
第四章 日本史の課題
16.王朝の最後
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この商人の成熟に力を貸した需要に、院政期の寺院創建ラッシュがある。白河という希代の君主は、いまとなっては、正確な数字がつかめぬほどの寺院、仏像を作らせている。
『古事談』にこの白河の専制ぶりが伝えられる。
白河上皇は法勝寺落成の供養を企画するが、三度も雨のために中止させられる。四度目、雨の中で強行した。憎い雨である。このため、たび重なる雨の妨害を怒った上皇は、雨を器に受けて、獄に投じた。
勅とかやくだす御門のいませかしさらば恐れて花やちらぬと 西行
雨さえ獄に投じた御門(ミカド=専制君主・白河上皇)がおられたら、桜の花も散ることをおそれて、散らぬだろうな、と詠んでいる。それほどにワガママな専制君主であった。
また、白河上皇は、美少女、藤原璋子を養女にして可愛がったが、ゆくすえを考え、関白藤原忠実の息・忠通との結婚をはかる。
しかし、忠実はことわる。
性関係がおおらかであった当時でさえ、璋子は「乱行の人」であった。
養父・白河上皇(法皇)、その寵臣藤原宗道の三男・季通、宮の律師増賢の童子などと性的関係があったようだ。
このため、白河上皇は璋子を孫・鳥羽天皇の中宮にした。
生まれたのが崇徳天皇である。
鳥羽天皇は、崇徳を白河上皇の子(叔父)だとして、「叔父子」と呼ぶ。この一連の経過が、後の保元の乱の敵対関係を、天皇家、摂関家内部に作りだしてもいる。
といっても、それぐらいのことで四〇〇−五〇〇年を経過した王朝が滅んだわけではない。天皇家、摂関家の内紛はきっかけにすぎない。
院、摂関家のかかえる膨大な荘園、あるいは国衙領で、貢租を負担する層と、収奪を強化しようとする古代王権勢力とが日常的に個別にぶつかりあい、古代王権勢力の構成者である朝廷・貴族・大寺社が危機感にとらわれ右往左往し、その結果、実質的に土地を管理してきた、つまり農業を担い、その生産力を高めてきた層(名主、武士)が、王権を見限り、かれら自身の土地管理を強め、それが武士の台頭になっただけである。
とりわけ、独自に開発が進められてきた東国に、その傾向は顕著であった。それに比べて、近畿地方は、律令制度の班田收授法にみられるように王権による開発・土地整備がおこなわれており、結果的に貴族の支配を強固に存在させることになった。
その東国と近畿・西国(近畿に近い)の差が、鎌倉幕府を東国政権として発足させた。
また古代王権の思想・仏教の影響も、東国武士に、かれらの行動を束縛するところまではいかなかったようだ。
それが『平家物語』にある斎藤実盛の次の言葉だろう。
<(関東八箇国の武士は)親も討たれよ子も討たれよ、死ぬれば乗り越え乗り越え、戦ふ候>
親を討たれれば弔い、子を討たれては出家し、戦闘を中止する平家方の武士の行動基準とは別のものがある。
統一王権の形成を目指す平家にみられる仏教思想の蔓延とはまったく異なる東国武士の思想がある。その新しさは、もちろん、源氏の棟梁・源頼朝にもない。頼朝が暗殺されたかどうか分からぬが、その古さがかれら一族を滅亡させた。
その意味で、古代王権の滅亡は、源氏の断絶と、それに続く承久の乱であったといえる。
そして北条の執権政治が、封建社会を、着実に築く。
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