第四章 日本史の課題

15.中世は二重権力の時代

 中世封建国家形成過程は、鎌倉幕府の開府、御家人、守護・地頭、承久の乱、文永・弘安の役、建武の新政、室町幕府、南北朝の抗争、土一揆・徳政一揆、応仁の乱、国一揆、守護大名、一向一揆、戦国大名などの事項で語られる。秀吉によって近世が開幕する。
 初期荘園制から、寄進地系荘園制へ、さらに源平争乱、守護・地頭の設置、守護大名の領国経営とその失敗、戦国大名の登場、そして太閤の検地までの歴史だ。
 農業技術の進展(それまで豪族、貴族などに集積されていた鉄製農具の普及・低廉化、鍬による深耕、稲の多収穫米普及などの品種改良。衣類で麻から木綿への移行)によって、年貢の負担者としての能力をもつにいたる小農(自作農)を、政権の基盤とする歴史である。
 農業生産がそのカギである。ただし、米作の生産性向上は一年に一回の農業機会でしかえられない。着実にではあるが、ゆっくりとすすむ。
 現代でも、百姓一代で思い通りに米づくりができるのはわずか十年にすぎないとされている。前後の期間は技術習得と後継者づくりにあてられる。
 中世の技術水準では、天候不順などにより制約されていただろう。人の寿命の短さもある。改良、改革の機会は、一代に数年あるかどうかだ。しかし、この機会をとらえて、さまざまな失敗を積み重ね、生産性の向上をはかっている。みごとというほかない。
 余談だが、世界各地での砂漠化の進行があるが、ここで問題となるのが、たとえば、アフリカでの緑化失敗の積み重ねがないことだ。失敗の歴史が全くないというのではないが、遺産としては残らなかった。残らなかった理由が前に述べた奴隷狩りなどだ。
 先に、それをイギリスなどがおこなったと述べた。しかし、その失敗記録をまとめているのもイギリスである。これが早く成果を上げることを期待する。
 どのような植物がその地に適合するか、農業などでの膨大な実験が必要である。しかもそのほとんどは、次代に乗り越えられる、いわば失敗の積み重ねである。ある農業生産システムの背後にあるのは、その成果を得るための、膨大な失敗であり、それは一家離散とかの痛ましい事例を数限りなく積み重ねてきた歴史でもある。
 土壌・天候に左右される農業は、工業のような画一性・規格性を持ちにくい。個別の地域で個別の実験・実践を不可欠にしているのだ。
 中世とは、このサイクルの出発点にある。まず後に国家を形成する地域で、個別風土の克服からスタートする。それは長期にわたろう。中世を暗黒時代とするケースが多いが、近代技術の基盤となる原理・原則を発見するための情報(個別風土を克服した)収集には、それだけの時間がかかるだろう。農業とは、一年に一回の改善・改良機会しか与えられない産業である。
 それは、まず名主層、武士等の中間勢力を育てあげ、ついで服飾、建造物、各種工芸の需要を急増させ、朝廷・貴族・寺社に従属していた職人、商人を広範囲に確立させる。
[職人の言葉は、自分で販売先まで開拓する内容をふくんでいる。作るだけは下職という。このため、職人という名称を使用できるか、若干の疑問はあるが、鎌倉仏師などの生産組織(東大寺仁王像の解体修理から推察できる)を見ると、職人としてもいい]
 衣類・紙などの日用品を作る工房は、朝廷内か、国府、貴族邸宅内の染色・縫製所ぐらいしかなかったのが、武士上層に、つまり全国的に広がっていく。
 職人の全国展開、あるいは大規模な商圏の確立が想像できる。商品の代表例が陶器だ。
 名主等の成立にともなう需要の高まりが、たとえば平安末期、中国の越州窯青磁碗をまねて生まれていた愛知県の猿投窯に、釉薬をやめて大量消費用(普及品)の山茶椀を作りださせている。
 山茶椀は十二世紀にはいると常滑焼、渥美焼として全国的に普及し、岩手から愛媛まで太平洋側を中心とする商圏を作った。職人も各地に移住し、窯を築いた。
現在、平泉遺跡が十二世紀遺跡として注目されるが、ここでも同様の窯が築かれていたほか、大量の常滑焼、渥美焼が出土している。
 もちろん、稲作が経済の基礎であるため、この変化はじっくりだ。
 十世紀、平将門が関東で(九三九年)、藤原純友が西海で(九三九年)反乱を起こした頃からゆっくり進行し、古代とは別のものが確実に動きだしている。
 一〇二七(万寿四)年、藤原道長死亡。翌年、東国で平忠常が反乱する。
 十一世紀以降、律令制度は無力化し、新興在地勢力への障害制度となる。古代的勢力(天皇・貴族・大寺社)と新興勢力との闘いによる混乱期だ。
 律令、あるいは貴族の力のおよびにくい東国、比較的力がおよんだ西国、そして貴族が武士を圧倒していた畿内という三つの区分によって、その混乱状況が示される。
 平清盛がでた十二世紀は、院政、保元の乱、平治の乱と進み、古代律令制度が崩壊過程にはいり、律令制度の現実の経済活動への無力化が明らかになり、新興勢力による新たな地域支配関係が模索される時代だ。それを補完するのがなかば律令制度の特権によりかかった職人・商人組織である。
 やがて職人・商人組織は、貴族・天皇家の束縛をはなれていく。完全に脱却するのが、信長のもとでおこなわれる楽市・楽座の制度である。それまでの鎌倉、室町、戦国時代は、朝廷と幕府というように権力の二重構造を見せる。
 二重構造とは、荘園の地頭など(武士、荘官、土豪)の割拠性に対する国衙(国司、知行国、守護、大名)の統合性との対決である。ただ当時の地域経済の状況から、さほど統合の必要性はなかった。それが二重権力を生んだ。
 なお、平泉にかぎらず平安末期の遺跡は、過渡期特有の時代状況を示し、一例に十一世紀の輸入陶磁器空白期がある。
 律令組織が独占していた輸入陶磁器は、律令組織の解体によって流通経路が崩壊し、市場そのものを消失する(輸入途絶・十一世紀)。そして、日本国内に市場が再現し、律令制度とは違う新たな流通経路が生まれることで、再度急激な輸入増としてあらわれる。
 この時、新たな需要=武士層をもカバーする経済社会組織の存在がある。
 貴族、寺社、新興の名主(武士層)からのさまざまな需要と、それを供給する国内産地との結合である。そのためには、購入できる資金、流通させる街道・海運、計算する商人、かれらの宿泊施設、安全を保障するシステム等々がいる。
 この生産地と消費地との有機的結合には、農業生産性の高まりにともなう社会基盤の拡充があり、その基盤に乗った商人のある成熟(独自の商圏・流通の確立。それは戦国期から鎖国以前の東アジアでの貿易圏確立で最高度となる)が必要だろう。
 とまれ、中世の新しい流通が、新旧の両組織からの妨害などをはねのけ、一応の安定をえるまでの時間が、この場合の約一世紀だ。

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