第四章 日本史の課題

19.日本仏教の特色

 原始仏教でも、たとえ人間技では不可能な時間を必要としても、人間には成仏の可能性があるとしている。
 それは人間のなかに成仏を可能とする仏性がもともと存在するからだ。
<善男子よ、大慈大悲を名けて仏性と為す。・・・是の故に説いて、一切衆生悉く仏性有りと言ふ>(大般涅槃経・師子吼菩薩品)
 その仏性とは、呪術の項で説明した「神=カミ」(隠された身)と同じ構造だろう。
 本居宣長はいう。
<人はさらにも云わず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其余何にまれ、尋常ならずすぐれたる徳のありて可畏き物を迦微とは云なり>
 カミは呪術が自然の背後にあると考えた真実である。
 そうした、もともと成仏できる要因をもっているのが人間である。
 仏教の本覚思想だ。インドにあってはきわめてまれで、また本覚思考の発端に位置した中国でもついに主流とはなりえなかった考えである。
 しかし、日本には、神(カミ)という呪術段階からあった思考である。土着思想だ。
 加えて大乗仏教には「一切衆生を救済する利他の精神こそ根本」とする姿勢がある。現実の混乱に直面した時、それはすみやかな救済が求められ、成仏の可能性が最大限極大解釈されることだろう。それが浄土思想だ。阿弥陀は救済のためにすでに西方浄土をつくったとされている。
 また、身に、カミ=真実=さとり=成仏を可能にする仏性をそなえ、救済を待っているとする思想は、人間だけでなく、一木一草、存在すべてにあてはめられる。本居宣長のいう、人にかぎらず、鳥獣木草さらに海山まで尋常ならざるものはカミをそなえる、だ。仏教では「草木国土悉皆成仏」になる。
 この考えが、神仏習合、本地垂迹説をも生む。神とは仏が日本の衆生を救うために仮の姿をとってあらわれた。神に詣でることも仏に詣でることも同じだ。
 村などの共同体が、内部に氏族社会がある一方で、氏族社会からの没落民を吸収していることに対応するものといえよう。氏族外の人々の力なくしては、開墾もむずかしいし、国衙、荘園の所有者・貴族、あるいは武士に対抗できない。このため氏神は、仏の仮の姿であったという論理がつくられる。そしてある地域の集団は氏族外の人々をも吸収する。
 西行はよむ。

さかき葉に心をかけむゆうしでて思へば神もほとけなりけり

 神も仏も同じである。
 密教が日本的という形で、空海によって大成・総合化される理由がここにある。
 最澄において未完におわった天台密教は、その後、安然によって大成されるが、この安然にも本覚思想の核心となる「草木国土悉皆成仏」の考え方がある。
 最澄は渡来人の家系であるといわれる。たぶん真実だろう。かれには、こうした日本土着の思考が希薄で、総合的・体系的な見方から離脱できなかった。
  そのため、密教の大成は実現できなかったが、論理性を追求する姿勢は、また空海に対してもおこなわれた学問追求での真面目な研究態度は、以後の日本仏教、さらに思想を豊かにした。日本にとっては幸いであった。
 ついでだが、近世、朱子学が日本の封建制度の完成をなしとげるが、朱子の理気論にも、日本土着思想に、似通った構造がある。
 朱子の「理」は完成体としての全体を示し、真理、日本風に言えばカミにあてはめられよう。
 成仏を可能にする理由、あるいは「理」、名称は違うが、いずれもカミ=隠された真実、それは死して祖霊となるものと同じ構造である。この構造ゆえに仏教、朱子学は日本に定着できた。
 インドでは輪廻転生、中国では天地の運行をつかさどる天、日本では祖霊、それらがそれぞれの地域の土着思想だ。
 日本仏教の特色が、ここにある。加えると、稲作を主要産業とした日本社会が、アイヌ民族などの問題を別にして、基本的に他民族との支配・非支配関係をもたずに形成されたことだ。
 日本古代社会が同じ民族でありながら、一方で王・貴族がいて、他方に公民=奴隷がいるという、その差別的存在への疑問があることだ。
 中近東の場合、民族が違うことで、一方に王、貴族がいて、他方に奴隷がいる、このことは理解しやすい。そこに神の前ではすべてを平等とするキリスト教、イスラム教のような思考が生まれる。
 しかし日本では同じ民族である。しかも稲作、とりわけ日本の稲作は小規模性・労働集約性を、この日本風土から特色づけされている。西欧のように、奴隷を鎖でつなぎ、労働を課す手法より、家族を持たせ、その家族全員の労働を、稲という収穫物で奪う法が現実的で、効果的であったことがある。
 人としての生活は、王侯であろうと、律令体制下の奴隷・公民だろうと家族を持っていてという形態は変わらない。しかし、その内情は天と地ほどの差がある。このため、差別即平等を強調する仏教が必要であった。
 この差別即平等を第一課題とする日本仏教の特色が、仏教のもつ呪術性に一定の歯止めをかけ、日本仏教の主流としては、常に空・無を問う常識的で、邪教を排するものとなったといえよう。また仏教が発祥の地・インド、あるいは中国で、主流とならないのに、流れついた日本でいまなお大きな影響をもちつづけている理由である。
 勤勉でありながら、うさぎ小屋に住まざるをえない、同じ民族でありながら差別的存在である多くの日本人にとって、仏教はきわめて良好な精神安定剤であった。

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