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(2004/2/24)

オウムに関する本の書評、感想のページ

■『オウムと私』林郁夫著、文芸春秋

■ロバート・ジェイ・リフトン著『救済と終末の幻想』岩波書店

■早坂武禮著『オウムはなぜ暴走したか。』ぶんか社


『オウムと私』林郁夫著、文芸春秋

●KUWAKOさん

僕はかなり「オウム真理教」に対して今もこだわっている方だと思う。それはやはり僕自身がオウムに対して少なからずシンパ シーを感じていた(今も完全に否定しようとは思えない)からである。そして、オウム全盛期の信者や、サマナ(出家者)はほとん ど僕と同世代の人達だったし、彼らが様々なメディアに登場し、社会的犯罪を起こしていった過程をリアルタイムで見てきたから である。

たぶんオウムの事件は「忌まわしい過去」として語り続けられるに違いない。今の団塊の世代のオヤジ達がかつての「学生運 動」の話を滔々と語っているのと同じように、僕がオヤジになったら「オウム事件」を滔々と子供達に語るに違いない。それぐらい しか僕には語れる歴史なんて無いのだ。不幸なことに。

だから、否が応にも「オウム事件」を背負って行かざるを得ない。仏教や精神世界に興味がある僕としてはやはり看過させられ ない出来事なんだ。

林郁夫氏(以下、敬称略)は桐山靖雄氏の「変身の原理」に出会い、カルロス・カスタネダなどに影響を受け、「修行による解脱 の可能性」を追求していく。しかし一向に解脱に向かう変化も体験も得られないそれらの「技法」に疑問を感じ、試行錯誤してい た末に「オウム」に行き着いたのだった。

僕もかつて「変身の原理」は読んだし、カスタネダの一連のシリーズも読んだ。そして「オウム」の存在も早くから知っていた。で もそこには入らなかった。

それは僕がそれほど真剣に「解脱」なんてものを求めていなかったからだし、根っからの「臆病者」で実際に「信者になってみよ う」と思わなかっただけのことだ。ただ本を読んで「へーー、そんな超能力があったら凄いなーー」と「読み物」として楽しんで終わ りだった。

まあ、あとやはり「どうも胡散臭い」というのがあった。それは「顔」だ。もちろん顔だけで判断しちゃいけないのだろうが、桐山氏 も麻原もメディアに映った時の「顔」はどうも「ヤマ師」のような感じがした。特に麻原の大げさな言説・・・「最終解脱者」「キリスト の生まれ変わり」などの発言はそれだけで「雄大妄想的イカサマ野郎」と断定するのに十分なような気がした。

だから、選挙の時、阿佐ヶ谷駅で深夜まで頭を下げて熱心に活動している信者を見ると、「なぜそんなに麻原なんて人を信仰で きるの?」と疑問に思ったものだった。麻原はイカサマ師で汚れているような気がしたけど、その「頭を下げている信者」は純粋 な人のように感じた。少なくともストイックに「修行」している感じがした。麻原は嫌いだったけど、信仰している信者は「偉いなあ」 と思った。でも僕は麻原には絶対についていけない・・・という確信はあった。

林は麻原より歳が上であり、出家する前は「医者」であったこともあり、医者としての職業意識・倫理をきちんと持った理性的な 常識人・・・テレビでの記者会見や逮捕された時の彼の顔を見るとその印象を強くするが、そんな林が何故、麻原を信仰し、「サ リン」を地下鉄にまくことになってしまったのか。

この本ではそこに到る林の心の葛藤が詳しく書かれている。たんに「洗脳」されて実行してしまったのではない。オウムという特 異な集団が一般社会に「戦い」を挑む過程・・・その「戦い」による「人殺し」を大義名分化する「タントラ・ヴァジナヤーラ」の理論。 最終解脱者としての麻原が魂を転生させるから「ポア」=殺人しても許されるという構図。麻原の「踏み絵」と「慣らし」のテクニッ ク。

林はさまざまな非合法活動(ワーク)を実践しながらも「オウム」の「倫理」と一般社会の「倫理」の狭間でもがき苦しんでいた。で も結局「オウム」の倫理を選んでしまった。それはやはり麻原による「救済」を信じていたからでもあり、また妻子もオウムに出家 させてしまっていて、自分が逃げれば妻子がどうなることになるのか、そして逃げてもどうせ連れ戻されてポアされる・・・という 現実的な恐怖もあった。

理性的に自分を見つめることの出来る林であったからこそ、逆にオウムから抜け出せなかったのかも知れない。「解脱すること」 そして「人々を救済すること」に真剣で真面目すぎる林の姿がここには書かれている。誤解されてもかまわないが僕は林が「無 期懲役」で本当に良かったと思っている。

もしかして、阿佐ヶ谷駅で「熱心に頭を下げていた信者」もきっとその自分の姿・信仰・行動に疑問を感じ、葛藤していたのかもし れない。それが出来たのはあの「麻原のハリボテ」を被っていたからだろう。「麻原のハリボテ」という仮面の奥には「心の葛藤を 感じる素顔の自分」がいたに違いない。

●元サマナてんまさん

「オウムと私」を読んで、私は純粋に解脱というか、そんなものを追い求めてた日々を思い出し た。行による神秘体験をひたすら積み、その体験から真理を探り、掴みたいと願っていたあの頃。 しかし、オウムに入ってからは、体験する前に麻原の言う世界観を信じている自分がいた。

今私は、生活に余裕が出てきたら、もう一度神秘体験により、真理を探ってみたいという思いが 募ってきています。今度は自分の体験だけを拠り所に、その体験すらも疑いながら、慎重に修行し てみたい。あと、修行を楽しんでやろうと思う。(でも今はそんな余裕はないのだが・・・。)

麻原は確かにある程度の修行のレベルに到達したのだろう。しかし、自らを最終解脱と称したの は間違いだった。そこから彼の堕落が始まった。自分の力以上のことをやろうとした。自らを救世 主であると過信し、次第にエゴが肥大化していった。

あと、彼は五島勉らのトンデモ系作家に躍らされたピエロだった。

●aoyamaさん

いまやっと「オウムと私」を読み終わったところです。一気に300ページを読んだ後は少しづつしか読むことができま せんでしたが、やっと読み終えました。494ページはやはり重い。読んでいていくつかの林郁夫氏の生き方のキーワ ードがあるようです。責任感、公正さ(フェアー)、真摯さ、生き方の美学、信頼この他にもいくつかのキーワードがある でしょうが、このような言葉で彼の人格は象徴されると思えます。

いま読み終わってつくづく感じるのは林氏は『結局のところ麻原「オウム真理教」の息の根を止めた』と言えるのでは ないかということ。それも自分の命をかけて(現在オウムの復活が言われていますので、これについては違和感をもた れる人もおられるでしょうが、諸悪の根源はグル麻原彰晃であったと認識しています)。もちろん、だからと言って林氏 の行った地下鉄サリンによる殺人の罪が帳消しになる訳ではありませんが、少なくとも被害が現在あった以上に広が ることを避けられたと感じています。

現在、判決が確定して彼は無期懲役の囚人です。多分、彼は死刑をも覚悟していたでしょう。「私は生きてちゃいけな い」との彼の思いは額面通り受け取りたいと思います。私は彼の罪は罪としてやはりいくつかの側面を指摘しておきた いと思います。それは彼のような経験もあり、社会人としても意義ある生活を送ってきており、知性も申し分のない人で もやはりマインド・コントロールの手法にひっかっていることです。

スティーブン・ハッサン著(浅見定雄訳)「マインド・コントロールの恐怖」(恒友出版)によればマインド・コントロールの 構成要素として「行動コントロール」、「思想コントロール」、「感情コントロール」、「情報コントロール」がありますが、オウ ムの中では意識的な情報コントロールをはじめとして行動コントロールや思想、感情コントロールがあります。すべて解 脱のためとかグル麻原さんを信じるためとかいった理由ではありますが、林氏が広義のマインドコントロールにはまって しまったことは間違いがないようです(これには雑誌とか書籍によるオウムのPR等も含めて考えています)。

麻原さんを解脱へと導いてくれるグルと思ってしまったことは麻原さん個人の性ではないかもしれませんが、そう思い 込ませ続けるためにはやはり策略を弄したこと、また林氏のグルへの帰依の心を弄んだことは確かです。

グルへの批判を直言する幹部がいなかったために麻原さんが暴走してしまったとのことですが、批判的な幹部を「ポ アするぞ」といって立ち去らざるを得ないようにしむけたのはまさしく麻原さんその人なのです。また、批判的な幹部を 自分から遠ざけたこともあったらしい。

出家するころに私の子供は「麻原さんは悪くないが、側近にあまりよくない人がいるかもしれない」と言っていました。 しかし、本当のところはその逆で側近は比較的真面目でよかったのにグルその人が最悪だった(オウムの教義はどう せいろいろな宗教からとってきたのだから、以前あった宗教の教義が悪くない限りそれほど悪いはずがありません。む しろその解釈の仕方が問題ではないでしょうか)。

ピラミッドの頂点に立ったグル麻原さんは好き勝手なことをしたことが分かってしまった。キリスト教の神と人間が直接 つながっているように、すべての信者は麻原さんと直接につながっており、すべて麻原氏の許可がなければどんな重要 なことも、医療における手術のような治療行為すらも行えなかったというのは上に挙げたマインド・コントロールの中の「 行動コントロール」と言ってよいでしょう。

麻原さんではなく、松本智津夫としてみたときにはその生い立ち等から同情すべき余地はいくらか残っているでしょう。 しかし彼が松本智津夫という名を捨てたというのでは麻原さんには同情すべき余地は少しも残されていないと考えます。 もし麻原さんが選挙で国会議員になっていたら、ひょっとして少し違った人生を歩めたかもしれないと思います。しかし、 残念ながら、人生はもう一度ある時点に立ち返ってやり直すことはできません。

いずれにしても私たちにはこのオウム教団の在り方から将来同じような破壊的カルトの悲劇をくり返さないように願うし かできることはなさそうです。

  現在でも少数ながらオウムに入る人々がいるようです。私たちの社会になにか欠けているものがあって、それを求めて 間違った教えのカルト集団に入るのだとしたら、それは何なのか、厳しく私たちの生き方や社会を再考しなければなりません。


■ロバート・ジェイ・リフトン著『救済と終末の幻想』岩波書店

●ノーマン・メイラー

21世紀は比較的平安な世界である代わりに、われわれの社会を破滅させるかもしれないカルトのテロリズムを予見する読者によって、 魅惑的で鋭い洞察がなされている、ロバート・ジェイ・リフトンのこのオウム研究の書は、将来繰り返し読まれ、研究されるだろう。 この書によって明らかにされた、オウムの秘密の野望の解明--世界救済のための世界破壊という究極のパラドックス--は、たとえようもなく ショッキングであり、かつ、知的に大いに刺激を受けるものだ。

このことが、世界の問題の解決として、一挙に世界を消滅させようとする思想が、世界中のカルトにおいて、今現在、醸成されているのだという 根拠になっているのだ。

●評論家 芹沢 俊介氏

この本は日本を外から見る目(アメリカ人精神医学者)がおこなったオウム真理教地下鉄サリ ン事件についての考察である。通読してたくさん教えられるところがあった。 その一つはオウムを徹底してカルトと位置づけていることである。カルトは著者によると、一 体主義的で思想改造的な実践(修行)、グルの人格崇拝、グルによる弟子たちの精神的探求の欲 求の搾取といった条件をそなえた宗教集団を指す言葉である。

私たちはカルトという視点になじみが薄い。その意味でこの本で注目したのは、カルトの先進 国アメリカが生んだマンソン・ファミリー、人民寺院、ヘヴンズ・ゲイトといった集団とオウ ムを比較した個所であった。とりわけオウムと正反対のようにみえるヘヴンズ・ゲイトの、穏 やかな一体主義とその現れのような穏やかな集団自殺にすいての記述は刺激的であった。

オウムもヘヴンズ・ゲイトも近づく終末が救済のはじまりであるという論理をもっているとい う点で共通していた。ハルマゲドンを待望したオウムと宇宙船による地球脱出を待望したヘヴ ンズ・ゲイトとは、終末と救済をめぐるイメージとして背中合わせであった。そのどちらもが 起こらなかったとき、一方はみずからハルマゲドンを演出する集団殺害へと向かい、他方は集 団自殺というかたちで「最後の出口」をみずからくぐり抜けようとしたのだった。そしてその ような方向に弟子たちをリードしたのが、グルたちの狂気つまり妄想であった、というわけだ。

だれもこのような労作をものしていないということを認めたうえで幾つか留保したい点があっ た。そのうち二点だけ記しておこう。一つはオウム真理教は日本仏教の系譜の中に位置付ける ことができるのであり、カルトという視点だけで、はたしてオウム地下鉄サリン事件をとらえ きれるかという疑念。もう一つは最初にオウムの犯罪があり、その事実に集約するかたちで、 論旨が整除されているように思われる点である。 

【日本経済新聞  2000年8月13日(日)読書欄より転載】


■早坂武禮著『オウムはなぜ暴走したか。』ぶんか社

●ゆきさん

おくればせながら(1998年12月31日) 「オウムはなぜ暴走したか。内側からみた光と闇の2200日」 (著者:早坂武禮さん)を読み終わりました。 これもまたオウムの姿なのだなぁという感慨深かったです。 理想の実現の場、自己実現の場、精神の成長の場、癒しの場・・・。 そして、麻原さんの人間的な魅力。宗教なんか信じないわたしにと ってもかなり魅力ある場にみえました。

しかし、裁判で語られる闇の部分もまたオウムの姿。本に書かれた ような面だけみてきたひとにとっては、闇の部分は信じ難いか、オ ウムのやったことだとしても、何らかの意味があることだと考えて しまうのがわかるような気がしました。

事件さえなければ、オウムは大きな役割を果たせたのでは、と思い ます。しかし、現実には決して許されないことをしたわけであり、 そのことで多くの方が、お弟子さんも含めて苦しんでいるわけであ り。傍聴記や手記などでもその苦しみは伝わってきますが、現実に 目の前で絞り出すように語るお弟子さんをみるとどれだけ深く苦し んでいるかが伝わってきます。

この本をみても、裁判の証言などきいても、確かにオウムの修行は 魅力的なものであったようだし、神秘体験はそれ自体が目的ではな いといってもかなり惹きつけられるものがあったようですね。ヨー ガの技法、または、末期には薬物で脳内に変化を起こさせたもので あろうとは思いますが、事件のことさえなければ、体験してみたい と興味ひかれるものではあります。

自分を見つめる作業により、確かに、精神的な成長をすることがで きたひとたちはいたのだな、というのも感じます。オウムは決して マイナス面だけではなかったということ。

でも、どんな理由があっても、やはりひとを傷つけたり、非合法な ことをするのは受け入れ難いです。

この著者も、闇の部分にはかかわっていないため、自分のみた光の 部分と、事件による闇の部分がどうしても整理しきれないのだろう と思います。闇をみてしまっても、麻原さんや修行に魅力からか、 事件が悪いことだったとは思えないお弟子さんもいるくらいですか ら。新実さんなんかそのようですし。

この本は批判もありましたが、このようなオウムの魅力的な部分も 知らないとなかなかオウム事件は理解してはいけないというのを強 く感じました。


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