『サンセット大通り』とグロリア・スワンソン

サンセット大通り
 ビリー・ワイルダーの監督したこの傑作『サンセット大通り』でしか私たちはグロリア・スワンソンを知りません。

 グロリア・スワンソンの演じたノーマ・デズモンドは、かつてのサイレント映画の大スターで50歳代の今もカムバックを願い、外見や庭は荒れ果てたかつての豪邸の中で、華麗にスクリーンで花開いていた当時のスチール写真に囲まれ、主寝室が8部屋に、上映設備何とボーリング場までがある暮らし。そこで最初の夫で彼女を見いだしスターにした監督が、彼女に捨てられからも離れられず今は執事となっています。そして彼にニセのファンレターを用意され虚世界を支える形で仕えられ、過去の栄光と昔の夢の復活だけを追っているのです。

 私たちはグロリア・スワンソンが現実にかつてのサイレント時代の巨星というべき大スターであることをどこかで知ります。ここで虚像と実像が巧みに混ぜ合わされます。そして若いツバメ=ヒモにしたウィリアム・ホールデン扮する売れない若手脚本家が現実を見せ夢を壊し彼女から去ろうとすると銃で撃ち殺してしまい、気が狂い過去に生きる怪物と化してしまうノーマ。

 見ている私たちはノーマ・デズモンドこそが、グロリア・スワンソンだと信じてしまいます。殺した後取材に集まったマスコミのカメラを映画撮影と信じ込んだノーマは、しずしずと女王のように階段を下りていきます。その思わず息をのむような鬼気迫る演技。

グロリア・スワンソンの人生
 かつてハリウッドはスターを作りだしスターの名前で客を呼ぶためのスターシステムを取っていて、無声映画時代にはその中でもグロリア・スワンソンはスターの中のスターだったのです。今の身近な仲間のようなスターというモノではなく天上界に輝く星のような存在でした。スワンソンは中でも世界で最も人気のある女性名士でした。

 グロリア・スワンソンは1899年3月27日に陸軍軍人の父ジョゼフ・スワンソンと母アディーの子としてシカゴで生まれました。8歳で父の大尉昇進と転勤でフロリダ半島の先端の島キー・ウェスト基地に引っ越し。11歳でプエルトリコのサン・ファン基地へ。小さい頃から一刻も早く大人になりたかったそうです。

 彼女は高校1年を終えたときに17歳で映画に初出演。ニューヨークの叔母の家に行ったときに叔母の知り合いのスプアー氏のエッセネイ映画社の見学で美貌が目に留まり、エキストラとしてスカウトされます。アルバイトのつもりでしたが、1時間のギャラが3ドル25セントど高額なので感激。やがて固定給保証のエキストラ要員、つまりその他大勢として1から4日労働で週給13ドル25セントで契約します。高校は自然中退となりました。

 両親が離婚してカリフォルニアに引っ越しますが、今度はキーストン社と出演契約を交わしスラップスティック映画で水着美人の一員となります。この時週給100ドル。そして母親が再婚します。この時収入の面からも家庭環境からも、望んでいたように大人として自立する精神を持つようになりました。しかし父と離れたことで男性の関係で大きな問題を抱えるようになります。つまり父親の影ばかりを追い、夫としていいのか人柄をよくわからずに結婚するのです。この時も17歳に後2週間という時に売れない30歳の俳優ウォーレス・ビアリーにプロポーズされて17歳誕生日にすぐ結婚。しかし2ヶ月後妊娠したときに何という男か、堕胎薬を飲まされ流産。そこでこの結婚は終わります。

 スラップスティック映画を嫌って辞め、自ら電話してトライアングル社に入社して、『社交界』などに出演。そのとき恩師となるセシル・B・デミル監督がセネット社の短編映画でスワンソンを見いだし、パラマウント社の前身であるフェイマス・プレイヤーズ・スタジオと契約。デミルは1919年『夫を変へる勿れ』、『連理の枝』、『男性と女性』などの名作で彼女を起用して、俳優としての訓練と教育をします。ここから彼女の大いなる前進が始まるのです。

 グロリアが18歳から25歳までに主演した23本の映画は22本が大ヒット。ちゃんと中身はあるのですが、次から次へと豪華な衣装をまとう映画でそれが売り物だったのです。
 彼女が25歳で主導してフランスで実際の各宮殿で撮影許可を取り付け作った映画『ありし日のナポレオン』の撮影で、通訳兼コーディネート役だったフランス貴族アンリ・ド・ラ・ファレーズ侯爵と知り合い4回目の結婚。そしてアメリカへの凱旋の時は、アメリカ一国をあげての騒ぎとなりました。ニューヨークでのプレミア上映からハリウッドへ向かう特別列車が仕立てられ沿線には大群衆が押し寄せ、主要な駅では停車してインタビューと挨拶。このため休校にして小学生たちが彼女を見に整列したのです。

 あの「ハリウッドの帝王」とよばれたクラーク・ゲーブルですら週給6千ドルだったのに、スワンソンはこの時7千ドル。ということは毎日千ドルを稼いでいたのです。しかも26年所属していたパラマウント社に再契約に週2万5千ドル、つまりは年100万ドル以上を提示されましたが、彼女は蹴って独立プロダクション「グロリア・スワンソン・ピクチャーズ」を設立して女優兼独立製作者となってしまいました。そしてメジャーに対抗してチャップリンやグリフィスなどの俳優監督が設立した、共同会社ユナイテッドアーティスト社に参加し契約します。

 グロリア・スワンソンは、彼女の出演していたような上質の映画ではきちんと元々セリフをしゃべっていて、子供の頃オペラ歌手を目指したように声もよく歌もうまかったようで、初のトーキー作品 1929年『トレスパッサー』で歌声も含め大きな評判を取ります。だからトーキー化のために凋落したわけではありません。問題はちょうどこの頃30歳を越え、女優としての人気に陰りが生じ、以後大ヒットはなくなるのです。

 1933年 『完全な諒解』は個人資産をつぎ込んだのに失敗。
 そして再起に力を入れていた1934年の『空飛ぶ音楽』が大失敗に終わり、大きな打撃を受けます。何しろ6歳のシャーリー・テンプル主演のミュージカル『歓呼の嵐』にボロ負けするのです。ここで時代にも合わなくなったという感じが出てきます。

 1941年の『The Father Takes a Wife』では彼女のギャラはかつての8分の1程度の3万5千ドル。しかし7年も何の出演依頼もなく、受け入れて出演したが豪華なファッションをまとうような旧来の映画で、12月7日真珠湾攻撃で戦時体制に入っていたアメリカでは大衆の気も引かず、もはや時代錯誤というしかなく、しかも駄作でした。ここでいったん映画女優としては終わってしまいます。

グロリア・スワンソン出演作品
1916年 恋の火花
1916年 借り児
1917年 雨中の逃亡
1917年 ボビーの危難
1917年 汽車中の花嫁
1918年 社交界
1919年 夫を変へる勿れ
1919年 連理の枝
1919年 男性と女性
1920年 何故妻を換へる
1920年 人間苦
1921年 瞬間の瞬間
1921年 アナトール
1921年 銃口に立つ女
1921年 言はぬが花
1922年 巨厳の彼方へ
1922年 白絹の女
1922年 大陸に鳴る女
1922年 獣牙を逃れし女
1922年 黄金の籠
1923年 放埒娘
1923年 幸福の扉
1923年 舞姫ザザ
1924年 蜂雀
1924年 焔の女
1924年 嬲られ者
1924年 彼女の恋の物語
1924年 兵営に咲く花
1925年 ありし日のナポレオン
1925年 当り狂言
1925年 女心
1926年 女王蜂
1926年 野薔薇
1927年 五つの魂を持つ女
1928年 港の女
1929年 トレスパッサー
1930年 陽気な後家さん
1931年 恋愛即興詩
1931年 今宵ひととき
1933年 完全な諒解
1934年 空飛ぶ音楽
1941年 The Father Takes a Wife(未公開)
1950年 サンセット大通り
1951年 Three for Bedroom C(未公開)
1956年 わが息子暴君ネロ
1960年 喜劇の王様たち
1974年 エアポート’75

サンセット大通りの周辺
 48年には週1回のテレビ番組「グロリア・スワンソン・アワー」を半年出演。3年継続の契約を断ってちょうど1時間半後『サンセット大通り』のスクリーン・テストに応じてほしいという電話依頼がありました。

 この時、往年のスクリーンの女王が若い男性ライターを手なづけ映画界復帰をはかるという柱のみで脚本はまだできておらず、スワンソンに決まってから作られたのです。だから他の女優に頼んで断られスワンソンに決まったのだから、ノーマがスワンソンに似ているのは偶然だというのは誤りです。当然スワンソンに合わせた内容なのです。もちろん彼女も同意していたのです。セシル・B・デミル出演と事実と虚構をない交ぜにするという方針も説明されています。出演料は5万ドルでした。

 特にポーカーのシーンでは、バスターキートン始めかつての仲間の大物たちが集合。何か背筋の寒くなる思いと、自分たちが何者なのか思い起こしています。ホールデンのセリフにバスター・キートンは「蝋人形とは言いえて妙だね」とみんなで高笑いしています。でも自分で自分を悪い部分も見て笑い飛ばせるのはすごいと思います。

 『サンセット大通り』の後のある日、若い新聞記者がインタビューであまりに緊張しきっているので「私はノーマ・デズモンドじゃないのよ。取って食べはしないわ。」と言いました。アメリカでも大衆的にノーマとグロリアは混同されたのです。3回目のアカデミー賞主演女優賞にノミネートされ、溢れるほどの出演以来が来ましたが、すべてエキセントリックな過去の大女優の役柄ばかり。みんな断ってしまいました。

 でも自伝を読むととてもこの映画出演と混同を楽しんでいる様子があります。よく『サンセット大通り』に出たのは勇気があるとか言われますが彼女の意識はそんな感じでは無さそうです。サディ・トムソン

 彼女は17歳で映画界に入って以来努力を重ねています。
 そしてかつて倫理規定がはるかに厳密でうるさく1921年のある俳優の起こした事件以来風俗美化大キャンペーンのされている中で第一の禁書と言われたサマセット・モームの小説『雨』をあらゆる障害と批判を乗り越えて1928年『港の女』(原題「サディ・トムソン」)として映画化。そしてついに2回目のアカデミー主演女優賞にノミネートされます。何しろカトリックの牧師が娼婦サディ・トムソンを更正させようとして、逆に牧師が迷い堕落し自殺するというキリスト教国では今でも問題にされそうな話なのです。グロリアは絶えざる挑戦者だといえます。

 さらに50年は、『サンセット大通り』の上映開始の前に映画業界の親善使節(オスカー女優イングリッド・バーグマンの婚外子スキャンダルとアカ狩りに対応するため)で全国巡回。
 また56年から数年間、ヨーロッパ滞在時にUP通信の移動通信員として取材活動とコラム執筆。

 テレビは、53年にシリーズ『クラウン・シアター』と言う番組でホストと4本主演。以来テレビの仕事が途切れません。ショーやトーク番組やドラマや長編シリーズへのゲスト出演をしてきました。
 1974年 テレビ映画『殺人蜜蜂キラー・ビーズ』に出演。1974年には最後の映画『エアポート’75』に「サンセット大通り」に続き往年の大女優に扮します。それは名優グロリア・スワンソン自身を演じたのです。

  また41年から舞台俳優にもなり、多くの舞台に立ち、1969年には70歳で舞台劇『バタフライはフリー』に出演。シカゴの初日の後アメリカ20都市で公演。71年9月にはついにこれで劇の最高峰、ブロードウェイに進出しました。

 実はずっと舞台は断っていたのに41年にライター兼プロデューサーのハロルド・ケネディが、こう言って挑発したのです。
「(新作でなく)既に批評の嵐を乗り切った作品から始める。そして最初はブロードウェイよりも(別の場所で)。…結局あなたは舞台には向かないって事になるかもしれませんが映画をこなせる人なら誰でも芝居をこなせるとは限りませんからね。」

 映画と違い舞台劇は台本全部の大量のセリフを覚えねばならず、スワンソンは不安でいっぱいでした。開演直前の週のリハーサルになっても台本にしがみつき、ついに舞台装置の暖炉をハロルドが入ってセリフを教えられるように大きなものにしてもらいました。そしていよいよ初日の夜になっても頭の中にただの一つのセリフも浮かんでこない。楽屋でパニックになり誰も近寄ることもできない状態でした。
 もしハロルドが暖炉から消えたら私も舞台から消えると宣言しました。それから出の合図で舞台へ出ていきましたが、心臓が狂ったように激しく鼓動しました。劇場すべての人のため神に祈り口を開くと、何とすらすらとセリフが出てきたのです。
 それ以来舞台女優としての活躍が始まったのです。

 さらに事業家としてもファッション業界で50年9月からデザイナーとして20年近く活躍。サンセット大通りでも衣装担当者と共同してちょっぴりエキゾチックで大げさで、そして少し時代遅れのものを考え出しています。
 それとずっと子供の頃シカゴ美術館の土曜クラスで学んで以来続けてきた絵と彫刻は78年に79歳でロンドンで初の個展を開催。
 80年には、「国連・婦人の10年」の記念切手デザインを担当しています。

 こういう継続した活動があるからこそ、自分をない交ぜにするような『サンセット大通り』への出演もできたわけです。昔の夢を追っている役でも凛とした気品があるのです。そして階段を降りていく狂気の場面でもその高い意識がわかります。

 76年に作家のウィリアム・ダフティーと6度目の結婚をして、80年には回想録『swanson on swanson』を執筆しました。『グロリア・スワンソン自伝』 文芸春秋刊 4,800円。二段組みで654ページもある大冊ですが、これは本当におもしろい本です。

 1983年4月4日永眠、ついにその長い活動の日が閉じたわけです。彼女の人生は長く波乱と変化に満ち、実に多くのことを成し遂げました。それを称えたいと思います。


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