
ロバート・J・リフトン教授オウムを語る【No2】
シェインバーグ:そのような心象風景は、麻原や信者たちの妄想の中で増殖していったのでしょうか?
リフトン:幾人かの元信者から聞いたヴィジョンには次のようなものがあります。まず、完全な廃墟のシーンからスタ ートします。大火災、都市の崩壊、そしてこの一部は海に沈んでいます−−これは核戦争による破壊を伴ったハル マゲドンの様子です。そうして、その後、ある小さな場所に、静かな霊的空間が存在していますが、そこではオウム の修行者の少数のグループが瞑想修行を行っています。世界終末のイメージあるいは妄想は常にわれわれと共に 存在してきましたし、それらは人間の想像世界の一部になっています。普通の人たちはこのような妄想をいつも夢 の中で体験します。しかし、このような妄想を実現させることが出来る兵器は最近まで存在していませんでしたので、 これはとんでもない時代になったものです。
シェインバーグ:オウム信者はそのような妄想を信じるようになったのですね。
リフトン:ヴィジョンに満ちあふれていた環境のせいかもしれません。強烈な神秘体験に言及した多くの人と話をしま した。修行の重点が瞑想と呼吸法(プラーナーヤーマ)に置かれていました。後にLSDを含むドラッグも使われるよ うになりました。修行者はしばしばヴィジョンを見る体験をしましたが、それらの多くは明るい光を見ることと関係があ り、かれらの神秘体験の共通語のようなものです。かなり初期から麻原と修行を行ってきた信者の合い言葉は、猛 烈に集中的に修行し、短期間に成果(成就)をあげようというものでした。
シェインバーグ:どのような修行の成果が得られたのでしょうか?
リフトン:彼らは高度なエネルギー状態を体験したと語っています。そのエネルギーは神秘的な感覚を帯びていたそ うですが、何故ならそれは生命力、不死の力を意味するものだからそうです。そして、彼らはそれらの体験をオウム 時代にしているにもかかわらず、今でもそれを懐かしく思い出すといいます。東京で元信者は私に次のように語りま した−−「毎日裁判を傍聴に行っており、オウムの闇の部分も分かってきています。でも、なにか奇妙なんですよ ね。私がオウムにいた時と同じ様な巨大なエネルギーを感じました」と。それで私は尋ねました、「それからどうなり ましたか?」と。彼が言うには、「そうですね、次第に消滅していきましたけど」、ということです。また私は他の元信徒 にもそのような現象をたずねてみました。その人達は、オウム体験において、オウムの前にもオウムを出てからも 経験したことのない強烈なエネルギー状態に対して、大変なノスタルジーを感じていました。ここでちょっと付け加え て置かなければならないことは、オウムの教義のすべてが、こういう高度なものばかりではなかったということです。 麻原は、理解できるようなやさしい口調で日常生活の問題について、まじめなちょっとした説法なども行っていまし た。「死について心配することは意味があるのだろうか?それは畢竟その人間の持つカルマであり、心配することは 愚かなことであり、あなた方がなさなければならないことは、あなた方の人生を点検することである。君たちの人生で むなしく感じることはないだろうか?君たちは堕落した社会に住んでいると感じたことはないだろうか?」 そして麻 原の日本社会分析−−日本社会は教育や会社組織において、強固な権威主義である−−は的を得ていたので、 効果的だったに違いありません。この麻原のご託宣は、日本社会に対して敵対的な人間や、そこから排除されてい ると感じている人間にとっては、我が意を得たりと感じたことでしょう。オウムの信者はしばしば日本社会の生存競 争に立ち向かえなかったので、弱者とみなされている若者たちでした。それでオウムは彼らに安らぎの場所を与える と共に、人間にとって本質的な問題とは何か、といった根源的な問題をベースにして語りかけていったのです。
シェインバーグ:オウムは信者に共同体の感覚を与え、精神的安定を与え、そして更に、高次のエネルギーを生じさ せる特別な修行を実践させたのですね?
リフトン:そうですね。ただ、あなたのような言い方だと、オウムの修行は静かで普通のように聞こえますが、その修 行は非常に強烈なものでした。単なる修行のための団体というのではない、最も高い霊的願望を持つ特別な人間の 集団である超越的な共同体は、次第に、オウムの外部の人間はみんな汚れており、彼らの悪いカルマにより破滅への道へと運命づけられ ているという教義に傾斜していったのです。このような教義のために、オウムを取り巻く状況が悪い方向へと向かっ ていったときに、信者のオウムへの帰依は非常に深く内在化されていたので、教祖を批判することが出来なかったの です。また、教祖を自分たちから引き離すことが出来なかったのです。現在でも、大変難しい状況です。私と語った 元信者は、たぶん次のように語ると思います。「麻原は犯罪者であり、彼は他の人たちを裏切った」と。しかし、こう 語った後、次のように語るのではと推測します。「前世において教祖とは縁があったはずだ。たぶんその時には私の グルであったのだろう」と。麻原は高度な巧みな方法でカルマの教えを悪用しているのです。密教やチベット仏教の 教えの中でさえ、私が理解しているところでは、カルマは過去の生活の結果であり、人はいつでも善き行いにより、 悪いカルマを解消する機会を持つことができます。カルマは善き行為への可能性を完全になくすることはないので す。しかし、麻原と関係を結んだからには、彼に従わなければ、悪いカルマに押しつぶされ、この自己のカルマに 支配されてしまいます。これが彼の教えです。
シェインバーグ:麻原についていかなければ、ですね。
リフトン:そうです。私が全体主義体制における「思想改造」を研究したとき、いわゆる洗脳と呼ばれる方法ですが、 他の人間を支配下におく鍵は、彼らの罪と恥のメカニズムを支配下に置くことにあるのではないかということを発見 しました。そうですね、弟子たちのカルマを支配することは、全体主義における思想改造の方法よりも先に進んでい ると言えます。カルマの支配は、弟子たちが自分の過去世のなしたことが原因で、現在の悪い環境下にあるのであ り、それに責め立てられていると感じるために、罪と恥を含むのです。しかし、グルはさらに、絶対的な意味におい て、弟子たちの運命、弟子がいかなる人間になりうることが出来るのか等々を支配していると考えるのです。
シェインバーグ:そして弟子たちの来世までも支配するのですね!
リフトン:そして弟子たちの来るべき未来の、すべての生もです。グルは弟子たちの過去世をすべてお見通しであ り、弟子たちに魅惑的な超越的なプレゼントを与えており、グルは弟子たちの未来をコントロールすることを確約し ているのです。グルは弟子の未来のすべての生を支配するのです。
シェインバーグ:麻原はまた弟子たちからこの現実の社会の個人的な責任感をすべて解除してやりました。かれはこの現 世のすべての瑣末な責任から弟子たちを解放してやったのですね。
リフトン:そうです。弟子の唯一のなすべきことは、グルの教えに完全にしたがうことであり、そうすることによって、グ ルと合一するのです。それは完全な自我の消滅であるのであるが、又一方では、グルの誇大妄想狂の結果とも言 えるのです。完全な自己の明け渡し、自己放棄はグルとの合一という共同幻想をもたらしてくれるのです。私がイン タビューした幾人かの元信者はこの幻想といまだに格闘していますが、それは明白に見て取れます。何故なら、自 分たちは第三次大戦やハルマゲドン後の世界に真理を宣べ伝えるべく運命づけられた特別な人間であり、自分た ちのみがその真理を掌中にしている選ばれた人間だと考えているからです。彼らは単なるリーダーではなく、来るべ き新しい宇宙次元の審判者となるべき運命だと考えていたからです。このような約束と引き替えに、彼らはグルの言うがままにな ったのです。グルとの合一のために自己を消滅させるのです。彼らの多くはこの信仰を描いているビジョンを経験し ています。
シェインベルグ:そのようなヴィジョンの様子を語ってくれますか?
リフトン:ある若い男性は、人間で作られているピラミッドのような構造物を見ていました。その頂上に麻原は神のよ うに、あるいはブッダのように座っているというのです。そして、このヴィジョンを見た彼はある不動の力で、そのピラ ミッドの頂上に、グルの場所へ引っ張られていきます。彼は二人が合一するまで近づき、彼はもやは彼自身ではな く、彼は麻原であり、麻原はもはや麻原ではなく、麻原は彼自身でもある。そして次に彼は麻原に尋ねる--勿論、麻 原も同じ質問をする--「これは本当の<空>なのだろうか?」。そして麻原は姿を現し、同時に彼自身も答える-- 「おお、そうしてあなたは初めて<空>を経験しているのですね」。
シェインバーグ:このオウム信者の体験は、エゴをなくし、師との距離感をなくし、師と一体化を目指す禅や仏教の教 えと一致するものですが、オウムの場合は誇大妄想狂に変わっていきました。本質的に全面的な謙遜のヴィジョン が独善のヴィジョンへと変容していくケースについて何か話していただけますか。
リフトン:そうですね、謙遜は決してグルのために存在するのではありませんから、それで、あなたもご存じだと思い ますが、修行者は自分の中の又はグルの中の誇大妄想を見抜けるかどうか、が決定的に重要になってきます。 麻原のパラドックスは、宗教の指導者は、純粋に霊的な修行を伝えたり教えたり--麻原の場合は主に仏教ですが --すると同時に、その指導者の組織の設立当初から、いかがわしい要素を内包していくことが出来るかということを 示していると思うのです。人は、麻原の深い堕落を否定することが出来ないと同時に、純粋な宗教的達成も否定する ことは出来ないのです。
シェインバーグ:麻原のケースは、誇大妄想を封じ込めるためには、むずかしいパラドックスですね。
リフトン:はい。そして、私には、オウムの修行に一定の評価を与えたくないという理由で、オウムの修行をパラドック スだと言うことさえ、難しいのです。しかし、少なくとも、麻原の弟子たちには、修行の成果があったと認識されていま した。慈悲深いグルと殺人を犯すグルとを見分けるのは、いつも易しいとは限りません。グルへの帰依の問題点の 一つは、精神の高揚の状態は、ある一貫性があり、グルの資質がどうであれ、魅力があるということです。あるい は、次のようにも言えると思います。弟子に対して本物だと認識させる高い意識状態へと導いていけるグルは、そ の弟子に非常に大きな影響を及ぼします、と。これは、偉大な禅のマスター、あるいは麻原のケースのように誇大妄想患者で あると同時に犯罪者になっていく人間であろうが、本当です。 純粋な宗教的経験は、この意味においては、弟子の 自我を無我の境地へと誘うことにより、その弟子の自我が脆弱になることを求めます。そして、麻原は、クンダリニ ーヨーガや他の修行法を通して、弟子たちに神秘的体験をさせながら、無我の境地へと導く強力な能力を持ってい たようです。オウムの修行における危険は、この弟子の自我の脆弱さを麻原の利己的目的のために悪用すること ができたところに存在していたと言えます。
シェインバーググ:われわれが仏教の伝統において、「無我の境地」(禅の無底の境地か?)と呼んでいるものは、全体的な不安的さ、あるい は、 基盤のなさを意味します。理想的には、仏教の枠組みの中で、師と弟子は互いに信頼し合い、互いに影響を与 え合うことができれば--師が本物の師であったならばの話ですが--、師は弟子の修行におけるこの自我の脆弱さを 和らげることが出来、そして私たちが言っているように、無底の境地と有底の境地の合一を弟子は理解すること が出来ます。
しかし、もしある修行者がこの無底の境地とそれ以外の境地との区別は出来るのだという考えを抱いているならば、 その時、無底の境地は、ある型(この無底の境地)へのやみがたい欲求を生じさせることにしかつながらないでしょ う。仏教経典には、もし修行が偏った方法で行われるならば、その修行は毒に変わっていくのだという、修行上の警 告に関する言説に満ち溢れています。ある意味において、あなたが麻原について語ってきたことは、この点に関して の怖ろしいカリカチュア(戯画)ですね。しかし、これは何もオウムだけに限らず、あらゆる既存の宗教にもあてはま るメタファーとして見ることも出来ます。根本においては、無底の境地というのは無我のヴィジョンであるのですが、こ のヴィジョンは新しいフォーム(有底)を強いる展開になりやすく、結果として、堕落していき、それを乱用するように なるのです。リフトン:オウムはすべての人類のためのすべての真理を持っているのだと豪語していました。しかし、オウムは又 、オウムと一般人の間の壁を設定することにより、現世肯定的、人間中心主義の道徳からラディカルに隔たって いました。実際、オウムには二つの壁がありました--絶対的な差別の二つのレヴェルの壁が。一方では、オウム信 者と、絶望的に汚れている(悪業にまみれている)一般の人々(凡夫)との間に立ちはだかっている壁がある。これら の一般の人たちは、麻原との縁がないから、そもそも汚れている。そして第二のレヴェルの壁は、ラディカルな差別 としての壁であり、オウム信者と麻原との間に存在するのです。現在においても、多くのオウムの元信者はグルとの パイプ(これはオウム用語)を破ったことに罪の意識を感じており、恐れています。彼らの精神のある部分は、いまだ に、この世界における真理と純粋さの唯一の源泉としてのグルにしがみついているのです。そしてそういう精神の姿勢 が、多くの元信者を次のように悩ませているのです。もしかしたら、歴史は麻原尊師が正しいのだと証明するかも知れな い。一連のオウム事件はわれわれ普通の人間には理解できない、より高い目的のために起こったことであり、尊師 は人類のより高いレヴェルの進化を達成するための事件であったのだと分かっているのではなかろうか、と。
シェインバーグ: オウムのような思想が仏教から現れてきたことは非常に驚くべきことです。もともと仏教は、このよ うな差別を否定するところから出発したのですからね。根本的な仏教の教えでは、すべての生き物はもともと仏性を 持っていることが説かれています。どのような仏教徒のヴィジョンにおいても、根本的な汚れというようなものは存在しません。 麻原は仏教の無我の教えのエッセンスを悪用し、ねじ曲げてしまったのです。
リフトン:ただ、すべての宗教は破壊的行動の可能性をを内包しています。あなたもご存じのように、私は、私の研究調査 に多大な助力をしていただいた仏教の僧侶と語り合いました。この人は、元信者とご自分のやり方で熱心につき合 ってきました。それにもかかわらず、彼がオウムについて語るとき、次のように言うのです。「オウムは仏教ではな い。仏教は縁のある他者を大切に扱うものだ。慈悲は仏教の教えや修行の核心なのです。」 たしかにこの 言葉は本当でしょう。オウムが犯したことは仏教の慈悲とは言えないでしょう。しかし、それにもかかわらず、オウム は仏教ではないのだ、とは言えないのです。
シェインバーグ:仏教では、ブッダと悪魔は髪の毛ほどの間も隔たっていないのだという言葉があります。それで、つ まり、このことが、何故、オウム真理教が仏教を学びながら、無差別殺人を犯す集団に至ったのかを検証することが決定的に 重要な理由であるのです。
リフトン:そのことは多くの元信者がやっています。そして彼らは非常に苦しい時期を過ごしています。その理由の一 つには、オウムでの体験が非常に破壊的であったので、彼らの人生に空洞が空いたのみならず、人生そのものが 滅茶苦茶になってしまったからです。勿論、彼ら元信者が日本社会で差別されているという現実があるからでもあり ます。しかし、私は、彼らにとってオウム体験が非常に深く身心に染み込んでいるので、オウムから離れて、他の仏 教に向かうことは大変難しいと思います。多くの元信者はあれこれと探し回っています。そして、伝統仏教と格闘して います。仏教経典を読み、仏教の師に教えを乞い、オウムとは異なる真の仏教を見出すために、あらゆることを試 みています。
シェインバーグ:オウムは私たちに何か教訓を残してくれたでしょうか?
リフトン:はい。ファナティシズムと究極の兵器の結びつきほど危険なものはない、ということです。そういう意味にお いて、宗教とは危険なものを秘めているのだと言えるでしょう。
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元オウムサマナ、メロン氏、オウムを語る--(1)--
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上祐氏ニューヨーク・タイムズインタビュー