第四章 日本史の課題

14.平家の興亡

 八三七(承和四)年、平安遷都から四十三年、すでに京都には群盗が横行する。
 八六二(貞観三)年、山陽道・南海道諸国に海賊が出没する。
 九四八(天暦二)年、群盗は、右近衛府、勧学院、清涼殿にまでおしいる。
 九六八(安和元)年、内裏で摂津介が強盗に殺される。
 律令体制は弱体化する。
 京都の出来事であるため、群盗などと書かれているが、後期の実態は内戦であろう。
 地方では、古代の氏族共同体の長を出発点とした地方官、あるいは荘園の貢租納入を請け負う荘官などへと成長した名主層が、さらには体制の外で着実に成長していた土豪が、たがいに経営領地拡大を目指して激闘を繰りひろげる。
 そのなかで、初期荘園制から寄進地系荘園制への転換がなされる。
 寄進によって、貴族の荘園の下司職がえられれば、国家の体制に組み込まれたことを意味する。律令外に成長した武士、土豪の自己確認の行動である。
 それはまず荘園を集積した摂関家と諸国に派遣される国司、つまり上級貴族と中下級貴族の争いとして登場(院政期)する。
 上級貴族・摂関家が荘園に、中下級貴族が国衙領(知行国)からの収入に依存する関係である。寄進地系荘園の拡大は、国衙の収入減であることはいうまでもない。
 もちろん、荘園を寄進した武士が、摂関家・院に全面的に服従したのではない。やがて貴族の力の及びにくかった東国の武士、土豪たちは、力をたくわえ、貴族を追い払い、鎌倉幕府を開き、承久の乱に勝利する。
 それは、平安末期、武家と公家というふたつの性格をもった平家を一時的に登場させた理由である。
 摂関家と中下級貴族との対立とみえる院政期が、実際は律令体制とそれへの対立者との戦いであったためだ。上級貴族、中下級貴族、いずれも律令体制に依存していることはいうまでもない。その体制の対立者、かれらはまだ、そのことを十分に理解していなかった。
 理由なき反抗、とみるか、自己の役割を理解できなかったため、いくつかの回り道が必要だったのか。平家は後者だった。義経しかり、また頼朝も。
『六波羅の歴史的風土ー平家論序章』(早稲田大学文学研究科紀要第二一所収)で竹内理三氏は、
<(律令体制の外に出た)こうした阿弥陀聖、しかも一般社会の落伍者であり、一般社会からは疎外された人々のたむろする六波羅の地に、平家は邸宅をかまえたのである。上級貴族に伍して中央政界に発展しようとするには、決して適当とはいえない場所にである。それなのに何故ここに地を選んだかは、次に解明すべき問題である>
とむすんだ。解明すれば次の通りだ。
 六波羅は鳥部野、墓場である。葬場の寺・珍皇寺があり、また賎民的な在家がある。社会からの脱落・脱出者が、墓堂の修理、掃除などをおこない、租税免除という権利をえて集まり住んでいた。
 地名の起源となる六波羅密寺は空也(九〇三−九七二・口称念仏を広める)の創建と伝えられる。もともとは無税地・河川敷の小堂である。
 かれらは律令体制からも、やがて武士となる地方豪族の荘園づくりからも逃れ、あるいは排除された人々である。
 武士の一所懸命の語源となる領地(一所)からはじき出されたが、貴族・社寺の荘園の農事以外のさまざまな業務で勤仕することで生計をたてていた。後の運送業者、商人となる人々もいる。
 武士とそれらの人々との関係だが、鎌倉時代末期に制作された『男衾三郎絵詞』の言葉が象徴的だろう。
 三郎は言う、馬庭に門外を通る「乞食修行者めらの生首を欠かすな」と。
 農業生産に役立たない者は、じゃまものでしかない。あるいは(俺のしらないところで)かってに村の産物を輸送するような奴はいらない。かってに布施をつのるような坊主もいらない。みつけしだい殺せ。見せしめに首をさらせ。
 後世、村から年貢を負担しない「役立たず」を追いだす秀吉の「人払い」政策の原形がある。
 しかし、貴族は流離するかれらを包みこんだ。武士との競合関係から、あるいは貴族の住む京都と地方とを貢租でむすびつけるのに不可欠だったからだ。
<初期中世では、各本所がそれぞれに使者を下し、貢納物を調達・収納し、運京することを基本とした荘園制的交通体系が完成し、機能していた。本所側では、諸国に散在する各荘園の産物と輸送条件に従って、畿内近国は多種多様な雑公事物と夫役、・・・賦課運上物の種類を定め、特産物・交易物をおり交ぜて、本所の倉町に収納するシステムを作り上げていた>(『初期中世社会史の研究』東京大学出版会・戸田芳実著)
 このシステムを支えていたのが、口分田、荘園からの離脱・逃亡者だ。かれらを使って広範囲に中央と地方をむすぶ組織を、摂関家など荘園を集積した上級貴族は独自に作りあげていた。全国組織である律令体制は、いかんともしがたいまでに、それは彼ら貴族の存在からも必然であるのだが、解体せざるをえなくなっていた。
 歴史のない、急速に成長した平家にはそのシステムはない。
 しかし、平家は土地の生産性をあげることに全力をかたむけていた男衾三郎的な武士とは違って、広範な地域・人々をも掌握しようとする。大貴族が作りあげていた独自のシステムを、平家はより普遍的なシステムとして作り上げようとした。このとき、平家の目に止まったのが、六波羅に住んでいた人々であった。
 平家には武家風、公家風というスタイルの違いではない性格が生まれていた。それは平忠盛(一〇九六−一一五三)が播磨、備前などの守をつとめるなかでたずさわった日宗貿易からくる広い視野と、国家観からくるものだろう。
 さらには、白河法皇の御落裔であったとされる平清盛の気負いもあったかもしれない。それは貴族のさぶらいであった武士でも、一所にしがみつく武士の姿でもない。
 平家の六波羅進出は、賎民的部分の包みこみによって国内支配の意志を、大輪田泊(神戸)の改修、瀬戸内一帯の海賊の手なづけるなどして日宋貿易を握るのは、対外活動の意志を示すものだろう。
 平家はまちがいなくある国家観をもった。そのための国内システムを模索した。それらをもたない貴族、他の武士(源氏ほか)に優位する理由だ。ただ平家の模索した国内システムは、当時の経済状況を反映する緩やかな分業であり、生産性向上のための必須の肥料とかを不可欠にするものでなく、明確な国内システム構築を意識するところまではいかなかった。これが後にふれる信長などとの違いだろう。
 平家は勃興する。しかし統合と分立という貴族・武士のふたつの性格を両立させる手法はまだもてない。生産性の向上などでの統合の必要性が十分に意識される段階ではなかったためだ。このため、独断、専制化を必要とした。しかし、それによって貴族、武士、社寺の総反撃を受ける。
『平家物語』は「祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響あり」と、その急速な没落を物語る。

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