イスラム原理主義

aML稲場 雅紀さんの文章に少し手を加えました。


(1)イスラームについて
 イスラームはユダヤ教・キリスト教の系譜に連なる一神教であり、7世紀に預言者ムハンマドによって創設された宗教です。その後数世紀の歴史プロセスの中で、イスラームは当時の様々な宗教や習俗、文化と混淆し、かつ法学、哲学へもその幅を広げ、先に書いたように高度な文明を築き当時の世界において有力な世界解釈体系の一つとなりました。
 イスラームはしかし、15世紀以降の西欧近代文明の発達で、西欧型の近代文明・近代思想に対し軍事的に敗北して従属的な地位へと貶められていきます。19世紀後半からは、西欧帝国主義による世界支配の時代に入っていきますが、イスラームはそこに組み込まれつつ、これまでとは別の意義を獲得していきます。イギリスやフランスの侵略にさらされたエジプトでアフガーニーがイスラーム復興の思想を説き、それがエジプトの民族主義運動に結びつきます。また、ワッハーブ派が、オスマン朝のもとで腐朽したイスラーム教の刷新を行い、最終的にはサウド家と結びついてサウディ・アラビア王国を建国していきます。こうした形で、イスラームは西欧の支配に組み込まれつつ、それに対する対抗のアイデンティティとしての位置を確保していくのです。これがイスラーム原理主義の起源といってよいでしょう。現在もエジプトに強力な組織をもつムスリム同胞団などは、実はこの時代に創設されたものです。

(2)民族主義とイスラーム原理主義の相克
 20世紀に入ると、イスラーム世界における西欧に対する自立・独立運動は、イスラーム原理主義とは相対的に別個の、世俗主義の二つの流れを生み出すことになります。一つは、イスラームを脱し、西欧近代主義をわがものにすることによって、自国を西欧と並ぶ国民国家にし、それをもって西欧からの独立を達成するという流れで、トルコにおけるムスタファ=ケマルの革命に代表されるものです。
 もう一つは民族解放運動です。イスラームとは相対的に独立したアラブ民族主義思想によって、植民地の独立や半植民地状態にあった国の完全自立をめざすもので、社会主義を指向する流れです。アルジェリア民族解放戦線やエジプトのナセル政権、さらにはパレスチナ解放運動が典型的なものとして挙げられますが、イドリース王朝を倒したリビアのカダフィ政権、アラブ復興社会主義をかかげるシリアやイラクの政権なども、異端ながらこの流れに属するものと言えます。この時代、イスラーム原理主義はその力を失い、完全に民族主義にとって代わられていました。

(3)民族主義の破綻と原理主義の浸透
 70〜80年代、とくに80年代以降、イスラーム原理主義の流れが再び強大な力を持って復権してくるのは、一つには、こうした二つの世俗主義の流れが、ほぼ破綻したことによるものです。

 エジプトのサダト政権は、ナセルの流れを引き継いでイスラム同胞団を弾圧しながら、政治的には右旋回して、米国のいうままに、パレスチナ解放運動との連帯を放棄してイスラエルとの和睦に向かいました。シリア・イラクそれぞれの民族社会主義政権は、腐敗した独裁政権へと変貌しました。
 アルジェリアは無謀な重工業建設路線が破綻して事実上経済的に崩壊し、民族主義は思想的頽廃の極に達しました。イスラーム原理主義は、それまで西欧からの独立・自立・解放をめざす中心的思想であった民族主義、社会主義が崩壊し、独立・自立・解放の方向性を支えるイデオロギーたりえなくなったときに、それらの代替物として中東地域の民衆の中に根を下ろしはじめたわけです。

(4)80-90年代以降のイスラーム原理主義の復権
 1979年にイランで革命が起こり、81年にイスラム教シーア派の聖職者による統治体制が誕生して以来、イスラーム原理主義の波は各国を次々とあらっていきました。アフガニスタンでは、ソ連の撤退以降、スンナ派のイスラーム原理主義勢力が支配しましたが、四分五裂し内戦が継続しています。トルコでは、イスラーム原理主義政党が議会の多数を占め、一時は内閣を掌握しました。スーダンでは、政権を確保した軍の指導者が特殊な立場のイスラーム聖職者に導かれることによって、イスラーム原理主義を標榜する政権へと変貌しました。最も悲惨なのはアルジェリアでした。複数政党制の選挙で最大多数を確保したイスラーム救国戦線が、原理主義政権の樹立を恐れるフランスと軍部によるクーデターによって徹底弾圧され分解、虐殺が相次ぐ内戦へと突入します。
 ここで注意しなければならないのは、イスラーム原理主義というのは、長い歴史と大きな広がりをもったものであり、当然ながら、そこには様々な思想的系譜があって、決して単一のものとして評価することは出来ないということです。評論家などのなかには、リビアのカダフィ政権やイラクのフセイン政権とイスラーム原理主義の区別すら付いていない人がいますが、前者は世俗主義、後者は宗教主義であり、この二つは根本的に対立しあうものです。

 また、アルジェリア内戦において、村落の無差別虐殺作戦を繰り返し数万人の命を奪った「武装イスラーム集団」はイスラーム原理主義とされ、イスラーム救国戦線と同一視されることがありますが、現在では、「武装イスラーム集団」はむしろアルジェリアの軍事政権を牛耳る支配的軍人たちとつながり、イスラーム救国戦線側の村を集中的にねらっていたことが、ほぼ明らかにされつつあります。また、アフガニスタンのタリバーン政権は、イスラームと現地のパシュトゥーン人の風俗習慣とを混淆させた独自の宗教観に基づく勢力であり、イランの現体制とは水と油の関係にあります。「イスラーム」=「テロ」といった短絡はもちろん、「イスラーム原理主義」=「テロ」という短絡もすべきではありません。イスラーム原理主義は、各地域においてそれが根ざす社会構造、経済状況、イデオロギー状況によって大きな差異をもっているのであって、こうした差異を把握しないままに「イスラーム原理主義」の「テロ・ネットワーク」などといった詐術的言辞に惑わされてしまうと、紛争予防の最も基本的な処方箋を書くうえでも、大きな誤りを犯すことになります。つまりテロネットワークに組織されるものもいるということなのです。しかしもちろん全てではない。それを理解しないとイスラムとの対話などできっこありません。

(5)タリバーン政権について
 アフガニスタンは1979年12月、ソ連が侵攻し、軍事的に制圧してカルマル政権を打ち立てました。この時期は、ポーランドの民主化闘争への弾圧などもあり、米ソ関係が著しく冷え込んだ時期でした。米国はソ連の侵略と闘うイスラーム戦士たちに対して莫大な武器援助を行い、彼らを育て上げました。しかし85年以降米ソ冷戦が終結し、ソ連がアフガニスタンを撤退するとともに、米国もアフガニスタンから手を引き、残ったのは様々な勢力に四分五裂して覇権を争うイスラーム原理主義集団や軍閥でした。彼らは一応、統一政権を打ち立てますが、長続きせず戦乱がくり返されました。
 そこに登場したのが、パキスタンによって育成されたパシュトゥーン人主体の勢力、タリバーン(神学生)です。パキスタンは米国の友好国であり、当然、タリバーンは米国と強いパイプを持っていました。タリバーンはパキスタン国境からアフガニスタンに浸透するや、旧政権軍を次々と破り、カブールに入城しました。彼らはソ連の傀儡政権で首班の座にあったナジブッラーをとらえて公開処刑し、町のまん中に彼の死体を高々と掲げました。
 その後タリバーンがとった政策は途方もないものでした。全ての女性を解雇して家に閉じこめ、外出の際には顔も含めて全身を覆わなければならない。旧政権軍の側にまわったウズベク人やハザラ人については、ジェノサイドとすら言える大量虐殺作戦を繰り広げました。多くのハザラ人が各地に逃亡し、一部の人は日本に逃げてきて難民申請をしています。(ちなみに、日本に難民申請を行ったハザラ人がすべて受け入れられているわけではなく、アフガニスタンへの退去強制を宣告された人もいます)
 こうしたタリバーンの思想や行動は、イスラームというよりも、タリバーンを構成する主要民族であるパシュトゥーン人の習俗をイスラーム教スンナ派(主流派)の教義に混淆させたものであると言われています。上記の経緯を見ても分かるように、彼らを養い、武器を山のように提供して、特に中央アジア地域に、何十年にもわたって続く戦争の種をまいた上で、ソ連がつぶれるとさっさと戦線離脱し、タリバーンが支配するに任せたのはアメリカです。タリバーンはアメリカ製の武器で闘っているのです。彼らの無責任を感じます。

 ラディン氏も元はソビエトと闘う一員としてアメリカが協力し育て名声を与えたものです。それが結局こういう形でテロ攻撃される。 私たちは今こそ真剣にイスラムと対話しその文明を尊重してイスラム流の民主主義が実現するように協力し平和へ仲介せねばなりません。武器を与える、あるいはイスラエルのように出張所のような形で支援する。そういうことを止めねばならないのです。それ抜きにブッシュらが代表するようにさあ攻撃だと言っていて何が残るというのです。またもや憎悪と武力テロの繰り返しに過ぎなくなります。今や分岐点なのです。


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