アジア国際通信

No.208 (1999/8/1)

SCRIBBLE

  • ブッシュJr.の「情け深さ」というスローガン
  • 北朝鮮のジャガイモ栽培革命
  • 北朝鮮の「テポドン」と中国の「東風31号」

天皇制

  • 967年を最後に「天皇」は消滅していた
  • 日露戦争とロスチャイルド資金
  • 10世紀央までで「天皇」は消滅していた

天皇制 2

  • 幕府、朝廷からも軽視された傍流の継承者
  • 明治維新は「天皇の意向不在」の王政復古

SCRIBBLE (NO.208,1999/8/1)

 ◆ブッシュJr.の「情け深さ」というスローガン

 ●北朝鮮のジャガイモ栽培革命

 昨今、北朝鮮で、アメリカ大陸原産のジャガイモを介した「食糧生産革命」が報じ られている。16世紀、ヨーロッパ大陸全域で同じようなことが起きた。  それは、大航海時代の幕が開け(1492年)、「グレート・イックスチェンジ」ある は、「コロンビアン・イックスチェンジ」といわれるものによってもたらされたこと はすでに周知のことであろう。

 しかし、それが単調で味気ないヨーロッパの食文化に、劇的な生活革命を引き起こ したということについては、あまり注意が向けられてこなかった。それ以前のヨー ロッパ人(王侯貴族ではない)が一体何を着、何を食べていたのかということは、ほ とんどの人が明確なイメージが沸いてこないはずだ。ギリシャ・ローマの時代から、 ヨーロッパが先進の文明をリードしてきたかのような「西欧中心主義歴史観」が支配 しているからである。

 大航海時代以前から、陸と海のシルク・ロードを通じて、ヨーロッパにもたらされ た衣と食にまつわる、有り余る種類の豊なアジアの物産は、高価な贅沢品であった。  逆に、アジアが必要とするヨーロッパからの物産はほぼ皆無で、アジア側に社会・ 生活革命をもたらすような『ウエスタン・インパクト』はゼロに等しかった。つま り、ヨーロッパ人は代わりに売るべきものを持たないまま、アジアの物産が欲しくて しかたがなく、右往左往していたのである。

 当然の結果だが、16世紀から17世紀のおよそ2世紀にわたって、売るべきものを持 たないヨーロッパの対アジア貿易は、一方的で膨大な赤字が累積していった。この赤 字からの脱却の方策の一つが、武力で掠奪・収奪を行う『植民地主義』であり、もう 一つがアジア物産の代替物を自前で生産するための『産業革命』であった。それにい ち早く成功したのがイギリスであった。

 アメリカを筆頭とする先進諸国は、植民地主義を遂行した国々の末裔たちである。 今日現在、「先進」の命綱である石油(および、その他の戦略物資)の確保と、それ を埋蔵する地域へのアクセス確保のために、「人道」だとか「人権」などといった “言い掛かり”をつけて、武力行使を行っている。これは、植民地主義を正当化した 手法の繰り返し以外の何ものでもない。

 パレスティナ問題を筆頭に、やらなくても済んだ湾岸戦争などは、先進諸国の「石 油確保」という思惑が産み落としたものであった。また、その後のイラクへの経済制 裁(「弱者」を標的にした実弾無き戦争)と、さらにイラクへ大量の爆弾を投下する 空爆を、いまも連日のようにつづけて恥じるところがない。近くは、ユーゴへの人道 にもとる空爆も、カスピ海沿岸の膨大な埋蔵量を誇る油田への、アクセス確保を最大 の狙いとしたもので、これも回避(それは十分に可能であったが)しようともしな かった。

 先進諸国はその国内において、「民主主義」という建前を崩さない。それは、国民 国家の最も洗練された支配の装置だからだ。おかげで、自国民の目をボーダーの内側 に釘付けにでき、国民の目はほとんど届かない。また、目以上に国民から自発的に届 かそうという意識が沸いてくることはない。だからこそボーダーの外側で、「蛮族」 のように物産確保に専念することができる。

 唯一の超大国・アメリカの果てない欲望は、歯止めが利かなくなりつつある。その 粗暴で頽廃した振る舞いは、アメリカ国内の人心に反映し荒廃させる。だからいま、 テキサス州知事のブッシュ・Jr.は、大統領選指名獲得の最も重要なスローガンとし て、「コンパッション」(情け深さ)を掲げる。

 アメリカ社会に備わっていないもの、最も著しく欠如しているものが、この「情け 深さ」だからだ(むろん、アメリカナイズ著しい日本人も、我が身を振り返る必要が 多分にある)。その社会に最も欠如していて、美しい社会をイメージでき、説得力が ありそうに錯覚できる“ないものねだり”を、いち早くスローガン化することが権力 奪取の近道である。

 「情け深さ」など「民主主義」以前の問題なのだが、いずれにせよ権力奪取の具体 的日程作りを始めた男が、突如として「情け」に目覚めることなどいとも簡単なこと である。欧米化されていない国々に対して強権をふるう場合、“ないものねだり”の 無理を承知で「民主化」を突きつける姿を思い浮かべるのも参考になるだろう。

●北朝鮮の「テポドン」と中国の「東風31号」

 日本では、北朝鮮の「テポドン」発射準備が大問題になっているが、中国が無通告 で8月2日に実施した、推定5000マイル(8000キロ)の射程距離の地対地弾道弾ミサ イル「東風31号」の実験は、サラリと通り過ぎてしまった。中国のミサイルは、「テ ポドン」など問題にならない代物で、両方「悪い」というのならともかく、北朝鮮だ けが悪いといった具合なのは、「情報操作」以外のなにものでもない。

 司馬遼太郎が、日露戦争でロイターやタイムズなどの国際ジャーナリズムが「日本 を勝たせていった」というほどに、ロシアは国際的反感の包囲網の中で敗れていっ た。いま北朝鮮がミサイル発射実験を行うことは、明らかに同情が集まるはずはな く、反感が増幅し、その包囲網が狭まるだけである。これは論理の問題ではなく、感 情の世界であり、どんな理屈も通用しない。

 中国のミサイル実験で奇妙なのは、アメリカ政府およびマスコミの反応も、極めて 「情け深い」ものになっていることだ。ルービン国務省広報官の声明にそれがよく現 れている。
「中国が長距離ミサイルを所持していることはこれまでに知られていることであり、 今回の実験も、大規模な努力と外交手段を投じて抑制しなければならない、というほ どの劇的なものではない。実験は予測されていたことであるし、中国がこの実験に 使った技術を他国に売却するという証拠はない」

 マスコミも落ち着いたもので、ニューヨーク・タイムズ(3日付)などは、 「中国は米国本土に到達可能な大陸間弾道弾ミサイルは20機しかなく、それが起動す るまでには長期間かかり、実際に発射される前に米国側が感知して迎撃することが可 能だ」という軍事専門家の意見を紹介して済ませている。

 ワシントン・ポスト(3日付)も、中国と台湾の軍事緊張が高まっているという記 事の中で、中国の今回のミサイル実験に言及し、「台湾や米国のみならず、極東アジ アや日本に駐留する米軍にも脅威が及ぶはずだ」としたくらいで、翌日からはなにも 触れないといった案配だ。

 日露戦争後、アメリカは「日米戦争」のシナリオ、「オレンジ・プラン」を作成し た。現実はこのシナリオ通りに進行し、日本は取り返しのつかない敗北を喫した。ア メリカはいま「米中戦争」のシナリオ、「2020年の戦争」を持っている。その戦争は すでに始まっている。その当面の東の最前線が朝鮮半島である。アメリカにとって 「テポドン」など、さしたる問題ではない。だが、日本と韓国を「2020年の戦争」の シフトに組み込むには、これのおかげでコストをかけずに済む。■


天皇制 (NO.208,1999/8/1)

 ◆967年を最後に「天皇」は消滅していた

 ●日露戦争とロスチャイルド資金

 イギリス・ロスチャイルド(ネイザン・メイアー一族)ご当家の、シャルロット・ ド・ロスチャイルドという美しい歌姫のCD(デビューアルバム)が、数年前に東芝 EMIからリリースされた。
 筆者は、シャルロットと幼い頃から親しくしているある日本人女性から、このアル バムをプレゼントされた。

 CDの紹介とそのリーフレットの内容を紹介する記事を書いたのだが、CDをプレゼン トしてくれた女性が、そのことをシャルロットに伝えたことを後で知った。
 ある日、その女性から「シャルロットが来日し、大阪にいるのだが明後にはインド に向かうので、あなたにこちらで会えないかといっている」という連絡が入った。残 念ながら、筆者はその時、事情があって東京を離れられなかった。

 アルバムのリーフレットに、「…ロンドンのロスチャイルド家はまた、古くから日 本政府との付き合いが深いことで知られる。日本史を紐といてみると、ロンドンのロ スチャイルド銀行が日本政府に多額の融資をしていたことが判明する。例えば、日本 で2番目に作られた大江戸鉄道は、ロスチャイルド銀行によって建設されている し、…日露戦争では、ロスチャイルド銀行から多額の融資を受けて戦艦を買い、勝利 を収めている。また、1923年の関東大震災の被害に対しても多額の融資を受けてい る」と書かれている。

 このように、明治政府の近代化と戦争遂行には、ロスチャイルドの資金が決定的に 不可欠であった。

 フランス革命の息の根を止めることになる「ワーテルロー戦」で、フランスの敗北 を自らの目で確認し、嵐で荒れ狂うドーバー海峡を、決死の覚悟で漕ぎわたってロン ドンに引き返し、何も知らない投資家の前で、フランスが勝ったかのように欺いて巨 万の富を築いたロスチャイルドが、お人好しで日本に投資したわけではあるまい。時 あたかも、権謀術策の限りを尽くし、民族・国家存亡の死闘を演じる「帝国主義」の 時代である。

 「日英同盟」については、歴史の教科書で教わった。しかし、ロスチャイルド資金 のことは、教科書に出てこなかった。おそらく現在でも同じであろう。日本の近代国 家建設の過程で、隠されたままの事柄の多くあることが推察できる。

 外交上の、表面的でステロタイプな国家間の歴史しか学校では教えない。そんな死 んだような歴史を、十年一日のごとく教えつづける授業が面白いわけがない。これは おしなべて、メイン・カルチャーが著しく形骸化し、衰退したことと軌を一つにする ものであろう。

 もはや学校には、建前と建物だけがのさばっているにすぎない。そんなものに何の 魅力があろうか。大人たちの偽善を突き破る、エネルギッシュで生き生きとしたサブ ・カルチャーの魅力に、子供たちが心を奪われるのは当然の成り行きだ。

 天皇および天皇制についても、ほとんど何も知らないに等しい土壌の上に、マージ ナルな利権の口利き屋にすぎない「この国の指導者たち」が、慌てて厚化粧でもする ように「日の丸・君が代」を法制化したからとて、それが一体なんになろうか。厚化 粧が剥落するのは時間の問題だ!以下に駆け足で、江戸時代の天皇制を振り返ってみ る。

 ●10世紀央までで「天皇」は消滅していた

 1840年11月19日、明治天皇の曾祖父は70歳の生涯を終えた。翌1841年、この上皇に 「光格天皇」号がおくられた。江戸でも京都でも当時の人々は、古代の遺物のような 「天皇」という称号に、びっくり仰天した。
 昭和期以降のわれわれには想像もつかないことだが、それもそのはず、実はこの 「天皇」号、およそ900年の長き眠りから覚めた“不死鳥”であった。

 どういうことかというと、初代・神武天皇から第62代・村上天皇(在位946年から 967年)までは、まぎれもなく「天皇」であった。だが、第63代・冷泉から第119代の 後桃園までは、「天皇」ではなく「院」としか号していなかった。つまり、約900年 の長きにわたって、日本の歴史上から「天皇」は消滅していたのである。

 明治から大正期まででも、政府は「何々院天皇」と称し、なお「院」を引きずって いた。「院」を取り除き、「何々天皇」という呼称に統一する正式決定は、「昭和」 直前の1925年(大正14)のことであった。ずいぶんと最近のことである(参考文献: 藤田覚著『幕末の天皇』講談社選書メチエ)。

 また、天皇の名前は通常死後におくられ、生前の功績を称える美称としての諡号 (しごう)と、取り立てて称えない場合の追号(ついごう)がある。「光格」は諡号 で、「諡号+天皇」という最上級の称号がおくられたのは、実に955年ぶり!第58代 ・光孝天皇(在位884年から887年)以来であった。だが、「天皇」号はなくとも、天 皇制は存続した。それが天皇制の凄いところである。

 前号、前々号の本紙記事には、様々なご批判をいただいた。
 ある東北の高校で歴史の教諭されている方から、東北人がうけた苦しみを知れば、 「天皇制は充分に専制的で…(筆者がいう)穏やかな天皇観日本観は西日本ローカル なもの」で誤りである、というご指摘をいただいた。

 しかし、いかに東北人が辛酸をなめようとも、天皇制を「西日本ローカルなメンタ リティー」の問題に矮小化することは、大いなる過ちといわなければならない。

 “まつろわぬ蝦夷(えみし)の末裔”の深い怨念が、今日なお沸々とたぎっている ことは筆者も承知している。さらに、天皇制のおよばない“点”と“線”が、しぶと くかつ根強く息づいていることも承知している。

 しかし、抑圧と被抑圧、支配と被支配に伴う凄惨な社会的事象は、むろん東北だけ のことではない。時代を超えて無数にある。だが、それを含めて日本列島にしてはじ めて固有の歴史は、天皇制の枠組みの中で育まれた。

 余談になるが、かの東洋史の碩学・内藤湖南は、「現代日本を知るには応仁の乱以 後の歴史だけで充分で、それ以前の日本はまあ外国のようなもの」と語ったことは有 名な話だ。今日、われわれの目に見える衣食住にまつわる生活文化のほとんどは、 「応仁の乱」以後に生まれた。しかし、これでは目に見えない精神文化、すなわち 「日本人」がまったく見えてこない。面白いテーマだが、稿を改めたい。

 天皇制は日本列島の面と空間を支配した。ほかにそれをなしえたものはない。「専 制」も比較相対的なもので、陸続きで境界を接するヨーロッパやアジア諸国のそれに 比較すれば、日本の場合、局所、局部に限られ、悪く言えば、緊張感のない“ぬるま 湯”であった。

 したがって、地方によって濃淡の違いはあれ、東北地方(琉球と北海道を除く)を 含めた日本列島人が形成される過程の天皇制の役割を、過不足なく位置づけることを 筆者は試みている。なお、「琉球と北海道を除く」と断っているが、そこに天皇制の 支配がおよんだのは、近代国民国家成立以降で、それ以前、天皇制とは無縁の独自の 文化、宗教的伝統の空間だったからだ。
(次項につづく)


天皇制 2 (NO.208,1999/8/1)

 ●幕府、朝廷からも軽視された傍流の継承者

 植民地(すなわち富)を求める欧米列強の陰が、ひたひたと押し寄せてきた幕末の 頃、アジア諸国は次々と軍事的圧力の前に屈して植民地化され、富が収奪されていっ た。幕府もそれらの情報は把握していた。

 倒幕に成功した明治維新政府は、屈辱的な不平等条約下、苦心惨憺しながら日本の 植民地化の阻止に腐心する。植民地化されたアジア諸国のその後に味わった辛酸を見 るとき、植民地化を阻止し、不平等条約を撤廃させていった維新の偉業は、高く評価 されてしかるべきだ。

 また、欧米列強の外圧を受けた幕府が、日本列島の統率能力を喪失した幕末の混乱 期に、「攘夷」のスローガンを掲げ、日本列島の膨大なエネルギーを集中させた天皇 および天皇制の役割を、過不足なく評価することが重要だ。

 幕末維新の、天皇および天皇制の決定的な役割を準備したのが、第120代・光格天 皇であった。「光格」は歴史的にも特筆されてしかるべき天皇なのだが、その存在は あまり知られていない。

 江戸時代の不安定で危うい「皇位」(正確には「院位」というべきか)の継承は綱 渡りがつづいた。明正や後桜町のような女帝をたてて凌ぎさえした。第119代の後桃 園院は1779年、後嗣を決めないまま急逝したことから、その死は隠された。

 急遽、それまでの天皇家の血筋、血脈としては遠い傍流であった閑院宮という宮家 から、わずか9歳の祐宮(さちみや)を、後桃園院に養子縁組みさせることで継承 (その後現在の天皇に至る)問題をクリアーした。これは、もはやいかなる事態にな ろうとも「皇統」が絶えることは極めて困難であることを実証している。継承有資格 者の“すそ野”は決して狭くないからである。

 当初、祐宮が傍流であったことから、幕府はもとより、朝廷においても軽んじられ た。しかし、第120代は激動の幕末という政治状況を背に、時に幕府と激しく衝突し ながらなお、自らの主張を貫くという強靱な意志の持ち主であった。

 いやが上にも「皇統を継ぐ者」としての自負は強まり、朝廷の権威、威信回復に邁 進する。そのために、古い宮中の行事を次々と復活させた。それらの行事を執行する 厳格な「芸能者」であることこそが継承者の実態で、天皇の神性はそこに宿ってい た。

 第120代は、1779年から39年間在位し、退位後1840年に亡くなるまでの23年間、院 政を敷き、実質62年間の長きにわたって幕府との政争を担い、皇室の威厳回復の基盤 を築いていった。

 第120代在位の時代、列島各地で「打ち壊し」が頻発した。田沼失脚後の1787年、 将軍家お膝元の江戸や大阪で、大規模な打ち壊しが勃発した。幕末を待つことなく、 すでに幕府の御威光は色褪せ、治安維持能力は著しく衰えていた。時あたかもフラン ス革命の2年前。ヨーロッパと日本は、ほぼ時を同じくして「中世的矛盾」が暴発し ていた。

 1853年、アメリカ東インド艦隊司令長官・ペリーが浦賀に来航した。幕府は前年 に、「ペリーが来日し、開国要求を突きつける」旨の、オランダからの秘密報告書を 受け取っており、ペリー来航は承知のことであった。ただ無策なだけだった。

 幕府から朝廷にはこの動きは報告されなかったが、水戸藩主・徳川斉昭から、関白 ・鷹司政通(開国派)に情報が伝達されていた。
 これを受けた朝廷(すでに光格天皇の孫である第123代・孝明天皇に継承してい た)は何をやったのか?7社7寺に祈らせ、石清水、伊勢神宮での祈りを命じた。つ まり、この時点では、ただ祈るだけであった。

 翌1854年、ペリーが軍艦7隻を率いて神奈川沖にやってくる。余談になるが、これ らの外交交渉を通じて、幕府はアメリカの国旗に倣い、日の丸を国旗として掲揚し た。つまり、それ以前の日本列島に「国旗」などという概念は存在しなかった。
 幕府は3月3日、日米和親条約(神奈川条約)に調印し、5月には下田で和親条約 の付録(下田条約)に調印し、その後相次いでイギリス、ロシアと和親条約を締結す る。

 この時も朝廷は、幕府の判断を事後承認し、天皇は伊勢神宮以下畿内22社と伊雑 (いさわ)宮以下畿外11社、東照宮、賀茂社、石清水八幡宮など「神々を総動員」し て祈るだけであった。

 当時の朝廷は、外国艦船が大阪湾、または若狭湾に渡来することだけを恐れてい た。
 関白はその場合、天皇は御所を出てどこかに「避難しなければならない」と考えて いた。これに対して朝廷内では「避難」は名義を汚し、汚辱であるとの批判が強かっ たが、関白は「名義を汚そうと皇統を絶やさないことだ」として斥けている。

 火急の時、この「皇統を絶やさない」という言葉が登場する。だが、いかなる事態 にいたろうとも、「皇統」は容易に絶えるものでないことは、すでに上にみた。

 ●明治維新は「天皇の意向不在」の王政復古

 朝廷の不安は的中した。この年の7月、ロシア使節プチャーチンの乗る軍艦が、大 坂に突然姿を現した。朝廷内は大騒動になり、密かに彦根城への「遷都」の用意をす すめた。

 実際には「遷都」にはいたらなかったが、ここから先、政治情勢は急速に流動化し ていく。朝廷勢力は「鎖国」すなわち「攘夷」を主張しながら、倒幕のエネルギーを 吸収していった。一方、幕府勢力は欧米列強との軍事的衝突回避のためには「開国や むなし」と主張し、幕藩体制の建て直しに懸命になる。しかし、それぞれの側の内部 も常に流動的であった。

 幕府による「安政の大獄」(1858年)や、孝明天皇が幕府勢力そして薩摩藩などと 組んで、攘夷派の公家と長州藩兵を朝廷から追放する「8・18政変」(1863年)や、 「禁門の変」(1864年)などという、クーデターと逆襲というシーソーゲームを通し て、それぞれの内部での思想が純化されていった。当然、激変する政治情勢への対応 の誤りから、それぞれ多くの有為な人材の命を奪っていった。

 めまぐるしいつばぜり合いを経ながら、次第にその力関係が拮抗し、やがて逆転し ていく。しかし、孝明天皇自らが鮮明な「攘夷」の旗幟を掲げて育てた「下威」(身 分が低い)の尊皇攘夷派志士と、同派のやはり「下威」の公家が圧倒的な力を蓄える に至る。
 これによって、天皇の意向がまったく通らないという末期症状を招くことになる。

 天皇は「8・18政変」で彼らを弾圧し、自ら「攘夷」に疑念を表明してしまうまで に追いつめられる。ついに1865年、英米仏蘭の四国代表団を乗せた連合艦隊が兵庫沖 に来航。強烈な軍事威嚇のデモンストレーションを目の当たりにするにおよび、「万 人仰天」といわれた幕府の通商条約を承認してしまうのであった。

 これによって、天皇が幕末政治史に持っていた積極的な存在意義は失われ、孝明天 皇と朝廷の権威は急速に崩落する。「公武合体」すなわち幕府との協調を深めていっ た天皇に、朝廷内部からは「御立派に御孤立」の要求がだされ、岩倉具視を黒幕とす る「公家の一揆」が決行される(1866年8月)。しかし、あくまでも「江戸時代の枠 組み」を守ろうとする天皇は、これを処罰した。

 一方、この年の1月には、坂本龍馬の斡旋で抗幕の「薩長同盟」の密約がかわさ れ、江戸時代の政治体制を変革しようとする倒幕の動きはいや増していた。
 この年の12月25日、孝明天皇が突然亡くなる。まだ36歳であった。容体のあまりの 急変と、尋常ではない苦しみの様子、さらにはその死が4日ほど秘されたことから、 死の直後から「毒殺説」が囁かれた。

 明治天皇の外祖父・中山忠能(ただやす)は、日記に「内幕によく通じている一日 本人によって、私は帝が毒殺されたのだということを信じるようになった」と記して いる。最近、学者の間からも「ヒ素をもられた毒殺」説が論争を呼んだが、幼少の孝 明の子・明治天皇が即位した。摂政を頂点とする「天皇の意向」不在の中で、王政復 古がすすめられ、明治維新への扉が開けられていった。

 「尊皇攘夷」が維新のスローガンであった。それが、ひとたび倒幕に成功するや、 「攘夷」は蒸発してしまい、大勢は「文明開化」、「富国強兵」のスローガンにすん なりと収斂されていく。「鬼畜米英」のスローガンが、「民主主義」へと塗り代わ り、大きな混乱もなく移行していった戦後も同様であった。

 いま日本列島は、それらの時代状況と似たようなスケールで、価値観の大転換が迫 られている渦中にあるように思う。過去の日本列島人はそのようなとき、一体どのよ うに対応して生きてきたのか?次号では、維新のそんな背景などを考察してみたい。 ■

Jimbo Takami ,1999