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(2004/2/25)

 元オウムサマナ、メロン氏、オウムを語る--(1)-- 

--リフトン教授のオウム論への批評や出家の経緯など--



非象徴化(desymbolization) 投稿者:カピラ  投稿日: 2000年9月17日(日)06時14分24秒

リフトン教授がのオウムを論じた著書で、オウム真理教七つの特徴 の一つとして、次のように分析しています。 (「ロバート・リフトン著「終末と救済の幻想」岩波書店)
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オウム真理教の特徴の第一番目に挙げられるのは、絶対的なグルイズムである。 それは妄想型グルイズムに、そして誇大妄想狂グルイズムへと変質していった。 麻原は弟子の潜在能力を覚醒させる変わりに、自分自身がカルトの唯一のエネルギー源、 もしくは無限の生命力になり、弟子たちが獲得できるであろうと望んでいた新しい自我の 唯一の源泉となった。

弟子たちには、グルを超える神は存在しないし、マハームドラーと呼ばれた、グルの要求 や、弟子に課せられたきびしい試練を超えた倫理基準は存在しなかった。

グルが神(シヴァ大神)に祈るときは、シヴァ大神の全能の力を自分自身に取り入れるとき だけであった。グルと弟子たちは共に、自分たちは究極の実在的な真理と徳を手に収めて いるのだという思いにかられ、そして、落とし穴にはまってしまった。

この誇大妄想狂のグルイズム--直接の、そして彼方のリアリティーを所有したり、コントロール できると主張するグルイズム--は、健全な人間の精神の特徴の一つである象徴化機能の喪失、 言い換えれば、非象徴化(desymbolization)の形式でもあった。

グルはメタファー(隠喩)を超えるスタンスをとった。グルはもはや、マルチン・ブーバーの 言葉を借りれば、『リアリティーを想像すること』が出来なかった。ヒンドゥー教の学者であ るウェンディー・ドニンガーは次のように指摘している。『ほとんどの神話は、メタファー としての機能を果たすために、根源的な人間の感情やディレンマを示唆していると言われて いる行動の記述による具体的な物語から成り立っている』

神話の物語を読むことにより、われわれは物語の具体的な詳細を、われわれが心理学的 に存在している、象徴化されたメタフォリカルな世界に再び結び付けたいと欲している。 しかし、麻原のような誇大妄想狂のグルはこれとは逆の立場をとった。彼は、人間の 想像力が機能するためにきわめて重要なメタファーや象徴化を回避するために、神話の 物語(ジャータカなど)の具体性に固執した。 (カピラ訳)
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と、なるほど思わせる分析を、精神医学者であるリフトン教授はしています。 この分析は、このリフトン教授のオウム論の中で、最も気に入っているものです。 オウムの問題点の最も大きなものに、「メタファー(隠喩)を超えるスタンスをとった。」 ところにあったように思っています。 ここらあたりを、メロンさんに、論じていただければと思っています。

グルへの愛は―― 投稿者:メロン  投稿日: 2000年9月18日(月)03時38分46秒

>オウムの問題点の最も大きなものに、「メタファー(隠喩)を超えるスタンスをとった。」
>ところにあったように思っています。
>ここらあたりを、メロンさんに、論じていただければと思っています。

いやー難しいことはよく分からんのですけど、、、(;´д`)
リフトンの記述は、なかなか興味深いですね。
まず――

>麻原は弟子の潜在能力を覚醒させる変わりに、自分自身がカルトの唯一のエネルギー源、
>もしくは無限の生命力になり、弟子たちが獲得できるであろうと望んでいた新しい自我の
>唯一の源泉となった。

要するに、グルに頼りすぎたんでしょうね。
「グルは太陽で、弟子は月」って、どこかで麻原が言ってましたよね。
月というのは、恒星じゃないから、自分で燃焼してない。太陽の光を反射してるだけ。
「グルの力がなければ、いかなる神秘力も生じない」とは、アーナンダ君(井上)の言葉です。
アーナンダは、徹底したグルイズムでしたから。
でも、本来これじゃ使い物にならないというか、駄目なんだなー って、思ってます。

たとえ信者が還俗しても脱会しても神秘力が使えなきゃ、導き手として失格だと思いますけど。
心の本質に到達させるのがグルの仕事ですから
それを「自分だけの祝福の世界」に縛り付けてしまったのでは、意味がない。

例えばチベット仏教では、いかなるグルであっても、解脱した心の境地は同じであって
瞑想上、宗派同士でグルがケンカするはずがない、と考えてます。
だから、パドマサンバヴァを観想しようが、ヅォンカパを観想しようが、
あるいは実在のグルを観想しようが、本質的に同じで、何の問題もないと考えている。
だけど、我々は二元論的思考にとらわれているから、
例えば「自分はカギュー派の修行者だからグルヨーガでミラレパは観想できても、
ヅォンカパは観想できない」とか、考えることがある。
あるいは、「オウムの修行はできるけど、チベットの修行はそれより劣っててできない」とか。
それは、大きな誤りというわけです。
オウムの修行をやってて、そう誤解してしまう可能性があるわけで
これは教義上の欠点といえるでしょうか。
(なぜならこうした誤解は、弟子たちの煽りでエスカレートしたことも否定できないから)

ただ、リフトンの限界は――

>弟子たちには、グルを超える神は存在しないし、マハームドラーと呼ばれた、グルの要求
>や、弟子に課せられたきびしい試練を超えた倫理基準は存在しなかった。

ここらへんは西洋的世界観、もっと言えば、キリスト教的世界観ですよね。
「倫理」という概念自体が、キリスト教の神−人の関係ですよね。
元信者として、「ちょっとズレてるなー」と思いました。

たしかに、グルの言葉は絶対なんですよ。
でもそれって、例えばイスラム教ではどうなんだって。
シーア派では「アヤットラ」といって、まあグルみたいなもんですけど
アヤットラの出す勅令は、絶対ですからねぇ、今でも。
故ホメイニ師なんて、アヤットラだったですよ。
ホメイニは、あるイギリス人作家に「死刑宣告」したでしょ。
あれで西洋世界は大反発したけど、
神の前での平等を考えるキリスト教徒には、ああいう心理が理解できんのでしょうな。

要するに、信者がグルの言葉を「真理の経典」とみなすのは、
グルへの激烈な愛が、背景にあるんだと思うんですよ。
ただ盲信してるわけじゃない。
イスラムだって、愛の宗教でしょ。神への愛、女性への愛に、すごくこだわる宗教でしょ。
でも西洋人はそれが理解できないから、
「強制的に信じ込まれている」と、グルを加害者扱いしてるっぽい。
アレフ求道シンリ(笑)がおっしゃってるように、グルへの愛は「帰依の気持ち」であって
それは観念上のグルではなしに、人間・麻原への魅力でもある可能性もあったと思う。
そういう「人間同士の息吹」というか、「個と個の心のつながり」を無視してしまう評価だと
これは片寄りすぎたオウム評価になってしまう。
世間では、そんな評価ばかりで、つまらないのですが。

だから(というわけではないけど)、元信者・現信者が、見てきた麻原を語り合うというのは こういう微細な評価に、大きく影響を与えると思う次第であります。

「メタファーを超えるスタンス」については、次の投稿で。長くて、すんません。

メタファーの超越。 投稿者:メロン 投稿日:2000年 9月18日(月)04時16分29秒

問題になってる箇所は――

>グルはメタファー(隠喩)を超えるスタンスをとった。グルはもはや、マルチン・ブーバーの
>言葉を借りれば、『リアリティーを想像すること』が出来なかった。

でしたよね。 「神話構造の分析」というのは、人類学や社会学で流行ってたような気がしますが 要するに、人間行動の規範というか、道徳というか、を、象徴しているというわけですね。 共同体が共有する道徳・規範を、神話はメタフォリックに表象してるということかな? もちろんその分析は、アカデミックな世界から逸脱するものではあり得ないんだけど。

>しかし、麻原のような誇大妄想狂のグルはこれとは逆の立場をとった。彼は、人間の
>想像力が機能するためにきわめて重要なメタファーや象徴化を回避するために、神話の
>物語(ジャータカなど)の具体性に固執した。

「具体性に固執」とはつまり、なんでしょうか。 例えば「ウサギ輪廻転生談」で、サキャ神賢の前世だったウサギが、 バラモンに布施するものがないからって、自分の体を炎に投げ入れて供物にしようとした。 その瞬間、バラモンはインドラ神に姿を変えて、ウサギの布施を称賛した、と。 いい話じゃないですか〜 (≧▽≦)

リフトンは「信者がこれを読んで、本当に自分の体を焼くヤツが居る」と言ってるの?(笑) あるいは、こんな神話なんぞは「実在の話」では決してあり得ないと言うのか?

ジャータカはたしかに、インド人たちの生活規範(バラモンを崇めよ、とか)が 盛り込まれている、とはいえます。 それを、時代も場所も違う日本という文脈に置いたとき、 ジャータカは違って機能するだろうことは、容易に想像できます。 しかし、何度も言うようですが、麻原は本質を見抜いていた部分がありました。 つまり、インド人にも日本人にも共通する、ある種の価値観というか 宗教観みたいなのを、古代の神話から復活させる能力があったといえます。 だって、ジャータカを読んで日本人なら、なんかジーンと来るものがあるでしょ? これが、共有価値観なんだと思うんですよ。 麻原が教団の規範にこうした経典を掲げることで、 ジャータカは、はじめて現代社会に息を吹き返したわけです。 それは、「回避」とは全く違うと思う。「復活」あるいは「再構築」ですよ。 しかも、麻原は経典を現代に復活させることで サキャ神賢時代の聖なる教団を「想像」させることに、見事に成功した。 新たな想像の共同体を、作り出したわけです。 それが真実か架空かは別としても、 その2600年前の「聖なる共同体」を想像すること自体は、善でも悪でもないですよね。 教団の転落は、もっと違うところで行なわれたんだと、メロンは思ってますが。

あと最後に、麻原は、神話の真実性を信じていた部分がありました。 「ジャータカは在家信徒の経典だ」と麻原が考えていたのは事実ですが そこに本質が潜んでいる以上、ウソだとかマコトだとか語っても意味がない、 そういう考えだったと思うんです。 そういう意味でも、リフトンの見解は、部分的でしかないと思うんです。

たしかに、麻原はメタファーを超越してましたよね。 でも「リアリティーへの回避」というのは結果論であって、 本来は、「本質への追求」にあったんだと思うんですよ。

メロンさんの帰依が培われた過程は? 投稿者:アレフ求道シンリ(笑) 投稿日: 9月19日(火)00時36分07秒

>要するに、信者がグルの言葉を「真理の経典」とみなすのは、
>グルへの激烈な愛が、背景にあるんだと思うんですよ。
>ただ盲信してるわけじゃない。
 >そうして客観的に考えてみるとどうしても世間の評価は差別的なんですよね、暴力的。
>精神や霊性を重視しない人々の、評価でしかない。
>そういうジレンマにあって、メロンがサマナ生活を思い出しながら、
>新しい麻原評価を、みなさんのお力でやっていけたらなぁー と思ってます。
 >だから(というわけではないけど)、元信者・現信者が見てきた麻原を語り合うという
>のはこういう微細な評価に、大きく影響を与えると思う次第であります。

いやあ、よくわかりますし説得力ありますよねえ。確かに宗教の世界にまったく縁のないマ スコミの分析なんか、外道シンパ〜せいぜい準信徒(笑)のアベルの目からみても見当外れ のナンセンスばかりですものね。リフトン先生の方精読もせずに申し訳ないけど、直感的に メロンさんの方が遙かに本質をついておられると確信しましたですよ。まあ内部の人間みた いなものだから(笑)、読む側として出発点において既に身内感覚でのバイアスがかかって るのかもしれないですけども(笑)。
グルへの帰依、グルへの愛、グルの慈愛・・・、ジャータカの文字読んでグルへの捨身供養 に目覚めるなんてアホな問題ではないでしょうから、入信から信徒、帰依信徒というか(信 徒あたりの定義についても時代的変遷かもあるんでしょ?)熱心な段階、出家・・・という 中で、どのようなプロセスを経て、グルへの信・帰依が培われていったか、といったところ、 に凄く関心がもたれます。
メロンさんが、不思議なことがたくさんあった事実を指摘され、またそれが絶対真理かどう かというのは別問題、と指摘されているのは確かにその通りでしょうけど、具体的にどんな 不思議を経験されましたですか?? アレフもといアベルみたいな外道シンパ〜準信徒(笑) レベルの者でさえ、天理教で、またオウムとの接触の中で、不思議なシンクロニシティーと いったものなどを実感させられることは事実ありますし、もしそれがたとえば修行上の体験 と重なっていったりした場合にはきっと信・帰依といったものがだんだn強く根付いていく のだろうなあ、と思いますが、たとえばメロンさんの場合、あるいはメロンさんの周囲の方々 の場合には、どのようにして信・帰依が深く強くなっていかれたのか、或とき突然の回心と いった劇的瞬間があったのか、それとも徐々に帰依が培われていったのか・・・などなど、 またお教え頂ければ嬉しく存じます。

在家の頃は。。。 投稿者:メロン 投稿日: 9月19日(火)02時06分31秒

>たとえばメロンさんの場合、あるいはメロンさんの周囲の方々
>の場合には、どのようにして信・帰依が深く強くなっていかれたのか、或とき突然の回心と
>いった劇的瞬間があったのか、それとも徐々に帰依が培われていったのか・・・などなど、
>またお教え頂ければ嬉しく存じます。

88年だったと思うんですが、その頃、師の方々が各地でセミナーを開いてたんですよ。 メロンの場合はちょうど、プンナ・マンターニプッタさんに出会ったんですね。 最初に、プンナさんの人柄に惹かれたんです。 あの方は、とても出来たお方でしょう。優しいしー。 その後、赤堤の説法会に行ってみたんです。当時は非信徒も参加できたから。 あの2階の狭い道場で、ぎゅうぎゅう詰めだったんですけど、 メロンはちょうど尊師――じゃなかった(笑)、麻原の目の前でね。 すごい迫力を感じましたねぇ。
その後、1人1人が麻原に面談できる時間があったんですよ。(昔ならではで) メロンも何か麻原に質問したんだけど、内容までは忘れちゃった。 でも、麻原の答えがとても面白かったことだけは、覚えています。 他人の質疑とか聞いてると、麻原の答えがホントに面白くて、いい意味で。 例えば、桐山館長貎下(笑)に命名してもらった赤ちゃんが来ていて、 麻原が、「フムフム」とか言って、しばらく画数を計算してるわけ。 1分ぐらいジーッと考えてて、「よくない名前ですねー」って。(笑) でもこうやって書くと、いかにも詐欺師っぽいけど、 場の雰囲気に呑まれちゃうというか、ぜんぜんそういう印象を受けなかったんだ。 とにかく、麻原の発想が奇抜すぎて、メチャクチャ楽しかったことを覚えてる。 説法の後、信徒と非信徒が混じって、帰依マントラを唱えたんだけど すごいエネルギーを感じたなぁ。
とにかくこの一件で、メロンは麻原に付いて行こう、と決めたんですよ。 ほとんど、直感ですね。縁でしょうね。こうして、入信したわけです。

入信してしばらくして、成就者が一気に出たでしょ。暮れでしたかねぇ。 「マハーヤーナ」の成就体験特集は、素晴らしかったです。 (白い表紙で、麻原が富士山バックに映ってるやつ) あのとき成就した師で、今でも教団(アレフ)に残ってる方、多いですね。

イニシエーションも、いろいろ受けましたよ。 「狂気の集中修行」には、さすがに行きませんでしたけど。 シャクティーパットも受けましたが、 あれはすごかったですよ。文句なく、確実に神秘体験します。 ああいうエネルギーの流れで、オウムは真理の教団だって思いましたね。

しばらくして、総選挙が始まったんだけど、 信徒もサマナも、選挙活動に駆り出された。 バクティやってると、肉体も心も、すごく変化してくるんですよ。 とっても調子が良くなってくるわけ。不思議でしたね。 周りの信徒も、嫌々やってる人はほとんど居なくて、 その後、道場で「こんな神秘体験があった」とかいろんな話になるわけ。 新興宗教やってる人って、みんなどこかしらドヨンとしてるでしょ。 でも当時のオウムの信者は、輝いてるように見えたんだ。

まあ、こんなわけで、メロンは 本格的に徳を積んで真理の道を極めるべく、出家したんです。 あの頃は、大量出家でした。メロンもその1人で。(^-^;)

だから最初は、麻原との強烈な縁を、感じたんですね。 磁石で引き付けられるような感覚でした。 その後は、実際に修行したり、イニシエーションを受けたりして 修行の効果というか、祝福の流れみたいなのを確認して、 成就者は真実なんだ、と思いましたね。

当時の在家修行ですけど。 「無上ヨーガタントラコース」ってのがあって、 そこに参加すると、最後にグルヨーガが1つずつ伝授されたんですよ。 ヒヒイロカネっていう、麻原が修法した石を持ちながら瞑想すると すごい体験が生じまして。 あと超能力セミナーってのも、あったな。 ヒンドゥーツァンダリー(だっけ?オーム・ブハー、オーム・ブフー…って エネルギーを周天させるやつ)とか伝授されるんだけど。 プルシャが1つ、もらえたんだよね。 立位礼拝たくさんやって超純粋甘露水が飲めるやつもあったし(何だっけ?) とにかく、いろんな修行が目白押しでした。 メロンは修行大好きだから、けっこう喜んでやってた。(≧▽≦) 教学システムってのは、その頃在家に、ほとんどなかったんです。 (レインボー・システムがあったかも? でもよく覚えてないや)

93年以降の在家信徒は、おとなしいタイプが多くなりましたね。 昔の信徒は、ホントに荒荒しかったんですよ。 まあ、それだけ道場にも、教団にも、活気があったってことですね。


メロンさんの、オウム批判やなつかしき想い出などを順次アップしていきます。ご期待下さい。(Kaivalya)


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