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(2004年2月20日)

元サマナ・ナーギタ師のオウム流マハームドラー論に対する寂蔵氏からの反論


どうも、カイヴァリヤさん。

 ナーギタさんの文章は、私とおそらく性格がちがうせいか、なかなか読みにくかったので読まなかったんですよ。
 私が引っ掛かったのは、本文の主要な部分ではなくて、ナーギタさんの修行への姿勢の部分だったので、その前のところは読まなくてもいいかなと思ってたんですが。

 でもわざわざアップしていただいたら読まないわけには行かないので(笑)、読んでみます。

その前にまず総論を述べますと、「オウムには本当にいろんな人がいる(いた)」ということです。そして、ナーギタさんが離れた93年以降、よりオウムの弟子達の性格は多様化して行ったと思う。同じ宗教とは思えないくらい。

 だからナーギタさん個人の、しかも「マハームドラー」という狭い見解だけでは、とてもオウムの闇も光も解明できないと思うわけです。

 また、私の意見は、決してアーレフの現役信者やオウムの元信者の代表意見ではないということはご理解してください。もしかすると私の考え方はかなり特殊な方かもしれません(笑)。でもナーギタさんの考え方も普遍的とは思えませんでした。

 さて、まず前半のチベット仏教のマハームドラーの説明に関しては、特に何か言いたいことはありません。ナーギタさんの例え話も、こういう例え話というのは正しいとかどうかではなくて、それで一人でも悟れる人がいるならいいわけですから。

 ただ一つだけ最後の部分の感想として、家を建てる必要はなくて霧を晴らせばいいとなってますが、家を建てるのも霧を晴らすのも同じではないかという気はします。つまり霧さえも最初から存在しない。
 つまり「何もしない」ときに答えが現われるわけですが、何もしない、ということを今の私達の固い頭は知らないので、方便的に「何かする」必要があるわけです。

  >この方法は非常に特殊なものであり、師と弟子の双方に特別な資質が必要と
>されるため、本来は″教義″や″修行法″として普遍化することなどできな
>いものなのですが、オウムは、いや″尊師″は、これを『マハームドラー』
>と名づけて教義化してしまったのです。

 私に言わせるならば、いみじくもナーギタさんが言ってらっしゃる通り、マハームドラーとは、言葉として普遍化できるものではないと思います。
 あれだけ教義というものを体系的に、矛盾なく、統一的に説くのが好きなオウムが、尊師が、マハームドラーに関しては、それをしていないと思うんですよ。つまり「教義化してしまったのです」とナーギタさんが感じたこと自体が、普遍的な感じ方ではないということです。少なくとも私はそう感じていないので(笑)。

> ナローパやミラレパが持ち続けていた苦しみは、求めても得られない
>苦しみ″でした。この″苦しみ″を仏教では 「不求得苦」 と呼んで、
>四苦八苦の一つとして教えています。そしてその苦しみは、十二縁起の
>中の一つである″渇愛″という心の働きによって引き起こされるのだ、と
>釈迦は説いているのです。

 揚げ足を取るわけではありませんが、読者のために。求不得苦と書きますね、普通は。  

> ″渇愛″とは、砂漠で歩き続ける人が喉をカラカラに乾かせて、必死で
>水を追い求めている時のような、激しい渇望状態を指しています。そこで
>釈迦は、苦しみの原因となっている″渇愛″を滅すれば 「不求得若」の
>苦しみから解放されるのだと教えているのです。
> しかし、ナローパやミラレパが必死で追い求めていたものは″真理″なの
>です。だとすれば、この″苦しみ″は、捨て去るべきものなのでしょうか?

 これはナーギタさん独特の見解ですね。そして私とナーギタさんの、十二縁起というものへの見解の相違を表わしています。
 結論を言えば、真理への渇愛が苦しみを生み出すことはないでしょう。苦しみの原因となっているのは、あくまでも真理と逆のものへの渇愛です。真理を追い求めることによって、煩悩への渇愛があるがゆえの苦しみが生起するわけです。なぜでしょうか? 煩悩は楽しみだという経験を打ち消す逆の経験をさせるためです。もちろん、他の表現もできますが、ここではこれ以上突っ込みません。
 例えばナーローパがティローパを探して歩き回っていたとき、ナーローパはさまざまな試練を経験しますが、それに対してティローパは、こう言います。

 「お前がライ病の女の姿をしたわたしに出会ってから、わたしたちは離れ離れになったことはない。身体と影のように。お前の見た様々なヴィジョンは、お前の邪悪な振る舞いのけがれである。だからお前はわたしを認識できなかったのだ。」

 ・・・すいません、ふと思ったんですが、こんな感じで細かくやっていたら膨大になってしまうので、やっぱりもう少し大ざっぱに行きます。

ミラレーパやマルパの苦悩に対する見解は、ナーギタさんの妄想でしょう。ナーギタさんも、学者的に行くならば、徹底的に文献を当たってほしかった。

 ミラレーパに与えた苦悩の意味は、尊師ではなく、マルパ自体が明かしています。

「私は、偉大な魔術師(ミラレーパ)の罪を浄化するために、彼を試しただけである。  ・・・中略・・・
 もし、この我が息子が九つの大いなる試練を達成していたならば、未来の再生のない、けがれのかすを全く身に残さない、完璧な解脱を獲得していたことであろう。ダクメーマの弱さから、それは現実のものとはならず、ゆえに彼にはわずかだが、けがれが残ることになるだろう。しかし、八つの大きな心の苦悩とたくさんの小さな苦しみを味わうことによって、大きな罪は消し去られた。」
                      (『ミラレーパの生涯』)
 

              いかがでしょうか? ナーギタさんの説である、「真理を得たときの喜びを増させるため」という説よりも、ナーギタさんがダメ出しをした、

 「導師は、弟子の悪しきカルマを落とすため、色々な苦難を与える。そして、その苦しみの原因となる″思い込み″や″観念″を証知させ、崩壊させることによって″解脱″へと導いてくれるのだ。」

という説の方がしっくり来るでしょう。
 そして尊師はこの話に対しては、上記の見解だけではなく、別の見解も加えています。それは「精神集中」です。つまりさまざまな苦難を受けながらもグルに精神集中し続けさせるわけです。グルというのは絶対であって絶対でない。それは最後に捨てる幻影だからです。真理を知らない弟子の精神集中を受け止める的として、グルは必要なんです。変な妄想に入り込まないように。
 そして、よく教学や瞑想をしている人は、ヨーガも、マハームドラーも、ゾクチェンも、結局はポイントは「精神集中」だということに気づくでしょう。正確に言うとそうせい(サンヤマ)ですけどね。
 最後にはグルも消え、弟子は真理と合一するわけです。

 また、このマルパとミラレーパのマハームドラーの話には、尊師は以下のような解説も加えています。しかしこれは秘儀なので、ちょっと虫食いで紹介します。雰囲気だけつかんでください。

「マハームドラーの教えそのものは、先ほど述べたとおり、下○に至る○ラ○ナの観○は観○として固○するが、あとはひたすらナ○○○○の浄○、プ○ー○の強化、この二つによって、偉○な中○の気○、この偉大な中央の気道に○○○○を集中させ、そしてマ○○○ム○ラー、大いなるサハスラーラ・チァクラの崩○ によって解○をさせるという教えである。もちろん、その○○を現象化する上においては、チァクラサンヴァ○の教えとか、あるいはグ○○○○○ジ○の教えとか、あるいは秘○○○ーキ○ーの教えとか、いろいろね、瞑想形態は存○する。しかしその瞑想形態はあくまでも○○○ラルの瞑想であって、その形○の形を作らなくても、空の○○へ没○させることはできるのである。」

 虫食いだらけでわけわからないかも知れませんが、つまり尊師は「マハームドラーとは」という言い方でいろんなことを言っているということを知っていただきたいための例として出しただけですので、お許しください。

 では次にナーローパとティローパの検討に入りましょう。ナーローパには、「12の小さな試練」と「12の大きな試練」がありました。そしてナーギタさんがあげているのは、後者の方です。
 しかし真理を求めて苦しむナーローパの旅は、「12の小さな試練」で終わっているのです。「12の大きな試練」におけるナーローパには、ちゅうちょというものが感じられません。そして例えば、この試練の最後の方では、こういう記述があります。

『 数日が過ぎ、ティローパがやって来て言った。「ナーローパよ、覚者の教えに従って世間を捨てたお前が、ビクシュでありながら、女の子と暮らしているとはどういうつもりだ。これはよからぬことだ。自ら罰しなさい。」

 ナーローパは

「これはわたしの過失ではありません。こいつのせいだ。」と言って、勃起している自分のペニスを石で打った。あまりの痛みに危うく死にかけたところに、ティローパが来て、たずねた。「ナーローパ、どこか具合が悪いのか。」

ナーローパがそれに答えた。

 邪悪の根源である欲望の報復として
 自らのペニスを打ったがために、わたしは苦しんでいる。

 ティローパが言った。

 わたしの言葉を聴きなさい、いいか、ヴィマラ(プラバ)よ。
 お前は自分自身を打たねばならなかったのだ、ナーローパよ、
 苦痛と快楽が同一であることを悟るために。
 そこでは価値が一致している、お前の心の鏡を見つめるのだ。
 ダーキニーの神秘の家を。

 さらにティローパがナーローパに片手で触れると、少なくともまた小便がたせるようになった。そしてティローパはナーローパという名前を与え、6つの部分から成る価値の同一性について教えを授けた。』

 これからもわかるとおり、ティローパはナーローパに「苦痛と快楽が同一である」ことを悟らせるために、わざわざ女の子との性的な喜びという状況を作らせ、その後でその快楽の原因であるペニスを自ら打たせ、そしてまさに苦楽の表裏一体を実感として感じているナーローパに対して、それをとっかかりとして「価値の同一性」という教えを説くわけです。

 例えば尊師は別のマハームドラーの説明として、最高の楽しみを与え、最高の苦しみを与え、そして解放させる、という話をしたこともあります。これは釈迦の人生と同じですね。味著・過患・出離というやつです。

 ああ、きりがないですが、こんな感じで、尊師が説く「マハームドラー」というのはいろいろあるんですよね。

 そしてティローパとナーローパの物語は、このような言葉で終わりを迎えます。

「かくして、ティローパとナーローパは、心において一つになった。」

 弟子は最後にグルと一つになるんですよ。もしグルが「絶対の真理」に到達しているなら、弟子が到達するのも「絶対の真理」なわけですから、これは当然の事です。

 そのナーローパは弟子マルパに、次のような教えを与えています。

「グルが存在する以前には、仏陀釈迦ムニさえ現われなかった。
 千カルパの偉大な如来方は、ただグルゆえにやってくる」

 これは強烈なグルイズムですね。釈迦も如来も、グルに比べたら二次的なものだということです。それは当然です。弟子は釈迦にも如来にも会ったことがないのですから。弟子の妄想の中の如来には、弟子を導けませんから。

 結局、カギュー派の伝統には強烈なグルイズムがあるわけです。それがいい悪いは別にして、カギュー派はグルイズムじゃなくて、オウムはグルイズムだというのは間違ってます。問題は、グルイズムというものに対する一般の人の理解不足の方でしょう。

 ナーギタさんのミラレーパやナーローパの話に対する見解は妄想だと書きましたが、強烈に真理を求める心が弟子に真理をもたらすという見解自体には、もちろん、異論はありません。

 結局、ナーギタさんの「オウムで言うマハームドラー」というものに対する理解が狭すぎる。だからこれ以下の論も説得力を失ってしまうわけですが、一応、検討を加えてみます。

>  いったんこの″教え″が定着してしまうと、それこそ″何でもあり″の
>状態になってし まいます。理不尽な命令、不条理な出来事がすべて正当化
>されてしまうのですから。
>  「それは、導師が君に与えたマハームドラーだったんだよ。」という一言
>で、すべてが説明できてしまうのです。

 ていうかね、事件云々は別にして、これは修行者としては問題ない状況ですよ。
 結局、こういうところに引っ掛かる人は、プライドが高すぎるんだと思う。グルというものを実体視しすぎじゃないのかと。わたしはこういう意味でのマハームドラーの話は全部、自分の問題としてとらえていましたよ。グルという人間がどうこうしたという話じゃなくて、私が真理を求めてるがゆえの現われだと。グルっていうのは、真理の顕現に過ぎない。最初に真理ありきなんですよ。しかし姿勢としては最初にグルありきなんですよ。ちょっと分かりにくいかもしれませんね。

 結局、グルが理不尽だろうと理不尽じゃなかろうと、どうでもいいんですよ。グル以外の人に対しても同じで、自分の上司が正しかろうと間違っていようとどうでもいい。すべては自分の世界だから。そしてその自分の世界の闇から抜け出すためのサインとして、グル「私にとっては」いるんだって、わたしは考えてます。この世は全部幻影なんだから、グルも幻影でしょ。でもグルはサインとしての属性を「持ちやすい」幻影だということです。

 オウムとか関係なくても、「一切を人のせいにしない」というのはすごい美徳だと思いますけどね。どうなんでしょう? 私はそう思ってましたが。その意味では、グルは飾りに過ぎません。

 あと尊師は、マハームドラーの説明として、グルから命令があった場合、ある場合は言われた通りにしなければいけないが、ある場合は捨断しなければならない、とも説いています。

 私のグルと弟子の「マハームドラー」のイメージは、もっと心と心のぶつかり合いみたいなのがあると思うんですけどね。例えば言われたことができなかったら、できないんです、ってグルにぶつかればいい。そういう真摯なぶつかり合いの中から、悟りを現わそうとする教えじゃないのかなあ。

 さて、ここでちょっと論点を変えます。結局、カイヴァリヤさんが注目したのは、ナーギタさんがオウムのマハームドラーというものを正確にとらえていたかどうかはどうでもよくて、弟子全般が、ナーギタさんの言うような見解を持っていたから、あのような事件が引き起こされたんだ、という点でしょう。
 しかし私はこれも、そうとは言えないんじゃないかと考えています。
 ナーギタさんが93年にいなくなったとしたら、まさにその後ですが、94年以降のオウムの流れは、イケイケ状態でしたよね。薬物イニシエーション、格闘技トレーニング、銃撃トレーニング、武器の製造、そしてさまざまな事件・・・
 小さなことで言えば、いろいろなかたちでの入信促進も行われました。
 わたしは何の事件にも関与していませんが、その当時の雰囲気を見ていて、決してみんな、「マハームドラーだから・・・」などと言ってイヤイヤやっていたとは思えません(笑)。そういう人もいたかもしれませんが、人によってはかなりノリノリのイケイケでしたよね。
 また、後期のオウムってやっぱり、「革命団体」の雰囲気もあったと思うんですよ。そしてその意識の強い人で、マハームドラーとかはどうでもいいって人もいたでしょう。しかし、それもまた一部です。

 わたしはオウムの中で、ナーギタさんの言うような「マハームドラー」の意識を持っていた人は、一部だと思います。それは「中途半端なロマンチスト」の人達です(笑)。リアリストの人達は、マハームドラーとか関係なく、本気で国家と戦争しようとしていたか、もしくは教団の流れにシラケつつ、淡々と修行していたかでしょう。そして私は「究極のロマンチスト」でした(笑)。

 サリン事件という最大の問題に関しては、実行犯の人達にはきっと、いろいろな思いがあったでしょう。「これはマハームドラーだから」と思った人もいるかもしれませんが、「これは国家との戦争だ」と思っていた人もいただろうし、「グルは間違っているかもしれないが、それでも従うのが帰依だ」と思っている人もいたかもしれません。

 わたしは、人間が何かの後で言う言葉というのは、その多くがある意味「いいわけ」だと思うんですよ。本人が気づいていようといまいと。無意識の自己保全ですね。だからその辺も考慮して聞かなければならない。

 つまり「マハームドラー」という言葉はグルにとって便利な言葉と言われますが、弟子にとっても便利な言葉なわけです。「マハームドラーだと思ったから・・・」と言えば、グルのせいにできるわけですから。

 ああ、久々に夜中に長々と書いてますので、変なところがあったらご容赦ください。

 さて、長くなったので以下は簡単に。

 尊師の裁判のところは、もっともらしく書いてますが、間違ってると思います。私もいろいろ行きましたが、尊師の裁判であろうと他の人の裁判であろうと、あそこは眠くなりますよ。逆にみんな興味津々だから、自分の知らなかった事件の真相とかが明かされるときの方が、みんな目がさえてましたよ(笑)。

>そのあと帰国後におこなわれた″尊師″の説法の中に、実は私の心に妙に
>引っかかる″言葉″があったのです。
>  「これで、オウム真理教が説いていた『マハームドラー』と、チベット
>密教で説かれていた『マハームドラー』が、まったく同じであることが解っ
>た。」
>  ″尊師″の言ったその言葉に、私はびっくりしてしまいました。
>  (なんだって?それじゃあ今までは、同じかどうか、解らなかったとい
>う事なのか?」

 どうしてここでびっくりするのか分かりません。そう、今まではまったく同じであるかわからなかったということでしょ(笑)? それがどうかしたんでしょうか?
 オウムの流れって大体そうじゃないですか。尊師が独学と前生の記憶をもとに修行し、チベット仏教のカムトゥール・リンポチェに会いに行ったら、「あなたはトゥモとルンを成就している」と言われてしまった。こうして尊師は自分の経験とチベット仏教の整合をとっていくわけです。原始仏教の研究もそうでしょう。

 六ヨーガについてのところは、すでに書いたように、ナーギタさんの経験不足だと思います。それにカムトゥール・リンポチェ師に「トゥモを成就している」と太鼓判を押された人の教えですよ(笑)。

 あと、ダライ・ラマを始めとしたチベット仏教のかたがたは、当然、その本質を隠しますよ。密教ですから。

(以上の、寂蔵さんの、ナーギタさんへの反論の書き込みは、インド哲学と仏教哲学の探求掲示板へ、2004年2月11日に、行われました。)

◆(Kaivalyaから寂蔵さんへのメッセージ)

ナーギタさんの見解に対する、いまだに、麻原教祖を「尊師」と呼んでおられる寂蔵さんの、非常に詳細で、丁寧な、ご意見を書き込んでいただいてありがとうございました。これを読ませてもらって、オウム事件後、いまだに、教団を脱会せず、アーレフに所属している人たちや、脱会しても麻原教祖を自分の信仰の中核に置いている人たちの気持ちが、少し、分かってきたようにも思います。
かつて、三島由紀夫氏は、ある本の序文に、「信仰とは、個人の魂の内部に起こる『全体』との融和感合一感であるから、その個人の魂の個的自覚を経過しない人間には、信仰者の外側にあらわれた行動の形でしか、判断しようがないからであり、キリスト者の殉教は、そのような意味を担っていたのである。」と、非常に、的確に、鋭く、信仰者の心の内面を捉えている文章を書いているのを読んだとき、信仰とは何なのか、ということの本質に触れた思いがして、感銘を受けたものです。
今回の、寂蔵さんの文章も、そういう意味において、非常に参考になりました。グルとは、寂蔵さんにとって、あくまでも、三島氏が言うところの「全体」、つまり、「真理」ですが、それを指し示す「ヒント」に過ぎないのである、というところに、寂蔵さんの、グルに対する非常に個性的で、柔軟なスタンス、を垣間見た思いです。そこにおいては、まったく、ナーギタさんが指摘されている、「諸悪の根元」としての、オウム流マハームドラーの概念を超越しているのであり、オウムという宗教を「ホーリスティックに(全体論的に)」考える場合において、非常に参考になるスタンスだと思いました。オウムと言ったって、いろいろなスタンスのサマナがいたのであり、十把ひとからげには、言い切ることはできないのだ、ということだと思います。
 そして、今回、特に感銘を受けたのは、寂蔵さんが、ご自身を、「究極のロマンチスト」だと自認されている言葉を読んだことです。「究極のロマンチスト」は、贈っていただいた、マハーバーラタに述べられている、「私の経験から言えば、あらゆる衆生を利することこそ真実だからである。」という言葉に鮮やかに示されている如く、この宇宙のすべての生命に対する無限なる愛の、利他の心を養っていこうと奮闘努力しているのであり、この宇宙の全生命を「解脱」させるまで、自分は、輪廻転生を続けながら、「救済活動」を続けるのだという使命感を抱いている、ということでしょう。そこに、私は、寂蔵さんの、自己の利益を超えた、崇高なる精神に触れた思いです。オウムを語る場合にも、常に、こういう崇高なる部分が存在していた、あるいは、存在していることは、忘れてはならないことだと思います。そうは言うものの、勿論、いかに崇高なる使命感を抱いていたとしても、私はオウム事件は完全に否定している立場ですし、オウム流の修行を続ける場合には、何故ああいう事件が起こったのか、という、あの事件の総括をやる必要があり、常に、そのことは意識し、念頭に置いておかなければならない、という考えです。
 アメリカのチベット仏教研究の世界的権威であり、西洋人で最初のチベット仏教僧侶となった、コロンビア大学で仏教を教えておられる、ロバート・サーマン教授は、著書「インナー・リボリューション」の中で、自分の人生に失望し、生きる目的を見つけるために、インドまで出かけて、インド各地を渡り歩き、様々なグルに教えを乞うたことを 述べていますが、その途中で、父親の死のためにニューヨークへ戻ってきたとき、偶然、近くに住んでいた、モンゴルの仏教僧侶に出会ったときの様子を次のように、非常に感銘深く描いています。
 「He seemed fully content and unconcerned for himself. When I couldn't find "him", I was forced to ask myself, Who is this "me" I've been pursuing? At twenty-one years old, after dropping out of college, leaving a new marriage, barely able to take care of myself, I felt a hint of something beyond my self.」
 サーマン教授は、モンゴルの仏教僧侶の立ち振る舞いの中に、まったく、自分の損得というものを超越した境地の精神を見出して、大学を中退し、結婚にも失敗して、自分が追い求めているこの「私」とは誰なのか、と自分に問いかけなければならなくなり、21歳の自分は、かろうじて「私」のことしか気にかけていないではないか、ということに気がつき、このモンゴル僧侶の境地に、「私」を超えた、何かあるもの、のヒントを感じた、ということですが、寂蔵さんの人生の考え方の中にも、サーマン教授の人生の方向を決定づけた、このモンゴル僧侶の境地に通ずるものがあるように感じています。このモンゴル僧侶と同じような、自己を超えた、利他のための使命感というものを感じます。寂蔵さんが、ご自身のことを「究極のロマンチスト」と呼んでいる理由は、ここに存在しているのだろうと思いますし、人間として生きる意味、目的もまた、ここに在る、ということなのでしょう。私が、大いに、触発され、啓発を受ける部分です。今後、寂蔵さんが、ご自身が、最も意義のあると考えられる人生を送られることを祈っています。    


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