奈良新聞と私

[奈良新聞との出会い]

 奈良新聞のことを強く意識したのは、もう20年前のことになるだろうか。そのころ知り合いが何人か同社の記者をしていた。当時は広芝オーナー社長がかなり強く支配していた時期。つまりは個人会社のおおざっぱな経営な訳だ。多くの記者たちは喰っていけなかった。1人ならまだ何とか生きていけても結婚となると不可能。それで20代下旬にさしかかると次々辞めていった。私の知り合いの1人は担当した数回続いた特集記事が認められて某新聞社に引き抜かれていった。当時としては大きい(今も高給取りだろうが)年齢と同じ…万円の給料がもらえて喜んでいた。

 今ももちろんなのだが、あの頃も本当に多くの優秀な記者、人材がきら星のごとくいた。しかしみんな辞めていった。今は業界紙記者になったり、出版の仕事をしている人、個人誌や文芸サークルをしている人。市民運動にも元記者が多い。中にはまだ記者時代に奈良県の行政書士会の総会で若くして講演などしていた記者もいた。彼は当時奈良新聞映画サークルを設立。奈良県文化会館大ホールで映画上映会を3回ほどしていた。でももうすぐ辞めようとしていた。本当にもったいない何を考えているんだと深く思っていた。つまりは先のことなど考えず使い捨てなのだった。「新聞記者などどんな待遇でもあこがれていくらでも応募してくる」これが広芝氏の労働組合との交渉でいつも出るセリフだった。

[奈良新聞争議の完敗]
 ついに我慢できず待遇改善を要求して大きな闘争となった。スローガンは確か「人間らしい結婚できる賃金を!」だったと思う。当時の奈良総評も尽力した。闘いはかなり長い間続き、奈良新聞社の社屋正面でハンストをして48時間以上だったと思う、座り込んだ。しかし結果は完敗だった。広芝社長は「奈良新聞など別につぶれても無くなってもいい。わしは薬屋さえしていればいいんだ。」とにべもなく言い捨て全く改善に応じようとしなかったのだ。この敗北の後多くの人が奈良新聞を見捨てて辞めてしまった。それで人脈が切れてしまいあまり社内のことはわからなくなった。また私たち一般の人も奈良新聞に注目しなくなった。それから長い時間が経った。

[西島氏登場と義援金問題へ]
 5年前奈良新聞社のオーナーが西島 謹二氏に代わったと突然聞いて非常に驚いた。えっなぜなのだ。どうして広芝氏が手放したか、また西島氏とは何者なのか。調べると不動産屋で、奈良国際ホテルの持ち主で、事務機器会社のオーナーでもある。これで新聞社を経営できるのかと思った。ところがこの3年くらいの進展はめざましく、1万部増えた。しかも昨年2月頃には一時期2万部増えた時もあったという。新聞というものは固定的な面が強くなかなか増えないのにこれは大したものなのだ。それで先行きに希望を持った人々が社を辞めなくなった。給料はごくわずかの改善しかなかったのにだ。またこの数年浅野詠子記者や加藤まや記者などすぐれたジャーナリストの活躍が目立ってきた。このまま部数が増えていけば、ついに真の意味での県紙誕生か。

 全国紙の奈良への配属記者は採用されて初めての転勤とかのまだ新人が多い。しかも2、3年で次々と代わる。しかもなおまずいことに全くかけらも引継をしない。お互いライバルだという記者の体質によるものだそうだ。でも新人では取材の地域ネットワークなど作れない。それで特に朝日新聞の奈良版を筆頭として奈良の記事がほとんど載っていない。他の社でも1年に1回たまにぽっとひかるものがある程度。奈良の抱える問題は大きいのに報道があまりにされていないのだ。地域の構造や問題点、取材のポイントがほとんどわからないのだろうか。しかし奈良新聞では部数が少なすぎる。確かにその部数に比べれば官庁企業が取っているせいが部数の数倍の影響力はあるもののやはり限定される。奈良県内でももっとジャーナリズムが発達してほしい。大きな期待を持ったときにこの事件だ。いったい西島氏とは何者なのだ。何を考えているのだ。

 奈良新聞社を放っておいてつぶしてしまうのは簡単だがきちんと報道できる地方紙は必要で再建はしなければならない。それで市民の会に幹事として加わっている。このページを読まれた県民の方々そして全国の新聞記者のみなさん、ぜひ改革への応援と再建にご尽力いただきたい。

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