは吸収しすぎる、などということがあるらしいのだ。とすれば、脳内伝達物質のバランスが血液型ごとに異なった傾向を示す可能性もある。 「性格がたった四種類しかないはずが無い!」というのもよく聞く反論である。これはへ理屈である。四つの血液型それぞれの特徴的気質をひとつのパターンとしてまとめたものであって、気質が四つしかないなどと誰も言っていない。そういう人は、「人間には大別して白人種、黒人種、黄色人種の三種類がある」と聞くと「人間が三種類しかないなんて!?」と言うのだろうか。 性格とか人格とかいうものは、周囲の人や環境、社会との関係の中で表現されるもので、必ずしも固定的ではない。しかし、同じ境遇の中にいても、その人の内面的な環境によって、周囲との関係は変わってくる。この内面的な環境の一つが「気質」なのかもしれない。 「X型の血液型はこんなんだ」と言われると、「そうだなと」ってしまう心理を、「血液型性格判断」のトリックとして挙げられることがある。これは確かに一理ある。そこで、血液型と気質との関係を調べている研究者にぜひお願いしたいのは、血液型と性格(気質)の間の因果関係について何も知らない海外の人を対象に心理テストを実施し、異なる血液型の間に統計的有意差があることをぜひ証明して欲しい...と、こんなことを書いている私の血液型は何でしょう?
パズルのページを別のホームページスペースへ移動。独立させます。このページのコンセプトは「自分で作った手作りパズルを解いて楽しむ」です。従って、ページ名は「パズル自作派」となる予定です。 このページ上では私の自作パズルも少しずつ公開していく予定です(パズルを作るのはけっこう難しいが頭の体操として、「パズルを解く」に匹敵する効果)。どうも半分はアダルト系になりそうなので、これはアメリカのgeocities.comの方に公開の予定です。
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