千と千尋の神隠し
宮崎駿ラスト作品

『千と千尋の神隠し』プレスサイト-完成報告記者会見


 前作『もののけ姫』が発信する情報がわかりにくかったので今回は油断していたら、溢れるようなイメージの大洪水でした。あれあれあれっと溺れつつ面白がっていたのです。しかしよけいなことを考えずもう少し素直に楽しむべきであったと反省しています。

 この映画は10才の千尋の冒険成長ストーリーなのであってそれ以外のものではありません。

 善と悪は混在していてその中で10才の女の子は凄まじい状況の中で色々な冒険をして成長して、元の世界に生還する。と、いうことなのです。

 確かに私もせんさく好きなのであの異世界は何なのだ。トンネル直後の部屋は何で、異世界入口はモルタルなのはどういう意味なのだ。あの登場人物で正体不明のままの多くは一体何なのだと気にはなります。特にリンは当然人間ではないのだが何者。
 それとあの世界での湯屋油屋は、傷ついた神々の癒しの場であり、そうなれば人間は単純に善とは言えません。自転車とヘドロと釣り糸・釣り針に混ざり込んでいた腐れ神の話など典型ですが。これは魔女湯婆婆も単純に悪とは言えない。まあ人間が入ってはいけない世界の話なのでしょう。そこに入ったから色々の問題が起きる。
 そういう意味ではこれは前作『もののけ姫』とも続いていて、あれは室町時代に人間が立ち入れない自然と神が敗北して人間と共存する自然となった。ところが現代は人間が膨張して自然と神々が激しく傷つき、最後に人が立ち入れない癒しの場のみが残った。

 しかし現代文明はその人をも食らいつくそうとしている。千尋はその中で厳しい異世界での逆境の中で生きる力を獲得したということなのでしょう。
 しかし大人がダメなのは、いきなり変な場所に来たのに了承も得ずに後で言われたら金を払えばいいと勝手に食べ物を取って食べるというデタラメさにあります。こんなおかしなことはなく罰でいったん破滅します。周りがおかしいのと状況を判断して食べない子供の千尋が独力で道を切り開く。でもこれは私たちも同種同格のことを普通によくやりそうなことです。生きる力が萎えているのでしょう。

 宮崎駿は前作の『もののけ姫』後に引退宣言して若手の支援で今回の作品に取りかかりました。あのように日本史上一位になれば期待が大きくとてもそのまま引退とは行かなかったのでしょう。
 しかし宮崎駿は最大の矛盾に苦しみ抜いています。これはあちこちで語っていることなのですが、生きる喜びと活力を子どもたちに与えるために始めたはずのアニメが、バーチャル世界の過剰のために生きる力を子供から逆に奪っている。中でもアニメの第一人者である宮崎駿の与える負の力が大きい、ということです。

 多くの自然を直に大人たちの世代は感じ触り見てきました。それはバーチャルな映像をいくら見ても絶対に代替にならないものです。ところが子どもたちは全てが映像世界の中に閉じこもりそれは宮崎駿のアニメで見たと本当によくいうのです。そういうバーチャルと現実の逆転現象があるのです。そのなかでの本作品の登場です。

 それでもう一つ書いておかねばならないのは、宮崎アニメに関してよく掲示板やサイトで書いてあるようなアニメおたく的な見方は全て無効だということです。そんなものを目指しているのではない。どうやって人間の生命力を伸ばすのか、その一助になればということです。

(宮崎駿監督インタビューから)
子供時代を充実して過ごせる位の空間が周りにあったら、子供たちはもっと深くなれると思うんです。
あるアメリカの青年と話をした時に、彼は最新式のコンピューターグラフィックスをやっている青年でしたけれども、「僕の母親はテレビに箱をかける人で、見ようとするとパッとテレビに蓋をする。見られなかった。たまに見れる時にドキドキして見た。映像に対して自分がドキドキしたから、そのおかげで、今、こういう仕事をしている。映像の力を自分は信じている。」といってたんですよね。これは、正しいと思うんです。
こんなに周り中、テレビゲーム、漫画、アニメがひしめていて、こっち見ろこっち見ろって。多分次の映像の世界に入っていって、「あ、それテレビで見た」「あ、それ映画で見た」ってそういう、或いはケンカも何もかもテレビゲームでやってみたとかね。やった気になっているという、そういう文明のあり方をどっかで決死決済付けようかなと。予言をしてもしょうがないですから。それでいてこういう映画をやっているわけですから、ジレンマを抱えながらやっています。

実際、自分の体験がそうだったんで、不安に満ちていた自信のないこの自分が自由になれたというのは、ある時は手塚さんの漫画であったり、ある時は誰かの書いた本を読んでであったりしたわけです。
「現実を直視しろ、直視しろ」って周りは言うんですけども、現実を直視したら自信を無くして溺れてしまう人間がいる。取りあえず自分が主人公になれる空間を持つというのが、漫画やアニメーションでなくとも神話であったりして、人間たちはもってきたんだと思うんですよね。
さっきの質問と矛盾しているようですけども、僕はファンタジーは必要だと思いますよ。ただ、魔法の力が信じられないとか言う人たちはいます。例えばこの映画に出てくるような世界はありっこないじゃないかと言う人がいると思います。むしろぬけぬけと嘘をつく力というのは強靱さが必要なんで、自分自身の心の中にある純粋さを失うと、僕は精神の衰弱と呼んでいますけど、そうすると自分の物語を作った時に説明を付けはじめるんですよね。それはSFの人たちが「これ四次元波動でなんたらかんたらで、エネルギーがどうのこうの」って。あんなのはただの魔法でしょ。ようするに魔法の一言ですんじゃうわけですよね。
「天空の城ラピュタ」で灯鉱石の正体が分からなかったと言った人がいたんですけども・・・あれは魔法ですよ。(会場笑い)
それを受け入れなかったという事はそれは精神の衰弱だと思ってるんで。
僕は「ファンタジーはいるんだ」、ただファンタジーがアニメーションであるとか漫画でなければいけないとは思っていません。もっといい形で子供たちにファンタジーを伝えられたらそのほうがいいなと思っています。

 今回はイメージの素晴らしさに感動しましたが、油屋の多くの伝統的なイメージがちりばめられた画像に注目したい。まあ溢れるようなパワーはさすがにありません。年齢による体力の不足もあるのでしょうか。
 でも優れた作品です。宮崎駿のラスト作品として受け取っておきたいと思います。


■春日さま

 顔を書いた布を付けた神様が登場しますが、あれは春日大社に保存されている舞楽「胡徳楽」に登場する雑面(ぞうめん)をモデルにしたものです。白い麻布に墨で顔の形を描いただけの独特のものです。これは宮崎駿監督が見て驚いたそうです。


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