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(2004-2-10)

「オウム真理教の真実(湧意 慧・著)」より(一部補足説明あり)

<オウム犯罪の原点、諸悪の根元、オウム流マハームドラーの秘密を元サマナ・ナーギタ師が白日の下に晒し、オウム犯罪の根を断ち、オウムを「成仏」させる迫真のオウム分析。>

『マハームドラー』とは何か?ーー心の底の底の世界(P14〜)

 『地下鉄サリン事件』が起きた後、マスコミで色々な記事が紹介されましたが、その中で、特に強く私の印象に残ったコメントが二つありました。
一つは、サリン事件の実行犯の井上くん(アーナンダ師)の「マハームドラーの修行と信じて…」という言葉。そしてもう一つは、とある特集記事の片隅に載っていた現役信者の「これは、尊師が日本人に与えたマハームドラーだ!」という言葉です。
 このコメントを読んでも、一般の人々には何を言っているのかピンとこないでしょうが、私には彼らの気持ちが痛いほどよく分かりました。そして、彼らが口にした『マハームドラー』こそが諸悪の根元だったのだと強く感じたのです。

 『マハームドラー』とは、もともとチベット密教に伝わる修行法の一つで、ニンマ派の『ゾクチェン』、サキャ派の『ラムデ』と並んで、カギュ派に伝わる“密教の最高の修行体系(これらは総称してアティヨーガと呼ばれる)”の一つだと言われています。
 宗教学者の中沢新一さんは、ある雑誌のインタビューの中で、「マハームドラーとは、人の心の最も深いところ、底の底のようなもの」と表現されていましたが、この言葉から海や湖の底を連想してしまって、そのイメージを使って理解しようとすると、わけが分からなくなってしまうと思うのです。
 TVなどで時々、「神秘の世界、OO海溝の底を探る!」といったような番組を放送することがありますが、探査艇がライトを照らしながら深海を降りていくと、そこにはとても奇妙な深海魚などが泳いでいたりします。学術的には大変価値のある光景なのでしょうが、私たちにとっては単に普段見ることの出来ない、“珍しい世界”ということでしかありません。

そこで、次のようなイメージをしてみると、もう少しその感じが掴めると思うのです。

 自然に囲まれた、とある素朴な田舎の小さな村をイメージしてみて下さい。そこにあなたは生まれたときから住んでいて、まだ、一度も故郷から離れて旅をしたことがありませんでした。
 TVも雑誌もそこにはなく、あなたの知っている“世界”といえば、村を中心としたごく限られた範囲のものでしかありません。そして、日常生活の中で、自分の知っている世界以外に、もっと別の広い世界があるなどと考えたこともありませんでした。
 そんなあなたが、ある日、白く輝く“不思議な象(ミステリィアス・エレファント)”に出会います。

 ※象は、私にとって真理の象徴であり、また、そこへ導いてくれる象徴(シンボル・その比喩は思考方法の公式)でした。

 象はあなたを自分の背中に乗せると、まるで風船のようにフワリと空に昇り始めました。だんだん高度が上がるにつれて、あなたにとって馴染み深かった村の風景が、まったく新しい角度からパノラマとして足下に展開されてゆきます。今まで断片的にしか認識できなかった場所が、その位置関係を含めて全体的に眺めることができるようになったのです。
 顔見知りの人たちが、まるでアリのように小さくなって、道を歩いているのが分かります。あのまま歩いていくと、あの二人は橋の上でちょうど出会いそうだな、などと考えながら眺めているうちに、象はさらに上へと昇っていきます。
 高度が増すにつれて、住んでいた村の風景はどんどん小さくなってゆき、今度は今まで見ることの出来なかった山の向こう側が見えてきます。そこには、自分たちと同じような村落が、カナリ離れあって点在しているのが分かりました。
すると突然、目の前が真っ白になり(雲の中に入ったのです)、そこを突き抜けると今度は風景が一変してしまいます。
 それまでは薄曇りといった天気だったのですが、今では頭上に太陽がまぶしく輝きを増し、澄んだ透明な青空が限りなく広がっています。雲はもう足下ニ見えるだけで、地面の上をゆっくりと漂っているようです。清々しい開放感があなたの全身に優しく広がってゆきます。
 遠くにキラキラと輝く海が見え(あなたは今まで海を見たことがなく、あることすら知りませんでした)、彼方に見える水平線がやわらかな曲線を描いているのが分かります。
 そして、やがて今まで部分的にしか見えなかった“陸地”の全体を、見渡すことが出来るようになりました。
 山脈や平野、森林や荒野、さらには不毛の砂漠、河川や湖沼が織り成す“広大な大陸”がその姿を現してきたのです。西の片隅では、雷雲が発生して豪雨を降らせています。そしてそのはずれでは雨はすでにあがり、きれいな虹がかかっています。湖の近くでは霧がようやく晴れてきました。
 “大陸”の周りを紺碧色の海が取り囲んでいます。そして、また別の陸地がその海の彼方にも微かに見えているようです。

 あれほど青く輝いていた空が次第に薄暗くなってゆき、やがて無数の星が瞬きはじめました。それまでずーっと肌に感じていた風の流れも、いつのまにか止んでいます。水平線は、さらに大きな弧を描き、ぐるりと一周して、とうとう“円”を描いてしまいました。
 青い輝き(大気の層)に包まれた“地球”がとうとうその姿を現しました。あらゆる現象を、場所を、生き物を、そしてその活動を、すべて包み込んで渾然一体となって美しく輝く、青い“地球”の姿が…
 ーー象は、そっとあなたに囁(ささや)きます。「これが、心の底の底の世界だよ」と。

●チベット密教カギュ派の『マハームドラー』

「マハームドラー」の修行法は、大きく六つの段階に分かれています。 まず、基本的な修行となる『寂静(シャマタ)』と、『正観(ヴィパシャナー)』。 そして、本格的な四つのヨーガの修行『一点集中』『無技巧』『一味』『無修』。 これらの内容を、これから少し分かりやすく説明して見たいと思います。

 ※これらの説明には、簡単にするために、一部「ゾクチェン」や「アーガマ」からの考え方も  織り交ぜて説明しています。ですから「正式な」ものとは少し異なっていることをご了承ください。ですからこれは、「我唯 恵・的解釈」の…ということにな ってしまいますが、「“尊師”的解釈」との比較のための「対論」として提示しています。
  もし、より「本来の」、あるいは別の「解釈」をされている方がいらっしゃれば是非レスをして頂きたいと思います。とても興味がありますので… 

 『寂静の瞑想』とは、雑念を取り除き、心がリラックスして集中した状態(寂静)に導く技法です。心に浮かぶ想念がすべて静まり、心がリラックスした自然な状態で、明るく透明で輝きに満ちたまま落ち着いているという意識状態を作り出します。

 『正観の瞑想』とは、“寂静”に入った後、静まった心と動いている心(連続した想念)の二つを徹底的に観察し、そのあるがままの姿を認識して心の本質を見極めていく技法です。バリエーションとして、現象と心が切り離せないものであるということを認識するために、心が現象を投影している姿を観察したり、心と身体が同じであるのか別であるのかを観察してその本質を見極めていく方法もあります。

 『一点集中のヨーガ』とは、“一点集中”という言葉の意味を取り違えると、わけが 分からなくなります。私たちは、対立する二つの概念(陰と陽、善と悪、苦と楽といった二元論)の世界に生きています。それらを超えた本質的な世界を実感(体験)するのがこの修行なのです。
 たとえば、中国の有名な故事に『盾と矛』の話があります。
 どんな矛(武器)をも通さない盾(防具)と、どんな盾をも貫き通す矛は、お互いがその相手を否定しあうという、相反する矛盾(この言葉の語源がこの故事です)した存在です。
 しかし、ある特殊な状況においては、この矛盾は消えてなくなるのです。  ここに二人の兵士がいて、一方が“どんな矛をも通さない盾”を持ち、もう一方が“どんな盾をも貫き通す矛”を持っていた場合、その結果は必ずどちらかが勝ち、どちらかが破れてしまいます。ところが、もし、二人(二元論)ではなくてたった一人(一元論)の兵士が“どんな矛をも通さない盾”と“どんな盾をも貫き通す矛”を両手に持って、外敵(様々な問題・トラブル)と戦ったとしたら、どうなるでしょうか?この場合、“盾”も“矛”も、その存在意義(アイデンテティ)を否定されることはありません。
一人の兵士(一元論)に使われている限り、この二つは決して互いに争うことがないからです。そしてこの時、最高の武器と最高の防具を持ったこの兵士は、連戦連勝の「無敵の戦士」となるに違いありません。もっともこれは、ややこじつけめいた説明なので、別の例をもう一つ出しましょう。
 『群盲象を撫でる』という喩えがあります。目の見えない人たちが巨大な象に触り、 ある人は「柱(足)のようなもの」だと言い、ある人は「紐(尻尾)のようなもの」「壁(腹)のようなもの」だと言ってお互いが主張を譲らずに争いになってしまったというお話です。
「柱」や「紐」や「壁」は、同じ“巨大な象”の異なった顕れ(部分的な真実)にしか 過ぎません。そしてそれらは「対立する」関係にあるのではなく「相補的な」関係にあることを、ただ観念的に頭の中で理解するのではなく、体験的に実感として把握してゆくという修行、それが『一点集中』のヨーガなのです。
 二つのものを融合させて一つに集中(一元化)させるヨーガ、このヨーガは、二つの異なる真実のレベルが「同時に存在する」という“悟り”を身につけるための技法なのです。

 『無技巧』のヨーガとは、原始仏典にある二つの喩えを使って説明すると解りやすいでしょう。
それは“筏(いかだ)の喩え”と“弦の喩え”です。
 “筏”は、河を渡るときに使う道具として利用されますが、対岸に渡ってしまえばもう必要ありません。渡るときにいくら役に立ったからといって、対岸に上がってからも大事に持ち歩いていては、邪魔な粗大ゴミにしかなりません。それは、用が済んでしまったら捨てなければならないものなのです。
 そして、これを言い換えると“弦の喩え”になります。
 例えば、ギターの弦は、緩みすぎていても張りすぎていても、「正しい音色」は奏でられません。もし、ある人のギターの弦が緩みすぎていたとしたら、「弦を強く引き締める方法」を導師(グル)は教えてくれるでしょう(※例えば、享楽的な人には対立概念の「苦」を使って…)。
しかし、その方法に固執してひたすら引き締め続けていると、今度は張りすぎた状態に陥ってしまいます。それまでは正しかった“方法(対処法としての教え)”が、ある瞬間(特異点)から突然に「間違った方法」へと“変化(変容)”してしまうのです。このように、仏教の『中道』とは、“真ん中を取る”などという“単純な教え”では決してありません。
 『無技巧』のヨーガとは、今まで私たちが身につけてしまっている様々な“技巧(宗教的な観念、その他)”の弊害を取り除き(観念の崩壊)、“無(ニュートラル)”に還元してゆくヨーガなのです。

 『一味』のヨーガとは、“一点集中”を続けていくと、二つの異なったレベル(二元)が融合された“特殊な意識状態”を何度も経験するようになります。そこでは、あらゆるものが分けることのできない融合された“一つの味(一元=空・大我)として感じられるのです。
 この体験をより深めて定着させていくのがこのヨーガです。

 『無修』のヨーガとは、修行をする必要のなくなる意識状態を作り出すヨーガです。  多くの人は、“修行”を「家を建てること」のようなものだと考えてしまいがちです。
 家を建てるには、まず設計図が必要です。そして大工道具をそろえ、建築資材を調達して準備をするでしょう。そして、石やコンクリートを使って土台を作り、鉄骨や材木で骨組みを組み立てていきます。これは、一人で実行するには大変な作業です。熟達していなければ、せっかく造っても歪んだ“家”になってしまうかも知れません。そこで、立派な“家”を建てるためには、建築に熟達した“指導者”が必要だと考えてしまうのです。

 ところが、本当の修行とはこのようなものではありません。
 私たちは、家を建てる必要など本当はないのです。
 何故ならば、家はすでに「建っている(完成している)」からです。
 しかし、今の私たちの周りには、とても深い“霧”が立ち込めていて、その“姿”が見えないために、私たちは「その事(真実・真理)」に気づくことはできないのだ、と仏教(特に、ゾクチェン)では教えています。つまり、必要なのは(アプローチの方法としては)「家を建てること」ではなくて、私たちの「目の前の霧を晴らすこと」なのです。

 霧が晴れてしまえば、もうすでに、そこには“家”が建っているのです。
 何の歪みもない「綺麗で立派な家」が…

 ですから、霧が晴れたとき、私たちは「家を建てようとする“あらゆる努力”」から “解放(解脱)”されます。つまり、『無修(修行する必要のない)』の状態に“気づく”のです。これを『無学(これ以上学ぶ必要のない)』と呼ぶ場合もあるようです。
 つまり、この意識状態へと導いてくれるのが、『無修』のヨーガなのです。

 かなり大ざっぱな説明になってしまいましたが、チベット密教に伝わる修行体系『マハームドラー』の大体のイメージは掴んで頂けたのではないでしょうか?

さて、それではいよいよ『オウム流マハームドラー』の説明へと話を進めることにしましょう。

  ●『オウム流マハームドラー』は、間違いを正当化させる万能薬!

 オウムの『マハームドラー』を理解する上で、とても役に立つエピソードが幾つかあります。というよりも、私はこのエピソードこそが″尊師″が『オウム流マハームドラー』を考え出すに至った原点だと思うのです。
 それは、『ティローパとナローパ』や『マルパとミラレパ』の師弟の物語で、チベットに伝わる聖者たちの特異なエピソードでもあります。少し長くなりますが、中沢新一さんの名著『虹の階梯』から引用してみたいと思います。

 あの出会い以来、ティローパはどこに行くにもナローパを連れ歩いたが、教えめいたことは何ひとつ語らなかった。ある時、ニ人は九層の塔に登った。弟子とともにそのてっペんに立ったティローパがつぷやく。
「本当に法を学びたいと思うほどの者ならは、この塔のてっペんから飛びおりることも平気なはずだ。」
 ナローパはあたりを見まわしてみたが、ほかには誰もいない。ああ、ティローパは自分に呼びかけているのだなと気づき、後ろもかえりみずに、てっペんから飛び降りた。 ナローパはひどい骨斬で、意識も失ってしまった。師はそんな弟子をその場においてきぼりにして立ち去り、数日がたった。ナローパは死を覚悟した。その時だ。ティローパがフッとあらわれ、こう語りかけてきた。
「わたしの息子、傷はし痛むか」
「お気になさらぬよう、わたしはもう死にますから」
 ティローパは、そこでナローパを優しくなでた。驚いたことに、それで傷はすっかりなおってしまった。またある時、ティローパはナローパに、火をたくから竹の枝をとってこいと今じた。ナローパが火をおこしていると、またティローパがつぷやいた。
「真実の弟子ならば、焼けた竹のとげをとって、指の間につきたてるはずだ」
 ナローパはその言葉どおりに行ない、またも意識を失った。師は今度も弟子を苦しみの中においてきぼりにした。数日たってティローパがあらわれた。
「わたしの息子、傷は痛むか」
「お気になさらぬよう、わたしはもう死にますから」
 ティローパはナローパの指の開からとげをぬきとり、神秘的なカで傷をいやした。また別の時、二人は何日も歩きつづけたあげく、ティローパはナローパに頭蓋骨の鉢を手渡して言った。
「わしは腹がへった。これに食べ物を集めてきてくれ」
 ナローパはそれをもって森に出かけ、食事中の木樵たちに出合った。ナローパが 「その汁を分けてください」 と言うと、木樵たちは喜んで鉢に分けてくれた。弟子がもって帰った汁を、師はおいしそうに平らげた。ナローパは思った。
「師はこんなに喜んでいる。もう少しもらってこよう」
 彼はまた木樵たちのところへ出かけていった。森では、木樵たちは仕事に出かけて誰もいなかったので、ナローパは鍋に残っていた汁を失敬して鉢に入れた。ところが折悪しく、木樵たちがもどってきて、ナローパが食べものを盗んでいるのを見つけてしまった。木樵たちはナローパを補えて、したたか打ちのめした。彼はとうとう気を失って、その場に何日も倒れたままだった。ふたたぴティローパがあらわれて言った。
「わたしの息子、傷は痛むか」
「お気になきらないように、わたしはもう死にますから」
 ティローパが手をさしのべると、不思識とナローパの傷はいえていた。
 ナローパはこうして師ティローパからあたえられた二十四の試練をのりこえていく。 そしてそのたぴに死ぬほどのひどい目にあって、師の神秘的なカでいやされていくのである。こうやって、師は弟子の輪廻との悪縁を斬ち切っていった。そして、とうとう覚醒を獲る日がやってきた。
 その日、ナローパは師の言いつけで湯をわかそうと火をくべていた。いきなりティローパは弟子の髪を後ろざまにつかまえると、その頭を靴でしたたかなぐりつけたのである。ナローパは気を失って倒れてしまった。しかし、ふたたぴ意識をとりもどしたナローパの心には、師ティローパのすぐれた境地が残らず伝えられていた。ナローパは信じられないような誠意をこめて師を信頼しつづけ、それによって一言も教えらしいものを受けないままに、ついに師の心をそっくりそのまま知りつくすことができたのだ。ティローパほどのすぐれた成就者ならば、強い因縁で結ばれた弟子に、時みちれば、神秘の霊感の中で、直接無媒介にその数えを伝え切ることができるのである。
        ラマ・ケツン・サンボ+中沢新一、共著 『虹の階梯』より)

   この、最後にティローパがナローパに施したとされる秘儀は、チベット密教(ニンマ派)では『思念による勝者の相承』として知られています。                    

密教には、三種類の秘儀の伝達方法があると言うのです。  

  一つ目が、″言葉″や″象徴″という間接的な媒介を使わずに、直接相手の心にそのまま自分の心をダイレクトに伝達するという『思念による勝者の相承』。                                     
 二つ目が、″象徴(言葉や図形・音・色などに複雑な思想を圧縮して詰め込んだもの)″を使って、″純粋な心で世界をありのままに観る能力″を身につけた人々に対して伝達するという『象徴による持明者の相承』。
 三つ目が、導師が″言葉″を使って詳しく説明し、それを聞いて弟子が理解するという『耳を通した言葉による人の相承』。
 つまり、ごく普通の弟子に対しては″言葉″が、とても優れた弟子には″象徴″が、そして最高の素質を持った弟子には″思念″そのものが伝達方法として使われるというわけです。

もう一つのエピソードである『マルパとミラレパ』の物語は、かなり長い話なのでここでは引用しませんが、内容は今の物語とよく似ています。
 たとえば、師であるマルパは弟子のミラレバに、呪術を使って村人に大粒の雹を降らすように命じたかと思えば、その後で、それによって被害を受けた村人の畑を元通りにして、償いをするように命令します。  

   「それができたら、わしはおまえに真理を与えよう。できないのなら、もうわしの前には現れるな!」 マルパはミラレバに言い放ちます。                                   

 さらにマルパは、家を建てるように命じたかと思うと、それを何度も取り壊して建て直すようにミラレバに命じるのでした。こうした試練が何度も繰り返され、絶望したミラレパは最後に自殺をはかり、ギリギリのところで兄弟子のラマ・ゴクパに止められました。
 そこで初めてマルパはミラレバに新しい宗教上の名前を与え、密教のすべての教えを伝授するのです。

                                        これらのエピソードのポイントは、導師の与える様々な、まったく理不尽で不条理な試練に、苦しみ、悩み、疑いながらも、それに耐えて従いぬくことによって、すばらしい内面の成就を成し遂げる、というところにあります。 
 この方法は非常に特殊なものであり、師と弟子の双方に特別な資質が必要とされるため、本来は″教義″や″修行法″として普遍化することなどできないものなのですが、オウムは、いや″尊師″は、これを『マハームドラー』と名づけて教義化してしまったのです。
 「導師は、弟子の悪しきカルマを落とすため、色々な苦難を与える。そして、その苦しみの原因となる″思い込み″や″観念″を証知させ、崩壊させることによって″解脱″へと導いてくれるのだ。」と説いたのです。
 しかし、私自身はこのエピソードに対しては別の解釈を持っています。

 ナローパやミラレパが持ち続けていた苦しみは、求めても得られない苦しみ″でした。この″苦しみ″を仏教では 「不求得苦」 と呼んで、四苦八苦の一つとして教えています。そしてその苦しみは、十二縁起の中の一つである″渇愛″という心の働きによって引き起こされるのだ、と釈迦は説いているのです。
 ″渇愛″とは、砂漠で歩き続ける人が喉をカラカラに乾かせて、必死で水を追い求めている時のような、激しい渇望状態を指しています。そこで釈迦は、苦しみの原因となっている″渇愛″を滅すれば 「不求得若」 の苦しみから解放されるのだと教えているのです。
 しかし、ナローパやミラレパが必死で追い求めていたものは″真理″なのです。だとすれば、この″苦しみ″は、捨て去るべきものなのでしょうか?
 求める思いが強ければ強いほど、それを得たときの喜びは増大します。そして、それを得るのが困難であればあるほど、それを得たときに感じる″大切に思う心″も極限にまで高められると思うのです。
 砂漠を何日も水を求めて彷徨った人が、ようやくコップ一杯の水にめぐり合えたとき、その人は、その宝石のように貴重な水を、一滴も残すことなく必死で飲み尽くそうとするでしょう。水は〃真理〃を意味します。
 必死になって、手に届かない″真理″を追い求め続ける、激しく燃えるような恋心にも似たこの″念い″こそが、導師の与える″真理″を全身全書を持って吸収し尽くそうとする心の状態を作り出し、その時に初めて『思念による勝者の相承』のような奇跡が起きるのではないでしょうか。
 ティローパもマルパも、別に導師への″帰依″を求めていたわけではありません。二人が繰り返し弟子たちに求めていた″もの″は、真理への極限にまで高められた渇望、つまり″求道心″なのです。

 「それができたら、わしはおまえにダルマを与えよう。できないのなら、もうわしの前には現れるな!」

 マルパはミラレバに、何度もくり返しこの言葉を投げかけます。
 この、極限にまで高められた″渇愛″がなければ、″真理″を瞬時に体得する、という″ヴアジラヤーナの奇跡″は起きないのではないでしょうか。
 もちろん、弟子の悪業を苦難を与えることによって落としてゆく、という側面はあるでしょうが、それが本当の目的ではないように私には思えてなりません。
 そして、くり返して言いますが、この『オウム流マハームドラー』と、チベット密教の『マハームドラー』は、まったく何の関係もないのです。  

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