
第四章 日本史の課題
17.仏教とは何か
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鎌倉新仏教は、生産性の高まりから生まれた新たな蓄積層=名主層と、氏族社会からはみでて、荘園などの開墾・開発を担当した人々の生活の安定化が容認されつつある社会を背景に成立する。
仏教は、無、空を教えたとしても、それだけでは存在できない。布施であれなんであれ、食えなければならない。多い少ないは別にして、信心して、寄付をしてくれるスポンサーがいる。自立化し、あるいはすでになんらかの蓄積をもつ農民、名主などがいて、武士層を育てた農業が、それは同時に、それぞれ自分にあった鎌倉新仏教を選択し、育てたといえよう。
さて、その仏教だが、あらためて仏教とは何か、と問われると、なかなかむずかしい。
それは宗派の仏教の内容から、お参りする、あるいは信心する対象が、仏陀とか、仏、阿弥陀、菩薩、地蔵とか違うからだ。観音もいる。それも生まれた年によって信心する観音が違ったりする。
仏様もわからない。歴史上の人物である仏陀なのか、それとも仏陀以前にさとったという人なのか、あるいは死んだ人なのか、御先祖様なのか、そのすべてなのか。それは、宗派によって、またその時々で違ってくる。
加えて経典の違いがある。
釈迦が誰かに説いた内容が、弟子によってパーリー語、ガンダーラ語、あるいはサンスクリット語でまとめられ、まず原始経典として成立する。
その後、経典理解、仏教理解に差が生まれ、紀元後一世紀から十世紀という長い年月をかけて、さまざまな経典(大乗経典)が作られる。
インドで作られ、中国で訳されて日本に来たものから、中国で作られた経典、さらには日本で作られた経典もある。
まことに多い。『聖書』のようにとても一冊にまとめられる量ではない。
また儒教における『論語』のごとき根本となる経典もない。宗派によって根本の経典も違う。ところが、その違う経典も、釈迦が誰かに説いたものであるとする。
だから仏教での宗派の争いは、『聖書』の理解のしかたで、キリスト教徒が論争する、あるいは宗教戦争をするのとは違う。
キリスト教の場合、世界を作ったのは神とされているから、世界の内容が、それぞれの時代で解明されるごとに、どちらの意見が正しいか判定され、また修正されうる。
ところが仏教では根本の経典が違い、しかも仏とは「さとり」をえた状態だが、それは不可称、不可説、不可思議としている。
優劣の判定は不可能だ。
他の宗派を打ち負かす、仏教的にいえば、悪人・悪法をくじき、正法に従わせる=折伏の論拠をいくつか紹介しよう。
<念仏誹謗の有情は阿鼻地獄に堕在して・・・>(『正像末浄土和讚』親鸞)
念仏の悪口をいう奴は地獄におちる。
<ただし仏教に入って五十餘年の経経八萬法藏を勘へたるに、小乗あり大乗あり、権経あり・・・。ただ法華経計り教主釈尊の正言なり。・・・>(『開目抄』日蓮)
いろんなお教があるが、本物は法華経しかない。
頼りは仏陀の言葉だが、その仏陀の言葉が八万法藏というようにいろいろある。
はては、つごうが悪いと、
<仏陀がそんなことをいっただろうか? 誤って伝えられることもあると仏陀がいっている>
<ただし、俺の経典は誤訳されていないゾ。だから俺のいっていることは正しいのだ>
時代によって、さまざまな経典が生まれ、解釈がなされ、宗派が生まれる。
それらの優劣判断は不可能だ。多くが現代まで存続し、少しも整理されない。
仏教のわかりにくさの一因だ。
「さとり」を平たくいえば次のようになる。
現実の存在は、さまざまな理由(縁)で存在している。それは縁がなければ本当はなにも存在しないということである。
いまの存在も、これが縁となって次の存在に変わっていく。それはどんどん変わっていく。すると、本当の存在などどこにもないことになる。生生流転、人、ものすべては流転し変化していく、そこに真理がある。あるいはその変化を主宰する真理=阿頼耶識がある。
それが真実である、このことを理解するのが「さとり」だ。
また、この「さとり」は、不可称、不可説、不可思議である。しかし、それは筆舌につくしがたい素晴らしいものである。
ただし、この「さとり」に到着するのにはさまざまなもの凄い修行が必要である。人間は次々と生まれ変わり、何万年、何億年という時間をかけなければならない。
通常では到達できない。
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