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           読 書 猿   Reading Monkey
            第118号 (しらくのじゆう号)
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■■『模範六法』(三省堂)『有斐閣六法』(有斐閣)============■

 これくらいの六法全書だと、ちゃんと「安保条約」が乗っている。もっと小さ
な六法全書にも載ってるかも知れないが、よく知らない。たまたま家に六法全書
なんかなくても、いまはインターネットでどこかにかある。あると思う。

 「安保条約」とは、もちろん日米安全保障条約のことである。
 ほんとは「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」とい
う名前がある。たぶんご存じだろう。

安保(アンポ)といえば、ある年齢層ではいろいろ思い出もあるみたいだ
が、そのあたりのおじさんたちに聞いてみても、読んだ人が誰もいなかった。
たった10条しかないんだけど。

ちなみに第一条はこんなのだ。

「締約国(もちろん日本国とアメリカ合衆国のことだ)は、
国際連合憲章に定めるところに従い、
それぞれが関係することのある国際紛争を平和的手段によって
国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決し、
並びにそれぞれの国際関係において、
武力による威嚇又は武力の行使を、
いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、
また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも
慎むことを約束する。

締約国は、他の平和愛好国と協同して、
国際の平和及び安全を維持する国際連合の任務が
一層効果的に逐行されるように
国際連合を強化することに努力する。」

(見やすいように適当に改行を入れてみました)

■■宮台真司、藤井誠二、内藤朝雄『学校が自由になる日』(雲母書房)====■amazon.co.jp

 会社などの組織で、エライ人が教育(研修)の大切さを説いたり重視したりす
るようになると、大抵はろくな事がない。人材は大切だとしても、人材育成は時
間がかかる。教育はうまくいったとしても、その効果は遅効的だ。一方でエライ
人(トップ)の手腕が求められるのは、火急の問題があるからで、そんなとき遅
効的な、しかも大切さでは誰も反論がない話に向かうなんて、決断力の欠如以外
のなにものでもない(もっと先に他にやることがあるだろ)、という訳だ。
 教育は誰もが口を挟めるイシューだし、挟みたくなるイシューだ。世の中のど
んな問題でもいい、解決を遡ってかんがえていくと、何ステップ目かに「人の問
題」となり、結局「教育が大切だ」ってことになってしまう(言うまでもない
が、こういうのはモノを考えているとは言わない)。もう一声いうと、教育を語
ると誰もが(いわゆる付きの)「リベラルな人(リベラリスト)」になってしま
う。ゴリゴリの保守主義者も、バリバリの極左も、教育や学校の重要性を語り、
あるべき教育・学校を美しい言葉で語る。おまえら、デューイか、ってえの。誤
解のないように言っておくと、この手の教育を「万能薬」と見なす教育の(いわ
ゆる)「リベラリズム理論」は、 「教育による社会的統合」(教育によって個人
がちゃんと社会化される)も「教育による平等の促進」(教育の機会の平等から
結果の平等が開かれる)も「教育による人間的発達の保障」(教育は、個人の精
神的発達を手助けする)も、理論としては席巻したが、現実にはみんな裏切られ
た。なのにみんな教育に関しては、「リベラルな人(リベラリスト)」みたいな
夢を見続ける・・・。

 誤解のないようにいうが、この本で語られるリベラリズムも教育も、この手の
(いわゆる付きの)「リベラリスム」とは何の関係もない。(一つ上のパラグラ
フを、自由←→教育、リベラリスト←→教育学者(笑)と入れ替えて、再読せ
よ)。

 教育の(いわゆる付きの)「リベラリズム理論」の弱点は、世の中の不都合を
経済的、倫理的、政治的、社会的に見ることなしに、ただ行政的な問題として処
理してしまうことだった。だって、どんなことだって、教育(ことに公教育)を
何とかすればいいんだから。
 本当は、教育に何か期待してしまうような人たちは、教育について口をはさむ
べきじゃない。
 かといって、何か呪文を唱えれば(たとえば、学校にはどこか教育に欠けたと
ころがある、といったのは鶴見俊輔だったけれど)、すべての学校が消えてなく
なる訳でもない。
 それでも自由や教育をめぐるコトバは、まるで役立たずという訳ではない。何
かをはじめるにあたって、それがたとえ「学校」なんて場所であってもだ。

■■『京都げのむ』(京都コミュニティデザインリーグ)===========■

 一応定期刊行物だし、寄稿者だったりしたこともあるし、どうしようかと長ら
く思っていたが、今回送られてきた号が、あまりにも出来がよい、というか、ま
すます容易ならざることになっているので、取り上げてみる。
 京都のことしか書いてない、それも京都でしか買えない、そんな本はうんざり
するくらいあるが、このストイックさ、愚かしさ、好きな子宛に「メッセージ・
イン・ザ・ボトル」してしまうようなトチ狂わしさは、いったい何としたことだ
ろう。

 一昔前に少年時代を過ごした者にとっては「遺伝子」というコトバは何か決定
的なもの・逃れがたく未来をあらかじめ定めているものを思わせる。すべては
「遺伝子」によって定められている。ぼくの顔がウリナリなのも、あの子ができ
すぎた優等生なのも、浮気ごころがさわぐのも、カエルの子はカエルなのも、す
べて遺伝子によってあらかじめ決まっている、という訳だ。
 そんな言い方と相前後して、そのまちにおいて繰り返し引用・参照される意匠
や無意識に反復される空間配置や動態変化のパターンをわざわざ「都市の遺伝
子」と呼称することが流行ったことがある。
 矢のようにとはいかなくとも、ずるずると歩みを進める(「進歩」?)科学の
方は、ほどなくして遺伝子をそうした「運命」から解放した。遺伝子は何か可能
性のようなものをはらむ、それ自体可塑的な(たとえばウイルスなんかで書き換
えられてしまう程度の)ものだと知れた。そしてほとんどが、使われもしない
「クズ遺伝子」だということもわかった。遺伝子は、(m−RNAなんかに)読
みとられなければ、生き物を形作るどの細胞にも、どのタンパク質にも、つな
がっていかないものなのだ。
 語源に関する一つの見解は、「遺伝子」を意味する「ジーン(gene)」と、ギ
リシア語で「総体」を意味する「オーム(ome)」とから、「ゲノム(genome)」
というコトバが合成されたと教える。私の手を、耳を、脳髄を、足の爪を生み出
す「きっかけ」となる遺伝子が存在する。結局何にもならない遺伝子もある。そ
のどれもをあわせたあらゆる遺伝子=可能性の総体。
 17世紀のライプニッツ以来、都市は、読み解く人によって姿を変える「可能
世界」そのものの隠喩だった。今日、あらゆる都市ではなく、とある都市の名
と、あらゆる遺伝子=可能性の総体を表すコトバが結びつけられている。まるで
人ゲノムのように。そしてこの都市のゲノムに含まれるすべての遺伝子=可能性
もまた、読みとられなければ、何にもつながっていかないものだ。
 時代の変転期に生まれたものの未来が順風満帆であると誰が証言できよう。可
能な都市の、可能性の一片はそれでもこうして手にすることができる。
 『京都げのむ』。容易ならざる本が現れた(もう3号目)。
http://www.kyoto-cdl.com/genome/genome2.html


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