ニセモノを見抜き、
ホンモノをめざすジャーナリズムを

本多勝一


 いま六〇歳の還暦をむかえた者の一人として、自分の生きた過去六〇年の現代史をふりかえるとき、この間に事実によって証明されたことのひとつは、何がホンモノであり、何がニセモノだったかであります。

 たとえば政治体制にしても、戦前のドイツ型や日本型が破産したことはもちろんとして、戦後現在までにわかったことは、アメリカ合州国型の「民主主義」とソ連型の「社会主義」が、いずれも「自称民主主義」とか「自称社会主義」にすぎず、一言でいえばニセモノだったということでしょう。

 いうまでもなく、それぞれの内部には多数のホンモノの個人がいたし、現にいます。しかし、合州国型にせよソ連型にせよ、かれらはついに主流になれず、反体制としてひどいときには虐殺あるいは投獄され、良くても犬の遠吠えに終わるか、雌伏あるいは沈黙せざるをえませんでした。

 こうした情況は今なおつづいていますものの、全く変わらないわけではありません。地域によって程度の違いこそあれ、激震から微震にいたるまで、ホンモノの声がより大きくなりつつある事実を認めざるをえないと思います。もちろんそれは混乱の有無とは別次元のことです。

 世界のこうした情況は日本国内にもあてはまるでしょう。しかしながら日本のマスメディアは、自称民主主義国たるアメリカ合州国ほどの多様性さえもなく、三権分立が消滅した自民党長期一党独裁政権下の一極集中構造の中で、第四権力としての本来の批判精神を失って単に体制補完物たる情報産業に堕したため、情況への対応に鈍くなってニセモノを見抜く力を失い、いわんや巨悪の根源を徹底的に追求・批判する本来のジャーナリズムなど望むべくもありません。

 こうした体制補完情報産業のマスメディアに登場する文化人・知識人・文筆業者たちにしても、当然ながらホンモノの出る幕はますます狭められて、反対にニセモノが一層幅をきかすようになりました。

 ただし、ここで明言しておきますが、ホンモノかニセモノかは、いわゆる「右」か「左」かとは全く関係ありません。右にも左にも人間としてのニセモノはいる。三十余年の新聞記者生活のあいだに多くの取材体験によって直接教えられたことのひとつは、人間としてホンモノかどうかは、知識の有無やいわゆるセンスの良し悪しなどとは全く関係がなく、いわんや地位だの有名度だの“学歴”だのとは金輪際無関係だという冷徹な事実でした。

 ホンモノのジャーナリズムをめざす私たちの週刊誌では、こうしたニセモノの政治体制やニセモノの文化人を称揚することはありえないでしょう。ニセモノに充満するこの現代日本にあって、私たちはホンモノのジャーナリズムのために微力をつくしたいと存じます。

              (一九九二年一〇月末・ボルネオにて)


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